表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
緋色の月に抱かれて ―永遠の孤独と四つ葉の誓い―  作者: 月代 緋色


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

2/17

清隆との出会い

10話までは毎日投稿します(する予定です)


春が過ぎ、初夏の風が吹き始めた頃。


藩主主催の茶会が催され、撫子は父母と共に出席していた。城下の大名屋敷に設けられた茶室には、藩の重臣たちが集い、格式高い調度品が品良く飾られている。


撫子は緊張することなく、優雅に振る舞っていた。幼い頃からこうした場には慣れ親しんでいる。背筋を伸ばし、所作に気を配り、適度に微笑む。それは身に染みついた習性だった。


茶会の合間、撫子は庭に面した廊下で休んでいた。初夏の風が心地よく、庭の青葉が眩しく輝いている。


その時、一人の若侍が近づいてきた。


「失礼いたします」


涼やかな声に顔を上げると、端正な顔立ちの男が立っていた。年の頃は二十代半ば。切れ長の目元には知性が宿り、穏やかな微笑みが口元に浮かんでいる。立ち姿は凛として美しく、纏う空気そのものが洗練されていた。


「隣の席が空いておりますが、よろしければ」


「どうぞ」


撫子が答えると、男は静かに腰を下ろした。その一連の動作には、無駄が一つもなかった。まるで舞を見ているかのように、全てが計算し尽くされた動き。


「申し遅れました。私は清隆と申します。隣藩より使者として参りました」


「撫子と申します」


「存じ上げております」


清隆は穏やかに微笑んだ。その笑顔には翳りがなく、まるで春の陽射しのように温かかった。


「ご尊父様には、日頃より藩政にてお世話になっております。お噂はかねがね伺っておりました」


「まあ、父のことをご存知でいらっしゃるのですね」


「ええ。ご尊父様は清廉潔白なお方と評判です。このような方のご息女とお会いできて、光栄に存じます」


清隆の言葉は丁寧で、礼儀正しかった。しかし、決して堅苦しくはない。適度な親しみやすさが、撫子の警戒心を自然と解いていった。


「お美しい方だと聞いておりましたが、噂以上でございますね」


「まあ、お上手ですこと」


撫子は少し頬を染めながらも、社交辞令として受け流した。この手の言葉は幾度となく聞いてきた。大抵は空虚なお世辞に過ぎない。


けれど、清隆の目は違った。真っ直ぐに撫子を見つめ、嘘のない光を湛えている。


「お世辞ではございません」


清隆は静かに、しかし確かな声で言った。


「美しさとは、顔かたちだけではありません。立ち居振る舞い、言葉遣い、そして何より、その方の心が表れるものです。撫子様は、全てにおいて美しい」


その言葉に、撫子の心が微かに揺れた。


茶会の後も、清隆は何かと撫子に話しかけてきた。話題は多岐にわたり、清隆はどんな話にも造詣が深かった。最近読んだ書物のこと、書道の稽古のこと、季節の花のこと。撫子が何を言っても、清隆は的確に応じ、会話を膨らませてくれた。


あまりにも完璧だった。


話し方も、立ち居振る舞いも、言葉の選び方も。全てに一点の隙もなかった。まるで長い時間をかけて練習してきたかのような、完成された所作。


けれど撫子は、その完璧さに違和感を覚えるどころか、惹かれていった。


これほど教養があり、これほど誠実で、これほど優しい人がいるものだろうか。理想の殿方とは、きっとこういう人を言うのだろう。


撫子は気づかなかった。


その「完璧さ」こそが、最も不自然であることに。


人間は完璧ではいられない。どこかに欠点があり、どこかに隙がある。それが自然なのだ。


けれど清隆には、それがなかった。


全ての言動が計算されている。全ての表情が設計されている。撫子を落とすために、完璧に作り上げられた仮面。


そして撫子は、その仮面を本物だと信じ込んだ。


夏が過ぎ、秋が深まった。


月見の宴が開かれ、撫子と清隆は再び顔を合わせた。宴が終わった後、二人は庭に出た。中天に昇った満月が、庭を青白い光で照らしている。秋の虫が静かに鳴き、どこからか金木犀の香りが漂ってくる。


