永遠の絆
本編はこれで完結します。
最終話
太陽が、撫子を照らしていた。
七日間の儀式を乗り越え、撫子は人間に戻った。そう信じていた。
温かい光。優しい光。三百年ぶりに浴びる、生命の光。
撫子は両手を広げ、太陽の光を全身に受けていた。頬を伝う涙が、朝日に輝いている。
『人間に戻れた……』
心の中で、何度もその言葉を繰り返した。
『蓮さんと……一緒に生きられる……』
蓮の優しい笑顔が浮かんだ。「また会いましょう」と言ってくれた声。あの温かい手の感触。
『紗世にも……会いに行かなきゃ……』
三百年、傍にいてくれた紗世。「行ってらっしゃいませ」と見送ってくれた紗世。人間に戻れたことを、一番に伝えたかった。
撫子は微笑んだ。希望に満ちた、穏やかな微笑み。
そして——立ち上がろうとした。
その時だった。
指先に、違和感を覚えた。
何か……おかしい。
視線を落とす。
右手の指先が——さらさらと崩れ落ちていた。
「え……」
撫子は自分の目を疑った。
灰。
指先が、灰になって散っていく。風に吹かれて、さらさらと。
「嘘……」
声が震えた。
崩壊は止まらなかった。指先から手の甲へ、手の甲から手首へ。
「嫌……嫌よ……!」
撫子は叫んだ。左手で右腕を押さえようとした。けれど、触れた瞬間、左手の指先も崩れ始めた。
「やめて……! やめて……!」
崩壊は広がっていく。手首から腕へ、腕から肘へ。
止められない。何をしても、止められない。
「やはり……体が持たなかったか」
アザールの声が聞こえた。
撫子は振り返ろうとした。けれど、体が思うように動かなかった。
「三百年は……長すぎた」
アザールは祭壇の傍に立っていた。その瞳には、何かが揺れているように見えた。
「人間に戻るには、お前の体は……もう限界を超えていた」
「そんな……」
撫子の声が掠れた。
「嘘よ……だって……太陽が……温かいのに……」
「最初は成功したように見えた。だが……体の奥底まで染み込んだ三百年の闇は、そう簡単には消えない」
アザールの声は、どこか悲しげだった。
「お前の体は……人間に戻ることに耐えられなかった」
崩壊は続いていた。腕が崩れる。肩が崩れる。
撫子は空を見上げた。青く澄んだ空。温かい太陽。
『なぜ……』
涙が溢れた。けれど、その涙すらも、灰になって散っていく。
『せっかく……人間に戻れたのに……』
記憶が、走馬灯のように蘇ってきた。
父の顔。優しく微笑んでくれた父。「撫子、お前は私の誇りだ」と言ってくれた声。
母の顔。温かく抱きしめてくれた母。子守唄を歌ってくれた夜。
小百合の顔。無邪気に笑う妹。「お姉様、これあげる」と野の花を差し出してくれた日。
紗世の顔。三百年、傍にいてくれた友。「行ってらっしゃいませ、撫子様」と見送ってくれた声。
そして——蓮の顔。
優しい瞳。穏やかな笑顔。「僕と……結婚してください」と言ってくれた声。「また会いましょう」という約束。
『蓮さん……』
会いたかった。もう一度、会いたかった。
手を繋いで、公園のベンチに座って、秋の陽射しの中で笑い合いたかった。
けれど、もう叶わない。
崩壊は胸にまで達していた。
『紗世……』
心の中で、その名を呼んだ。
『ごめんね……約束、守れなかった……』
ずっと傍にいてくれた紗世。何があっても、撫子を支えてくれた紗世。
もう、会えない。
崩壊は首にまで達していた。視界が白くなっていく。
「紗世……」
声が出た。最後の力を振り絞って。
「蓮さん……」
涙が、灰になって散った。
「ごめん……なさい……」
そして——
撫子の体は、完全に灰になった。
朝日の中で、灰がさらさらと風に舞う。
三百年の時を生きた吸血鬼は、太陽の下で消えていった。
