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緋色の月に抱かれて ―永遠の孤独と四つ葉の誓い―  作者: 月代 緋色


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16/17

永遠の絆

本編はこれで完結します。

最終話

 太陽が、撫子を照らしていた。


 七日間の儀式を乗り越え、撫子は人間に戻った。そう信じていた。


 温かい光。優しい光。三百年ぶりに浴びる、生命の光。


 撫子は両手を広げ、太陽の光を全身に受けていた。頬を伝う涙が、朝日に輝いている。


『人間に戻れた……』


 心の中で、何度もその言葉を繰り返した。


『蓮さんと……一緒に生きられる……』


 蓮の優しい笑顔が浮かんだ。「また会いましょう」と言ってくれた声。あの温かい手の感触。


『紗世にも……会いに行かなきゃ……』


 三百年、傍にいてくれた紗世。「行ってらっしゃいませ」と見送ってくれた紗世。人間に戻れたことを、一番に伝えたかった。


 撫子は微笑んだ。希望に満ちた、穏やかな微笑み。


 そして——立ち上がろうとした。


 その時だった。


 指先に、違和感を覚えた。


 何か……おかしい。


 視線を落とす。


 右手の指先が——さらさらと崩れ落ちていた。


「え……」


 撫子は自分の目を疑った。


 灰。


 指先が、灰になって散っていく。風に吹かれて、さらさらと。


「嘘……」


 声が震えた。


 崩壊は止まらなかった。指先から手の甲へ、手の甲から手首へ。


「嫌……嫌よ……!」


 撫子は叫んだ。左手で右腕を押さえようとした。けれど、触れた瞬間、左手の指先も崩れ始めた。


「やめて……! やめて……!」


 崩壊は広がっていく。手首から腕へ、腕から肘へ。


 止められない。何をしても、止められない。


「やはり……体が持たなかったか」


 アザールの声が聞こえた。


 撫子は振り返ろうとした。けれど、体が思うように動かなかった。


「三百年は……長すぎた」


 アザールは祭壇の傍に立っていた。その瞳には、何かが揺れているように見えた。


「人間に戻るには、お前の体は……もう限界を超えていた」


「そんな……」


 撫子の声が掠れた。


「嘘よ……だって……太陽が……温かいのに……」


「最初は成功したように見えた。だが……体の奥底まで染み込んだ三百年の闇は、そう簡単には消えない」


 アザールの声は、どこか悲しげだった。


「お前の体は……人間に戻ることに耐えられなかった」


 崩壊は続いていた。腕が崩れる。肩が崩れる。


 撫子は空を見上げた。青く澄んだ空。温かい太陽。


『なぜ……』


 涙が溢れた。けれど、その涙すらも、灰になって散っていく。


『せっかく……人間に戻れたのに……』


 記憶が、走馬灯のように蘇ってきた。


 父の顔。優しく微笑んでくれた父。「撫子、お前は私の誇りだ」と言ってくれた声。


 母の顔。温かく抱きしめてくれた母。子守唄を歌ってくれた夜。


 小百合の顔。無邪気に笑う妹。「お姉様、これあげる」と野の花を差し出してくれた日。


 紗世の顔。三百年、傍にいてくれた友。「行ってらっしゃいませ、撫子様」と見送ってくれた声。


 そして——蓮の顔。


 優しい瞳。穏やかな笑顔。「僕と……結婚してください」と言ってくれた声。「また会いましょう」という約束。


『蓮さん……』


 会いたかった。もう一度、会いたかった。


 手を繋いで、公園のベンチに座って、秋の陽射しの中で笑い合いたかった。


 けれど、もう叶わない。


 崩壊は胸にまで達していた。


『紗世……』


 心の中で、その名を呼んだ。


『ごめんね……約束、守れなかった……』


 ずっと傍にいてくれた紗世。何があっても、撫子を支えてくれた紗世。


 もう、会えない。


 崩壊は首にまで達していた。視界が白くなっていく。


「紗世……」


 声が出た。最後の力を振り絞って。


「蓮さん……」


 涙が、灰になって散った。


「ごめん……なさい……」


 そして——


 撫子の体は、完全に灰になった。


