外伝『報われない執着』
アザール編になります。
外伝『報われない執着』
*
始まりは、遥か昔のことだった。
アザールがまだ人間だった頃。
古代の都市。砂漠の風が吹き抜ける王宮で、アザールは一人の女を見た。
彼女は王の侍女だった。名は知らない。けれど、その姿は今も鮮明に覚えている。
黒い髪。黒い瞳。主のために全てを捧げる女。
王が無理難題を言えば、彼女は必ずそれを叶えようとした。どれほど困難であっても、どれほど理不尽であっても。
王が危機に陥れば、彼女は自らの命を盾にした。何の躊躇いもなく。
アザールは、それを見ていた。
憧れだった。
あれほどまでに一途に、誰かに尽くせる人間がいるのかと。あれほどまでに純粋に、誰かを想える魂があるのかと。
アザールは彼女に近づいた。声をかけた。
「あなたは、なぜそこまで王に尽くすのですか」
彼女は微笑んだ。
「それが、私の生きる意味だからです」
「けれど、王はあなたを大切にしていない」
それは事実だった。王は暴君だった。侍女たちを道具のように扱い、気に入らなければ処刑した。彼女も、いつ殺されてもおかしくなかった。
「分かっています」
彼女は答えた。
「それでも、私は王にお仕えします」
「なぜ」
「それが……私だからです」
理解できなかった。けれど、アザールはその瞳に惹かれた。
どこまでも澄んだ、黒い瞳。
アザールは彼女に言った。
「私のもとへ来ないか。私なら、あなたを大切にする」
彼女は首を横に振った。
「申し訳ございません。私は、王のものです」
「王はあなたを殺すかもしれない」
「それでも」
彼女は微笑んだ。
「私は、王のものです」
アザールは諦められなかった。何度も声をかけた。何度も説得した。
けれど、彼女は変わらなかった。
やがて、王の怒りを買い、彼女は処刑された。
アザールは、その場にいた。
彼女は最期まで、王への忠誠を誓いながら死んでいった。
「なぜだ……」
アザールは呟いた。
「なぜ、あれほどの魂が……あんな屑のために……」
その夜、アザールは闇の中で誓った。
彼女の魂を——必ず、見つける。
必ず、手に入れる。
*
その夜、アザールは闇の存在と出会った。
それは悪魔だったのか、それとも別の何かだったのか。今となっては分からない。
偶然だったのか、必然だったのか、気まぐれだったのか分からないが…
砂漠の夜。月明かりの下で、それは囁いた。
「永遠の命が欲しいか」
「ああ」
アザールは即答した。
「彼女の魂を追い続けるために」
「その代償として、お前は人間ではなくなる。血を啜り、闇に生きる者となる」
「構わない」
アザールに躊躇いはなかった。
「彼女を手に入れるためなら、何でもする」
闇がアザールを包んだ。
激痛が走った。体が燃えるように熱く、同時に凍えるように冷たかった。
心臓が止まった。
けれど、アザールは死ななかった。
目を開けた時、世界は変わっていた。
夜が、昼のように明るく見えた。人々の血の匂いが、風に乗って届いた。
アザールは吸血鬼になった。
永遠の命を手に入れた。
彼女の魂を、永遠に追い続ける力を。
*
それから、何千年もの時が流れた。
アザールは世界中を巡った。
東の果てから西の果てまで。北の氷原から南の砂漠まで。
彼女の魂を探し続けた。
輪廻。魂は死んでも消えない。新しい体に宿り、また生まれ変わる。
アザールは彼女の魂を見つけた。何度も。何度も。
*
二度目に見つけたのは、数百年後だった。
異国の地。雪深い山岳地帯の小さな村で。
彼女は領主の下女だった。
姿は違っていた。髪の色も、瞳の色も、顔立ちも違っていた。金色の髪に、青い瞳。北方の民の姿をしていた。
けれど、アザールには分かった。あの魂だと。
魂の輝きは、姿が変わっても変わらない。
彼女は領主に仕えていた。
領主は残酷な男だった。下女たちを虐げ、気まぐれに罰を与えた。