温かい光の中で。
穏やかな朝の中で。
撫子は、灰になった。
*
同じ時刻。
列車が、線路の上を走っていた。
車窓の外には、田園風景が広がっている。稲穂が黄金色に輝き、秋の訪れを告げていた。
蓮は窓際の席に座り、外の景色を眺めていた。
車内には、同じように徴兵された若者たちが座っていた。誰もが緊張した面持ちで、口数は少なかった。
蓮の胸ポケットには、小さな花が押し花にして入れてあった。撫子に渡した花束と同じ種類の花。
『撫子さん……』
蓮は窓の外を見つめながら、思った。
あの日、公園で別れた時の撫子の顔が浮かんだ。涙を流しながら、それでも微笑んでくれた顔。
『泣かせてしまった……』
後悔していた。もっと早く、気持ちを伝えるべきだった。もっと早く、傍にいるべきだった。
けれど、時間がなかった。
徴兵令。
戦地。
いつ帰れるか分からない。いや、帰れるかどうかすら分からない。
『でも……必ず帰る』
蓮は心の中で誓った。
『撫子さんのもとへ……必ず帰る』
戦争が終わったら、また公園のベンチで会おう。秋の陽射しの中で、手を繋いで座ろう。
そして今度こそ、ちゃんと返事をもらおう。
『撫子さん……待っていてください』
その時——
空から、轟音が響いた。
蓮は窓の外を見上げた。
青い空に、黒い影が広がっていた。
爆撃機だ。
何機もの爆撃機が、編隊を組んで飛んでいる。
車内に、悲鳴が上がった。
「空襲だ!」
「逃げろ!」
人々が立ち上がり、出口に殺到した。けれど、列車は走り続けている。逃げる場所などなかった。
蓮は窓の外を見つめた。
爆撃機から、何かが落ちてくるのが見えた。
黒い点。
それが、どんどん大きくなっていく。
『撫子さん……』
蓮は胸ポケットの押し花に手を当てた。
『会いたかった……もう一度……』
閃光。
轟音。
世界が、白く染まった。
『撫子さん……』
蓮は最後に、その名を呼んだ。
『愛しています……ずっと……』
そして——
列車は、炎に包まれた。
*
紗世は、屋敷の縁側に座っていた。
朝日が昇り始めていた。東の空が、淡い橙色に染まっている。
『撫子様……今頃、儀式を終えた頃だろうか……』
紗世は胸に手を当てた。
撫子との絆。三百年もの間、途切れることなく繋がっていた絆。
その絆を通じて、撫子の存在を感じることができた。どれだけ離れていても、撫子が生きていることが分かった。
今も、その絆は確かに感じられる。撫子は生きている。儀式を乗り越えたのだ。
『よかった……撫子様……』
紗世は安堵の息を吐いた。
その時だった。
胸の奥で、何かが震えた。
絆が——揺れている。
「撫子様……?」
紗世は胸を押さえた。
嫌な予感がした。何かがおかしい。
絆が、弱まっていく。
まるで、糸が一本ずつ切れていくように。
「撫子様……!」
紗世は立ち上がった。
そして——
ぷつりと。
絆が、切れた。
「……!」
紗世は目を見開いた。
胸の奥で、何かが千切れる感覚。三百年もの間、繋がっていた絆が、完全に消えた。
撫子を感じられない。
どこにも、撫子がいない。
「撫子様……?」
声が震えた。
「撫子様……!」
紗世は屋敷を飛び出した。
走った。山道を駆け上がった。
息が切れる。足がもつれる。何度も転びそうになった。けれど、紗世は止まらなかった。
「撫子様……! 撫子様……!」
叫びながら、廃寺へと向かった。
木々の間を縫い、岩を乗り越え、必死に走り続けた。
『嘘よ……嘘に決まってる……』
心の中で、何度も否定した。
『撫子様は人間に戻ったんだ……だから絆が切れただけ……そうに決まってる……』
けれど、胸の奥では分かっていた。
この空虚さは、そんなものではない。