 朝日の中で、灰がさらさらと風に舞う。


 三百年の時を生きた吸血鬼は、太陽の下で消えていった。


 温かい光の中で。


 穏やかな朝の中で。


 撫子は、灰になった。


   *


 同じ時刻。


 列車が、線路の上を走っていた。


 車窓の外には、田園風景が広がっている。稲穂が黄金色に輝き、秋の訪れを告げていた。


 蓮は窓際の席に座り、外の景色を眺めていた。


 車内には、同じように徴兵された若者たちが座っていた。誰もが緊張した面持ちで、口数は少なかった。


 蓮の胸ポケットには、小さな花が押し花にして入れてあった。撫子に渡した花束と同じ種類の花。


『撫子さん……』


 蓮は窓の外を見つめながら、思った。


 あの日、公園で別れた時の撫子の顔が浮かんだ。涙を流しながら、それでも微笑んでくれた顔。


『泣かせてしまった……』


 後悔していた。もっと早く、気持ちを伝えるべきだった。もっと早く、傍にいるべきだった。


 けれど、時間がなかった。


 徴兵令。


 戦地。


 いつ帰れるか分からない。いや、帰れるかどうかすら分からない。


『でも……必ず帰る』


 蓮は心の中で誓った。


『撫子さんのもとへ……必ず帰る』


 戦争が終わったら、また公園のベンチで会おう。秋の陽射しの中で、手を繋いで座ろう。


 そして今度こそ、ちゃんと返事をもらおう。


『撫子さん……待っていてください』


 その時——


 空から、轟音が響いた。


 蓮は窓の外を見上げた。


 青い空に、黒い影が広がっていた。


 爆撃機だ。


 何機もの爆撃機が、編隊を組んで飛んでいる。


 車内に、悲鳴が上がった。


「空襲だ!」


「逃げろ!」


 人々が立ち上がり、出口に殺到した。けれど、列車は走り続けている。逃げる場所などなかった。


 蓮は窓の外を見つめた。


 爆撃機から、何かが落ちてくるのが見えた。


 黒い点。


 それが、どんどん大きくなっていく。


『撫子さん……』


 蓮は胸ポケットの押し花に手を当てた。


『会いたかった……もう一度……』


 閃光。


 轟音。


 世界が、白く染まった。


『撫子さん……』


 蓮は最後に、その名を呼んだ。


『愛しています……ずっと……』


 そして——


 列車は、炎に包まれた。


   *


 紗世は、屋敷の縁側に座っていた。


 朝日が昇り始めていた。東の空が、淡い橙色に染まっている。


『撫子様……今頃、儀式を終えた頃だろうか……』


 紗世は胸に手を当てた。


 撫子との絆。三百年もの間、途切れることなく繋がっていた絆。


 その絆を通じて、撫子の存在を感じることができた。どれだけ離れていても、撫子が生きていることが分かった。


 今も、その絆は確かに感じられる。撫子は生きている。儀式を乗り越えたのだ。


『よかった……撫子様……』


 紗世は安堵の息を吐いた。


 その時だった。


 胸の奥で、何かが震えた。


 絆が——揺れている。


「撫子様……?」


 紗世は胸を押さえた。


 嫌な予感がした。何かがおかしい。


 絆が、弱まっていく。


 まるで、糸が一本ずつ切れていくように。


「撫子様……!」


 紗世は立ち上がった。


 そして——


 ぷつりと。


 絆が、切れた。


「……!」


 紗世は目を見開いた。


 胸の奥で、何かが千切れる感覚。三百年もの間、繋がっていた絆が、完全に消えた。


 撫子を感じられない。


 どこにも、撫子がいない。


「撫子様……?」


 声が震えた。


「撫子様……!」


 紗世は屋敷を飛び出した。


 走った。山道を駆け上がった。


 息が切れる。足がもつれる。何度も転びそうになった。けれど、紗世は止まらなかった。


「撫子様……! 撫子様……!」


 叫びながら、廃寺へと向かった。


 木々の間を縫い、岩を乗り越え、必死に走り続けた。


『嘘よ……嘘に決まってる……』


 心の中で、何度も否定した。


『撫子様は人間に戻ったんだ……だから絆が切れただけ……そうに決まってる……』


 けれど、胸の奥では分かっていた。


 この空虚さは、そんなものではない。