けれど、彼女は逃げなかった。
どれほど酷い仕打ちを受けても、彼女は領主に仕え続けた。
「なぜ逃げない」
アザールは問うた。
「私は……領主様のものです」
同じ言葉だった。姿は違うのに、言葉は同じだった。
「私のもとへ来い。私なら、お前を大切にする」
「申し訳ございません」
彼女は首を横に振った。
「私には、お仕えする方がいます」
アザールは彼女を吸血鬼にしようとした。
永遠の命を与えれば、永遠に傍にいられる。そう考えた。
彼女の血を吸い、自らの血を与えた。
けれど——彼女の体は拒絶した。
変化に耐えられず、彼女は苦しみながら灰になって崩れ落ちた。
アザールは呆然と、灰を見つめた。
また、失った。
*
三度目は、東方の帝国で。
彼女は宦官に仕える侍女だった。
褐色の肌に、黒い瞳。顔立ちは最初の彼女とは全く違った。
けれど、魂は同じだった。
主のために生き、主のために尽くす魂。
その宦官は陰険な男だった。侍女たちを駒のように使い、邪魔になれば殺した。
アザールは問うた。
「なぜ、あんな男に仕える」
「それが、私の務めですから」
同じ答えだった。
アザールは再び、彼女を吸血鬼にしようとした。
今度こそ、と願った。
けれど——結果は同じだった。
彼女の体は吸血鬼の血を受け入れず、崩壊した。
アザールの腕の中で、彼女は灰になった。
*
四度目。五度目。六度目。
何度も、同じことが繰り返された。
彼女の魂は、様々な国で生まれ変わった。
砂漠の国で。雪の国で。海辺の国で。山岳の国で。島国で。大陸で。
姿は毎回違った。肌の色も、髪の色も、瞳の色も違った。男になったこともあった。
けれど、魂は同じだった。
そして、いつも同じだった。
主のために生きる。主のために死ぬ。
どれほど主が屑であっても。どれほど理不尽な扱いを受けても。
彼女は——いや、その魂は——主への忠誠を曲げなかった。
そして、いつも——主は男だった。
屑のような、どうしようもない男。
アザールは何度も声をかけた。
「私のもとへ来い」
「私を見ろ」
「お前にはもっと良い主がいる」
けれど、答えはいつも同じだった。
「申し訳ございません」
あの澄んだ瞳で、静かに首を横に振る。
*
アザールは何度も、彼女を吸血鬼にしようとした。
七度目。
地中海沿岸の港町で見つけた彼女。商人の奴隷だった。
吸血鬼の血を与えた瞬間、彼女の体は痙攣し、崩壊した。
八度目。
北方の王国で見つけた彼女。騎士の従者だった。
血を与えた直後、彼女は苦しみ始め、やがて灰になった。
九度目。
東方の島々で見つけた彼女。族長の側仕えだった。
今度こそ、と願った。けれど、結果は同じだった。
十度目。十一度目。十二度目。
何度試しても、彼女の魂は吸血鬼の力を受け入れなかった。
まるで、永遠を拒んでいるかのように。
まるで、主以外の者に縛られることを拒んでいるかのように。
*
アザールは狂い始めていた。
彼女を手に入れられない苛立ち。何度も失う絶望。そして、それでも諦められない執着。
アザールは荒れた。
多くの人間を吸血鬼にした。彼女の魂ではない者たちを。
眷属を作った。何十人も、何百人も。
けれど、どれほど眷属が増えても、心は満たされなかった。
彼女がいない。彼女がいなければ、意味がない。
眷属たちは次々と倒れていった。人間の狩人に討たれる者。太陽の下で灰になる者。互いに争って滅びる者。
アザールは気にしなかった。
彼女以外の者など、どうでもよかった。
*
千年が過ぎた。
二千年が過ぎた。
三千年が過ぎた。
アザールは彼女の魂を追い続けた。
見つけては、失った。
見つけては、失った。
何度も。何度も。何度も。
数え切れないほどの転生を見てきた。
数え切れないほどの死を見てきた。
そのたびに、アザールの心は壊れていった。
けれど、諦められなかった。
