清隆との出会い
10話までは毎日投稿します(する予定です)
二
春が過ぎ、初夏の風が吹き始めた頃。
藩主主催の茶会が催され、撫子は父母と共に出席していた。城下の大名屋敷に設けられた茶室には、藩の重臣たちが集い、格式高い調度品が品良く飾られている。
撫子は緊張することなく、優雅に振る舞っていた。幼い頃からこうした場には慣れ親しんでいる。背筋を伸ばし、所作に気を配り、適度に微笑む。それは身に染みついた習性だった。
茶会の合間、撫子は庭に面した廊下で休んでいた。初夏の風が心地よく、庭の青葉が眩しく輝いている。
その時、一人の若侍が近づいてきた。
「失礼いたします」
涼やかな声に顔を上げると、端正な顔立ちの男が立っていた。年の頃は二十代半ば。切れ長の目元には知性が宿り、穏やかな微笑みが口元に浮かんでいる。立ち姿は凛として美しく、纏う空気そのものが洗練されていた。
「隣の席が空いておりますが、よろしければ」
「どうぞ」
撫子が答えると、男は静かに腰を下ろした。その一連の動作には、無駄が一つもなかった。まるで舞を見ているかのように、全てが計算し尽くされた動き。
「申し遅れました。私は清隆と申します。隣藩より使者として参りました」
「撫子と申します」
「存じ上げております」
清隆は穏やかに微笑んだ。その笑顔には翳りがなく、まるで春の陽射しのように温かかった。
「ご尊父様には、日頃より藩政にてお世話になっております。お噂はかねがね伺っておりました」
「まあ、父のことをご存知でいらっしゃるのですね」
「ええ。ご尊父様は清廉潔白なお方と評判です。このような方のご息女とお会いできて、光栄に存じます」
清隆の言葉は丁寧で、礼儀正しかった。しかし、決して堅苦しくはない。適度な親しみやすさが、撫子の警戒心を自然と解いていった。
「お美しい方だと聞いておりましたが、噂以上でございますね」
「まあ、お上手ですこと」
撫子は少し頬を染めながらも、社交辞令として受け流した。この手の言葉は幾度となく聞いてきた。大抵は空虚なお世辞に過ぎない。
けれど、清隆の目は違った。真っ直ぐに撫子を見つめ、嘘のない光を湛えている。
「お世辞ではございません」
清隆は静かに、しかし確かな声で言った。
「美しさとは、顔かたちだけではありません。立ち居振る舞い、言葉遣い、そして何より、その方の心が表れるものです。撫子様は、全てにおいて美しい」
その言葉に、撫子の心が微かに揺れた。
茶会の後も、清隆は何かと撫子に話しかけてきた。話題は多岐にわたり、清隆はどんな話にも造詣が深かった。最近読んだ書物のこと、書道の稽古のこと、季節の花のこと。撫子が何を言っても、清隆は的確に応じ、会話を膨らませてくれた。
あまりにも完璧だった。
話し方も、立ち居振る舞いも、言葉の選び方も。全てに一点の隙もなかった。まるで長い時間をかけて練習してきたかのような、完成された所作。
けれど撫子は、その完璧さに違和感を覚えるどころか、惹かれていった。
これほど教養があり、これほど誠実で、これほど優しい人がいるものだろうか。理想の殿方とは、きっとこういう人を言うのだろう。
撫子は気づかなかった。
その「完璧さ」こそが、最も不自然であることに。
人間は完璧ではいられない。どこかに欠点があり、どこかに隙がある。それが自然なのだ。
けれど清隆には、それがなかった。
全ての言動が計算されている。全ての表情が設計されている。撫子を落とすために、完璧に作り上げられた仮面。
そして撫子は、その仮面を本物だと信じ込んだ。
夏が過ぎ、秋が深まった。
月見の宴が開かれ、撫子と清隆は再び顔を合わせた。宴が終わった後、二人は庭に出た。中天に昇った満月が、庭を青白い光で照らしている。秋の虫が静かに鳴き、どこからか金木犀の香りが漂ってくる。
「美しい月ですね」
清隆が空を見上げながら言った。
「ええ。まるで、この世のものとは思えないわ」
「撫子様」
清隆が撫子の方を向いた。月明かりの中、その端正な顔が神秘的に輝いている。
「私は、この数ヶ月、ずっと考えておりました」