撫子が——消えたのだ。
*
廃寺の境内に辿り着いた時、紗世は立ち尽くした。
祭壇の前に、灰が積もっていた。
朝日に照らされて、きらきらと光る灰。
風に吹かれて、さらさらと舞い上がる灰。
紗世は、その灰が何であるか、すぐに分かった。
「撫子……様……」
膝から崩れ落ちた。
石畳の上に、両手をついた。
「嘘……嘘よ……」
声が震えた。涙が、ぼたぼたと地面に落ちた。
「嘘よ……こんなの……嘘よ……!」
紗世は灰に手を伸ばした。震える手で、灰に触れた。
さらさらと、指の間からこぼれ落ちていく。
掴めない。どれだけ手を伸ばしても、掴めない。
「撫子様……撫子様……!」
紗世は灰を掻き集めようとした。両手で、必死に。けれど、風が吹くたびに散っていく。
「嫌……嫌よ……!」
紗世は叫んだ。
「撫子様……! 撫子様……!」
声が枯れるまで、叫び続けた。
三百年、傍にいた人。三百年、守り続けた人。
その人が、灰になって消えてしまった。
紗世は灰の上に突っ伏した。体を震わせて、泣いた。
声にならない声で、泣き続けた。
「なぜ……」
やがて、紗世は顔を上げた。
涙で濡れた瞳が、何かを捉えた。
アザールが、木陰に立っていた。
「なぜですか……!」
紗世は立ち上がり、アザールに詰め寄った。
「なぜ……撫子様が……! 人間に戻れたはずなのに……!」
「三百年は長すぎた」
アザールは静かに言った。その声には、感情が感じられなかった。
「人間に戻るには、あの娘の体は……もう耐えられなかった」
「知っていたのですか……!」
紗世の声が震えた。怒りと悲しみで。
「知っていて……儀式を……!」
「可能性はあった」
アザールは淡々と言った。
「成功する可能性も、失敗する可能性も。あの娘は、それを承知で儀式に臨んだ」
「それでも……!」
紗世は叫んだ。
「止めることはできたはずです……! 撫子様を……死なせずに済んだはずです……!」
「あの娘が望んだ」
アザールの声が、少しだけ低くなった。
「人間に戻りたいと。たとえ灰になる危険があっても、と。お前も聞いていたはずだ」
紗世は言葉を失った。
そうだった。撫子は自分で選んだのだ。人間に戻る道を。たとえ灰になる危険があっても。
紗世には、それを止める権利がなかった。
「あの娘は……」
アザールが言った。
「消えたわけではない」
紗世は顔を上げた。涙で濡れた瞳で、アザールを見つめた。
「どういう……意味ですか」
「輪廻だ」
アザールは言った。
「吸血鬼が人間に戻ろうとして灰になった場合……魂は消滅しない。輪廻の輪に戻り、いずれまた人間として生まれ変わる」
「生まれ変わる……」
紗世は息を呑んだ。
「撫子様が……また、人間として……」
「ああ」
アザールは頷いた。
「いつになるかは分からない。数十年後かもしれないし、百年後かもしれない。けれど、いずれ必ず、あの娘の魂は新しい体に宿る」
紗世の胸に、小さな光が灯った。
希望。
撫子が、また生まれてくる。人間として。新しい命として。
「その時……撫子様は、私のことを覚えていますか」
「いいや」
アザールは首を横に振った。
「輪廻を経れば、前世の記憶は失われる。新しく生まれてくるあの娘は、お前のことを知らない」
紗世の胸が、締め付けられるように痛んだ。
けれど——
「それでも」
紗世は言った。
「待ちます」
その声は、静かだが揺るぎなかった。
「何年でも、何十年でも……撫子様が生まれ変わるまで、待ちます」
「撫子様が私を覚えていなくても……それでも、会いたい。また、撫子様の笑顔を見たい」
アザールは紗世を見つめた。
「永遠に、待ち続けるのか」
「はい」
紗世は頷いた。