彼女の魂は——永遠に、主への忠誠を曲げなかった。
アザールを見ることは——一度もなかった。
*
そして——ある日。
アザールは、彼女を見つけた。
東の島国。江戸と呼ばれる時代。
彼女の魂は、ある武家の侍女に宿っていた。
黒い髪。黒い瞳。
今回は、姿も似ていた。あの最初の彼女に。何千年も前に、砂漠の王宮で見た彼女に。
彼女は——紗世という名だった。
アザールは息を呑んだ。
そして、気づいた。
今回は、違う。
紗世が仕えているのは、男ではない。
女だ。
撫子という名の、美しい娘。武家の姫君。
アザールは見守った。
撫子は優しい娘だった。紗世を大切にしていた。友として、姉妹のように接していた。
紗世は撫子に仕えていた。今までと同じように、主のために全てを捧げて。
けれど、今回は——主が違う。
屑ではない。紗世を虐げない。紗世を大切にしている。
そして、紗世は——幸せそうだった。
アザールは見守り続けた。
何かが、変わるかもしれない。
何千年もの間、ずっと屑のような男の主に仕えてきた魂。
今回は、違う。
今回こそ、違うかもしれない。
*
悲劇が起きた。
撫子の家が襲われた。父が殺され、母が殺され、妹が殺された。
屋敷が燃えた。
撫子は死にかけていた。紗世も死にかけていた。
アザールは決断した。
撫子を吸血鬼にした。
撫子は変化に耐え、吸血鬼として蘇った。
そして——撫子は紗世を救うため、自らの血を与えた。
紗世は吸血鬼になった。
今度は——成功した。
紗世の魂は、吸血鬼の力を受け入れた。
何度試しても失敗してきたのに。何十回と試みて、全て失敗してきたのに。
今回は、成功した。
アザールには分かっていた。
紗世は、撫子のために吸血鬼になることを受け入れたのだ。
主のために。
主と共に、永遠を生きるために。
アザールの胸に、苦いものが込み上げた。
結局、彼女は——主のためにしか、生きられないのだ。
主のためでなければ、永遠すら受け入れない。
それでも——紗世は吸血鬼になった。
永遠の命を持つ存在になった。
アザールは策を練り始めた。
紗世を——いつか必ず、手に入れる。
*
三百年が過ぎた。
撫子と紗世は、共に生き続けた。
アザールは遠くから見守っていた。
紗世は変わらなかった。
撫子のために生き、撫子のために尽くし、撫子だけを見ていた。
三百年もの間、ずっと。
アザールは待った。
いつか、機会が来る。
いつか、紗世を手に入れる時が来る。
そして——その時は来た。
*
撫子が灰になった。
人間に戻ろうとして、失敗して、灰になった。
紗世は泣いた。
廃寺の境内で、灰の前で、声が枯れるまで泣いた。
アザールは見ていた。
紗世がこれほど泣くのを、初めて見た。
何千年もの間、彼女の魂を見てきた。何度も主を失い、何度も死んでいくのを見てきた。
けれど、これほど泣くのは——初めてだった。
紗世はアザールに詰め寄った。
「なぜですか……!」
アザールは答えた。輪廻のことを。撫子の魂がいずれ生まれ変わることを。
紗世の瞳に、光が戻った。
「待ちます」
紗世は言った。
「何年でも、何十年でも……撫子様が生まれ変わるまで、待ちます」
アザールは問うた。
「永遠に、待ち続けるのか」
「はい。それが……私の永遠です」
その瞬間、アザールは言った。
「私が力を貸そう」
紗世はアザールを見つめた。
「お前が撫子の転生を見つけるまで、私がお前を守る」
「……なぜ」
「代償として、お前は私の傍にいる。永遠に」
紗世は暫く黙っていた。
アザールを見つめる瞳は、どこまでも冷静だった。
「……いいでしょう」
紗世は頷いた。
「撫子様を見つけるためなら……何でもします」
アザールは微笑んだ。
何千年も待った。
やっと——手に入れた。
*
アザールと紗世の「共存」が始まった。
八十年以上もの間、二人は共に旅をした。