「美しい月ですね」


清隆が空を見上げながら言った。


「ええ。まるで、この世のものとは思えないわ」


「撫子様」


清隆が撫子の方を向いた。月明かりの中、その端正な顔が神秘的に輝いている。


「私は、この数ヶ月、ずっと考えておりました」


「何を...でしょうか」


「撫子様のことを」


心臓が大きく跳ねた。


「私は、あなたをお慕いしております」


世界が止まったような気がした。


撫子は二十年生きてきて、恋をしたことがなかった。書物の中の恋物語は知っていたけれど、それはあくまで他人事だった。


だから、この胸の高鳴りが何なのか、すぐには分からなかった。


けれど、分かった時、全てが色を変えた。


「清隆様...私も...」


言葉が上手く出てこない。頬が熱い。


「私も、清隆様のことを...お慕いしております」


清隆は優しく微笑み、撫子の手を取った。


「嬉しい。これほど嬉しいことは、生まれて初めてです」


「私も...」


「撫子様。いつか、あなたを妻に迎えたい」


その言葉に、撫子は涙を浮かべて頷いた。


月だけが、二人を静かに見下ろしていた。


それからの日々は、夢のようだった。


文のやり取り。密かな逢瀬。清隆はいつも優しく、撫子を大切に扱った。完璧な恋人だった。あまりにも完璧すぎて、疑う余地などなかった。


「お嬢様、最近はとても楽しそうでいらっしゃいますね」


ある日、紗世が髪を梳きながら言った。


「そう見える?」


「はい。お顔が輝いておられます」


撫子は鏡の中の自分を見つめた。確かに、以前よりも表情が明るくなっている。


「紗世。私、恋をしているの」


「存じ上げております」


紗世は微笑んだ。けれど、その笑顔がどこか翳っているように見えた。


「紗世? どうかしたの」


「...お嬢様がお幸せなら、それで良いのです。ただ...」


「ただ?」


紗世は言葉を選ぶように、少し間を置いた。


「清隆様は、完璧すぎるように思えて...」


「完璧すぎる?」


「申し訳ございません。私の杞憂でございましょう」


紗世は再び髪を梳き始めた。撫子は少し気になったが、それ以上は追及しなかった。


けれど、紗世の直感は正しかった。


一方、屋敷の片隅では、別の密会が行われていた。


「志乃」


人目を避けた土蔵の裏。清隆が志乃に声をかけた。


「清隆様...」


志乃は頬を紅潮させ、清隆を見上げた。


清隆は優しく微笑み、志乃の肩にそっと手を置いた。


「志乃。お前は、辛かっただろう」


その言葉に、志乃は目を見開いた。


「八年間、この屋敷で。誰もお前を見ていなかった。お前がどれだけ働いても、誰も認めなかった」


清隆の声は静かで、優しかった。


「撫子は何も知らない。あの方は生まれた時から全てを持っていた。だから、お前の苦しみなど、理解できるはずもない」


志乃の目に涙が浮かんだ。


「でも、私は違う。私はお前を見ていた。お前の価値を知っている」


清隆は志乃の頬に触れた。


「志乃。お前は、本当は気づいているんだろう? あの女が、お前をどう見ているか」


志乃は唇を噛んだ。


「道具だ。紗世には笑顔を向け、小百合には優しくする。だが、お前には?」


「...何も」


「そうだ。何もない。お前は、いないも同然なんだ。あの女にとって」


清隆は志乃を抱き寄せた。


「だが、私は違う。お前は、私にとって最も大切な人間だ」


志乃は震えながら、清隆の胸に顔を埋めた。


清隆は志乃の頭を優しく撫でながら、囁いた。


「なぁ、志乃。私の助けになってくれないか」


「...助け?」


「ああ。お前にしか、頼めなかった」


その言葉に、志乃の心臓が高鳴った。清隆様が、私を頼ってくださる。私だけを。


「これが全て終わったら...」


清隆は志乃の耳元で、優しく囁いた。


「お前と、二人で新しい人生を始めよう」


志乃の目に涙が溢れた。


「本当...ですか...」


「ああ。約束する」


清隆は志乃の額にそっとキスをした。


「だから、力を貸してくれ」


志乃は何度も頷いた。


「何を...すれば...」


「今は、まだいい」


清隆は志乃の唇に指を当てた。


「その時が来たら、お前に伝える。それまでは、いつも通りにしていてくれ」


「はい...」


「ただ一つだけ」


清隆は志乃の目を見つめた。


「これは、私たち二人だけの秘密だ」


志乃は頷いた。


清隆は満足そうに微笑み、志乃を抱きしめた。


その目は、冷たく光っていた。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