「それが……私の永遠です」
アザールは暫く黙っていた。
やがて、小さく息を吐いた。
「……そうか」
紗世は祭壇の前に戻り、灰の前に跪いた。
両手を合わせ、目を閉じた。
「撫子様……必ず、見つけます」
涙が、灰の上に落ちた。
「何年かかっても……何十年かかっても……必ず、また会いに行きます」
朝日が、廃寺の境内を照らしていた。
灰がきらきらと輝いている。まるで、撫子が微笑んでいるかのように。
紗世は立ち上がった。
涙を拭い、空を見上げた。
青く澄んだ空。温かい太陽。
撫子が最後に見た空。
「行ってきます、撫子様」
紗世は呟いた。
「必ず……また会いに行きます」
そして、紗世は歩き出した。
撫子を探す、永遠の旅が始まった。
*
時は流れた。
昭和の時代が過ぎていった。
紗世は日本中を旅した。町から町へ、村から村へ。撫子の魂が宿る子どもを探して。
戦争が終わった。焼け野原から、少しずつ町が復興していった。人々は懸命に生き、新しい時代を築いていった。
紗世は変わらなかった。十八歳の姿のまま、永遠に。
公園で遊ぶ子どもたちを見つめた。学校から帰る少女たちの瞳を覗き込んだ。
けれど、撫子はいなかった。
似たような瞳を持つ子はいた。けれど、あの深く澄んだ黒い瞳は見つからなかった。
十年が過ぎた。二十年が過ぎた。
昭和が終わり、平成が始まった。
世界は目まぐるしく変わっていった。建物が高くなり、車が増え、人々の服装も言葉も変わっていった。
紗世は変わらなかった。十八歳の姿のまま、撫子を探し続けた。
何度も、撫子かもしれないと思う子どもに出会った。けれど、違った。あの瞳ではなかった。あの笑顔ではなかった。
落胆と希望を繰り返しながら、紗世は旅を続けた。
三十年が過ぎた。四十年が過ぎた。
平成が終わり、令和が始まった。
紗世の旅は、八十年以上続いていた。
それでも、紗世は諦めなかった。
『必ず、見つける』
心の中で、何度も誓った。
『撫子様……必ず、また会いに行きます』
*
二〇二五年、秋。
紗世は、ある公園のベンチに座っていた。
木々の葉が色づき、黄金色の光が地面に影を落としている。子どもたちの笑い声が響いていた。
この公園は、かつて撫子と蓮が会っていた場所だった。
八十年以上の時を経て、公園の姿は変わっていた。ベンチも新しくなり、遊具も変わった。けれど、木々は当時のまま残っていた。撫子が座っていたベンチがあった場所に、紗世は座っていた。
『撫子様……どこにいるのですか……』
紗世は、ぼんやりと子どもたちを眺めていた。
八十年以上、探し続けてきた。日本中を旅し、数え切れないほどの子どもたちを見てきた。
けれど、まだ見つからない。
時折、不安になることがあった。本当に撫子は生まれ変わるのだろうか。アザールの言葉は本当だったのだろうか。
けれど、紗世は信じ続けた。撫子は必ず生まれ変わる。必ず、また会える。
その時だった。
視界の端に、小さな影が見えた。
女の子だった。
五歳くらいの、小さな女の子。黒い髪を二つに結んで、白いワンピースを着ている。
女の子は、草むらの中にしゃがみ込んでいた。何かを探しているようだった。小さな手で、草をかき分けている。
紗世は、何気なくその子を見つめた。
可愛らしい子だな、と思った。それだけだった。
女の子が、顔を上げた。
紗世の心臓が、止まった。
その瞳。
黒く澄んだ、深い瞳。
三百年、見つめ続けてきた瞳。
『撫子様……!』
紗世は息を呑んだ。
間違いない。あの瞳は、撫子の瞳だ。どれだけ時が流れても、どれだけ姿が変わっても、紗世には分かった。
あれは、撫子だ。
女の子は草むらの中で何かを見つけたらしく、嬉しそうな声を上げた。