紗世は撫子の転生を探し続けた。アザールは紗世の傍にいた。
アザールは手に入れたものがあった。
紗世の体。傍にいさせることができる。
紗世の力。繋がっている。
けれど——手に入らなかったものもあった。
紗世の心。
紗世の忠誠。
紗世の心は、永遠に撫子のもとにあった。
紗世はアザールの傍にいた。アザールの力を借りていた。
けれど、紗世の瞳は——いつも、どこか遠くを見ていた。
ある夜、アザールは問うた。
「なぜお前は、私を見ない」
紗世は静かに答えた。
「あなたを見ています」
「違う」
アザールの声が、低くなった。
「お前の目は、いつもどこか遠くを見ている」
紗世は暫く黙っていた。
やがて、静かに言った。
「……お嬢様を探しているのかもしれません」
「あの女は死んだ」
「でも、また生まれ変わります。そしていつか、また出会えます」
「私は……」
アザールは言葉を切った。
何千年も待った。やっと手に入れた。けれど、心は手に入らない。
紗世は静かに問うた。
「あなたは、私を手に入れました。でも、私の心は手に入りません」
その言葉が、アザールの胸を抉った。
「それで……満足ですか?」
沈黙が流れた。
月明かりが、二人を照らしていた。
アザールは答えた。
「……満足だ」
嘘だった。
「お前がいればいい」
それだけは——本当だった。
*
紗世は撫子の転生を見つけた。
公園で、四つ葉のクローバーを差し出す少女。
紗世は泣いた。嬉しそうに、幸せそうに泣いた。
アザールは木陰から、それを見ていた。
紗世のあんな顔を、初めて見た。
あんなにも嬉しそうな顔。あんなにも幸せそうな笑顔。
何千年もの間、彼女の魂を見てきた。けれど、あんな顔は見たことがなかった。
自分といる時には、決して見せない顔だった。
アザールの胸が、締め付けられるように痛んだ。
*
帰り道。
月明かりの下、アザールと紗世は並んで歩いていた。
紗世の手には、四つ葉のクローバー。
撫子からもらった、幸せの証。
「どうだった」
アザールは問うた。
「お嬢様は……幸せだと。きらきらと笑顔で……」
紗世の声は、震えていた。嬉しさで。
「そうか」
アザールは短く答えた。
「ならば、帰ろう」
二人は闇の中へ歩いていく。
*
夜の闘の中。
アザールは立ち止まった。
紗世も足を止めた。
「何か?」
「いや……」
アザールは紗世を見つめた。
何千年も追い続けた魂。やっと手に入れた存在。
けれど——
心は、手に入らなかった。
「何千年も待った」
アザールは呟いた。
「やっと手に入れた。心がなくても、体があればいい。傍にいれば、それでいい」
紗世は何も言わなかった。
アザールは続けた。
「そうだろう……?」
誰にも聞こえない問いかけ。
答える者は、いなかった。
月明かりが、二人を照らしていた。
紗世の手には、四つ葉のクローバー。
その瞳は——どこか遠くを見ていた。
撫子のいる場所を。
アザールは目を閉じた。
何千年もの執着は、報われない。
分かっていた。
最初から、分かっていた。
彼女の魂は——主のためにしか、生きられない。
そして今、彼女の主は——撫子だ。
自分ではない。
永遠に、自分ではない。
それでも——
アザールは紗世の傍にいる。
永遠に。
どす黒い執着は、報われない。
けれど、それでも——離さない。
「行くぞ」
アザールは歩き出した。
紗世はその後に続いた。
二人の影が、月明かりの中に溶けていく。
永遠を共に歩む、二つの影。
それは愛ではない。
執着と、諦めと、それでも離れられない絆。
月だけが、静かに見守っている。
何千年も前から。
そして、これからも——永遠に。
【外伝『報われない執着』完】
最後までお読みいただき、ありがとうございました。
拙い文章ではありましたが、撫子と紗世の物語が、皆様の心に少しでも残れば幸いです。
また別の物語でお会いできることを願って。