「何を...でしょうか」
「撫子様のことを」
心臓が大きく跳ねた。
「私は、あなたをお慕いしております」
世界が止まったような気がした。
撫子は二十年生きてきて、恋をしたことがなかった。書物の中の恋物語は知っていたけれど、それはあくまで他人事だった。
だから、この胸の高鳴りが何なのか、すぐには分からなかった。
けれど、分かった時、全てが色を変えた。
「清隆様...私も...」
言葉が上手く出てこない。頬が熱い。
「私も、清隆様のことを...お慕いしております」
清隆は優しく微笑み、撫子の手を取った。
「嬉しい。これほど嬉しいことは、生まれて初めてです」
「私も...」
「撫子様。いつか、あなたを妻に迎えたい」
その言葉に、撫子は涙を浮かべて頷いた。
月だけが、二人を静かに見下ろしていた。
それからの日々は、夢のようだった。
文のやり取り。密かな逢瀬。清隆はいつも優しく、撫子を大切に扱った。完璧な恋人だった。あまりにも完璧すぎて、疑う余地などなかった。
「お嬢様、最近はとても楽しそうでいらっしゃいますね」
ある日、紗世が髪を梳きながら言った。
「そう見える?」
「はい。お顔が輝いておられます」
撫子は鏡の中の自分を見つめた。確かに、以前よりも表情が明るくなっている。
「紗世。私、恋をしているの」
「存じ上げております」
紗世は微笑んだ。けれど、その笑顔がどこか翳っているように見えた。
「紗世? どうかしたの」
「...お嬢様がお幸せなら、それで良いのです。ただ...」
「ただ?」
紗世は言葉を選ぶように、少し間を置いた。
「清隆様は、完璧すぎるように思えて...」
「完璧すぎる?」
「申し訳ございません。私の杞憂でございましょう」
紗世は再び髪を梳き始めた。撫子は少し気になったが、それ以上は追及しなかった。
けれど、紗世の直感は正しかった。
一方、屋敷の片隅では、別の密会が行われていた。
「志乃」
人目を避けた土蔵の裏。清隆が志乃に声をかけた。
「清隆様...」
志乃は頬を紅潮させ、清隆を見上げた。
清隆は優しく微笑み、志乃の肩にそっと手を置いた。
「志乃。お前は、辛かっただろう」
その言葉に、志乃は目を見開いた。
「八年間、この屋敷で。誰もお前を見ていなかった。お前がどれだけ働いても、誰も認めなかった」
清隆の声は静かで、優しかった。
「撫子は何も知らない。あの方は生まれた時から全てを持っていた。だから、お前の苦しみなど、理解できるはずもない」
志乃の目に涙が浮かんだ。
「でも、私は違う。私はお前を見ていた。お前の価値を知っている」
清隆は志乃の頬に触れた。
「志乃。お前は、本当は気づいているんだろう? あの女が、お前をどう見ているか」
志乃は唇を噛んだ。
「道具だ。紗世には笑顔を向け、小百合には優しくする。だが、お前には?」
「...何も」
「そうだ。何もない。お前は、いないも同然なんだ。あの女にとって」
清隆は志乃を抱き寄せた。
「だが、私は違う。お前は、私にとって最も大切な人間だ」
志乃は震えながら、清隆の胸に顔を埋めた。
清隆は志乃の頭を優しく撫でながら、囁いた。
「なぁ、志乃。私の助けになってくれないか」
「...助け?」
「ああ。お前にしか、頼めなかった」
その言葉に、志乃の心臓が高鳴った。清隆様が、私を頼ってくださる。私だけを。
「これが全て終わったら...」
清隆は志乃の耳元で、優しく囁いた。
「お前と、二人で新しい人生を始めよう」
志乃の目に涙が溢れた。
「本当...ですか...」
「ああ。約束する」
清隆は志乃の額にそっとキスをした。
「だから、力を貸してくれ」
志乃は何度も頷いた。
「何を...すれば...」
「今は、まだいい」
清隆は志乃の唇に指を当てた。
「その時が来たら、お前に伝える。それまでは、いつも通りにしていてくれ」
「はい...」
「ただ一つだけ」
清隆は志乃の目を見つめた。
「これは、私たち二人だけの秘密だ」
志乃は頷いた。
清隆は満足そうに微笑み、志乃を抱きしめた。
その目は、冷たく光っていた。