「あった!」
小さな手を高く掲げる。その手の中には——
四つ葉のクローバーがあった。
紗世の目に、涙が溢れた。
『撫子様……』
女の子が立ち上がり、周りを見回した。誰かに見せたいのだろう。きょろきょろと辺りを見ている。
その視線が、紗世と合った。
女の子は、にっこりと笑った。
その笑顔を見た瞬間、紗世の涙が止まらなくなった。
あの笑顔だ。
三百年前と同じ、無邪気で優しい笑顔。
女の子が、駆けてきた。小さな足で、ぱたぱたと走ってくる。
「お姉さん!」
女の子が、紗世の前に立った。息を弾ませながら、満面の笑みを浮かべている。
小さな手を差し出す。その手の中には、四つ葉のクローバー。
「これ、あげるね!」
女の子は無邪気に笑った。
「四つ葉のクローバー! 幸せになれるんだよ!」
紗世は、言葉を失った。
涙が、溢れて止まらなかった。
『撫子様……』
あの日と同じだった。
三百年前、幼い撫子が泣いていた紗世に四つ葉のクローバーをくれた日と。
同じ笑顔。同じ言葉。同じ優しさ。
「お姉さん、どうしたの? 泣いてるの?」
女の子が心配そうに紗世を見上げた。小さな手を伸ばし、紗世の頬に触れようとする。
「大丈夫? 痛いの?」
「ごめんなさい……」
紗世は涙を拭いた。けれど、拭いても拭いても、新しい涙が溢れてくる。
「嬉しくて……泣いてしまったの」
「嬉しいの?」
女の子は首を傾げた。不思議そうな顔をしている。
「うん……とても、嬉しいの」
紗世は四つ葉のクローバーを受け取った。小さな、可愛らしいクローバー。四枚の葉が、陽の光を受けて輝いている。
「ありがとう……」
声が震えた。
「本当に……ありがとう……」
「えへへ」
女の子は嬉しそうに笑った。
「お姉さんが喜んでくれて、私も嬉しい!」
紗世は女の子を見つめた。黒い髪。黒い瞳。優しい笑顔。
撫子だ。間違いなく、撫子だ。
けれど、この子は紗世のことを知らない。三百年の記憶は、輪廻を経て失われている。
それでも——
それでも、こうして会えた。
また、撫子の笑顔を見ることができた。
「あなたは……幸せ?」
紗世は尋ねた。
女の子は、きょとんとした顔をした。
それから、満面の笑みを浮かべた。
「うん! すっごく幸せ!」
きらきらと輝く瞳。無邪気な笑顔。
「お父さんもお母さんも優しいし、今度妹が生まれるんだよ!」
「妹……」
紗世の胸が、温かくなった。
小百合。
かつて、撫子には小百合という妹がいた。
今度生まれてくる妹は、もしかしたら小百合の生まれ変わりかもしれない。
「そう……よかったね」
「うん! 私、お姉ちゃんになるんだよ! すっごく楽しみ!」
女の子は両手を広げて、くるりと回った。白いワンピースの裾が、ふわりと広がる。
「妹には優しくしてあげるんだ! 一緒に遊んで、一緒にお花を摘んで……!」
紗世の目から、また涙がこぼれた。
『よかった……撫子様……』
『幸せなんですね……』
「お姉さん、また泣いてる」
女の子が心配そうに言った。
「ごめんね……嬉しいの。本当に」
「そっか」
女の子は微笑んだ。
「嬉しい時も泣くんだね。お母さんも言ってた。嬉しい涙っていうのがあるんだよって」
「そうね……嬉しい涙よ」
紗世は涙を拭いた。
女の子は首を傾げた。それから、にっこりと笑った。
「お姉さん、名前は?」
「紗世……よ」
「紗世お姉さん!」
女の子は嬉しそうに言った。
「私は撫子!」
その名前を聞いた瞬間、紗世の心臓が跳ねた。
「撫子……」
「うん! お花の名前なんだって! 可愛いでしょ?」
「ええ……とても、可愛い名前ね」
涙が止まらなかった。けれど、紗世は微笑んでいた。
「なでしこー!」
遠くから、女性の声が聞こえた。
「あ、お母さんだ!」
女の子——撫子は振り返った。
公園の入り口に、若い女性が立っていた。お腹が少し膨らんでいる。妹が生まれるという話は本当らしい。
「行かなきゃ!」
撫子は紗世を見上げた。
「紗世お姉さん、また会おうね!」
「ええ……また」
紗世は微笑んだ。
撫子は手を振りながら、母親の元へ駆けていった。
「また会おうね、紗世お姉さん!」
その声が、風に乗って届いた。
紗世は手を振り返した。涙で濡れた頬のまま、精一杯の笑顔で。
撫子が母親の手を取った。二人で何か話している。撫子が紗世の方を指差し、母親が微笑んで頷いている。
やがて、二人は公園を出ていった。小さな背中が、少しずつ遠ざかっていく。
最後に撫子が振り返り、もう一度手を振った。
紗世も手を振り返した。
そして——撫子の姿が見えなくなった。
紗世は、四つ葉のクローバーを見つめた。
小さな、可愛らしいクローバー。
三百年前と同じ。あの日と同じ。
「撫子様……」
紗世は呟いた。
「幸せで……よかった……」
涙が、クローバーの上に落ちた。
*
「どうだった」
声が聞こえた。
紗世は振り返った。
アザールが、木陰に立っていた。黒いコートを纏い、闇の中から現れたかのように。いつからいたのか分からない。
「お嬢様は……」
紗世は言った。声がまだ震えていた。
「幸せだと。きらきらと笑顔で……」
涙を拭いながら、紗世は続けた。
「お父様もお母様も優しいと。今度、妹が生まれるんだと……」
「そうか」
アザールは静かに言った。
暫く、沈黙が流れた。
秋の風が吹き、木々の葉がさらさらと音を立てた。子どもたちの笑い声が、遠くから聞こえてくる。
「ならば、帰ろう」
アザールが言った。
紗世は頷いた。
立ち上がり、アザールの方へ歩いていく。
「お前は、もう私から離れられない」
アザールが言った。
紗世は足を止めた。
「……分かっています」
あの日、撫子が灰になった後。紗世はアザールに頼んだ。永遠に生き続ける力を。撫子が生まれ変わるまで、何十年でも何百年でも待ち続ける力を。
その代償として、紗世はアザールに縛られることになった。永遠に、アザールの傍にいなければならない。
「それでも、あの娘を見守り続けるのか」
アザールが問うた。
「はい」
紗世は迷わず答えた。
「それが、私の永遠です」
アザールは暫く紗世を見つめていた。
その瞳に、何かが過ぎったような気がした。
「……そうか」
アザールは踵を返した。
木陰の闘へと歩いていく。
「行くぞ」
「はい」
紗世はアザールの後に続いた。
二人の姿が、木陰の闇の中に溶けていく。
公園には、秋の陽射しが降り注いでいた。
子どもたちの笑い声が響いている。
風が吹き、木々の葉がさらさらと音を立てた。黄金色の葉が、ひらひらと舞い落ちていく。
ベンチの上に、四つ葉のクローバーが一つ、残されていた。
陽の光を受けて、きらきらと輝いていた。
三百年の絆は、終わらない。
形を変えて、時を超えて、永遠に続いていく。
紗世の手には、小さな四つ葉のクローバー。
撫子からもらった、幸せの証。
それを胸に抱いて、紗世は歩き続ける。
永遠の闇の中を。
けれど、その闇は暗くない。
撫子の笑顔が、いつも紗世を照らしているから。
「また会おうね、紗世お姉さん!」
あの声が、いつまでも胸の中で響いていた。
そして紗世は知っている。
また会える日が、必ず来ることを。
撫子が成長し、大人になり、また人生を歩んでいく。
その傍らで、紗世は見守り続ける。
永遠に。
それが、紗世の選んだ道。
それが、紗世の永遠の絆。
—完結—
このあと、アザール編お届けします。
(一話完結です)