 撫子が——消えたのだ。


   *


 廃寺の境内に辿り着いた時、紗世は立ち尽くした。


 祭壇の前に、灰が積もっていた。


 朝日に照らされて、きらきらと光る灰。


 風に吹かれて、さらさらと舞い上がる灰。


 紗世は、その灰が何であるか、すぐに分かった。


「撫子……様……」


 膝から崩れ落ちた。


 石畳の上に、両手をついた。


「嘘……嘘よ……」


 声が震えた。涙が、ぼたぼたと地面に落ちた。


「嘘よ……こんなの……嘘よ……!」


 紗世は灰に手を伸ばした。震える手で、灰に触れた。


 さらさらと、指の間からこぼれ落ちていく。


 掴めない。どれだけ手を伸ばしても、掴めない。


「撫子様……撫子様……!」


 紗世は灰を掻き集めようとした。両手で、必死に。けれど、風が吹くたびに散っていく。


「嫌……嫌よ……!」


 紗世は叫んだ。


「撫子様……! 撫子様……!」


 声が枯れるまで、叫び続けた。


 三百年、傍にいた人。三百年、守り続けた人。


 その人が、灰になって消えてしまった。


 紗世は灰の上に突っ伏した。体を震わせて、泣いた。


 声にならない声で、泣き続けた。


「なぜ……」


 やがて、紗世は顔を上げた。


 涙で濡れた瞳が、何かを捉えた。


 アザールが、木陰に立っていた。


「なぜですか……!」


 紗世は立ち上がり、アザールに詰め寄った。


「なぜ……撫子様が……! 人間に戻れたはずなのに……!」


「三百年は長すぎた」


 アザールは静かに言った。その声には、感情が感じられなかった。


「人間に戻るには、あの娘の体は……もう耐えられなかった」


「知っていたのですか……!」


 紗世の声が震えた。怒りと悲しみで。


「知っていて……儀式を……!」


「可能性はあった」


 アザールは淡々と言った。


「成功する可能性も、失敗する可能性も。あの娘は、それを承知で儀式に臨んだ」


「それでも……!」


 紗世は叫んだ。


「止めることはできたはずです……! 撫子様を……死なせずに済んだはずです……!」


「あの娘が望んだ」


 アザールの声が、少しだけ低くなった。


「人間に戻りたいと。たとえ灰になる危険があっても、と。お前も聞いていたはずだ」


 紗世は言葉を失った。


 そうだった。撫子は自分で選んだのだ。人間に戻る道を。たとえ灰になる危険があっても。


 紗世には、それを止める権利がなかった。


「あの娘は……」


 アザールが言った。


「消えたわけではない」


 紗世は顔を上げた。涙で濡れた瞳で、アザールを見つめた。


「どういう……意味ですか」


「輪廻だ」


 アザールは言った。


「吸血鬼が人間に戻ろうとして灰になった場合……魂は消滅しない。輪廻の輪に戻り、いずれまた人間として生まれ変わる」


「生まれ変わる……」


 紗世は息を呑んだ。


「撫子様が……また、人間として……」


「ああ」


 アザールは頷いた。


「いつになるかは分からない。数十年後かもしれないし、百年後かもしれない。けれど、いずれ必ず、あの娘の魂は新しい体に宿る」


 紗世の胸に、小さな光が灯った。


 希望。


 撫子が、また生まれてくる。人間として。新しい命として。


「その時……撫子様は、私のことを覚えていますか」


「いいや」


 アザールは首を横に振った。


「輪廻を経れば、前世の記憶は失われる。新しく生まれてくるあの娘は、お前のことを知らない」


 紗世の胸が、締め付けられるように痛んだ。


 けれど——


「それでも」


 紗世は言った。


「待ちます」


 その声は、静かだが揺るぎなかった。


「何年でも、何十年でも……撫子様が生まれ変わるまで、待ちます」


「撫子様が私を覚えていなくても……それでも、会いたい。また、撫子様の笑顔を見たい」


 アザールは紗世を見つめた。


「永遠に、待ち続けるのか」


「はい」


 紗世は頷いた。


「それが……私の永遠です」


 アザールは暫く黙っていた。


 やがて、小さく息を吐いた。


「……そうか」


 紗世は祭壇の前に戻り、灰の前に跪いた。


 両手を合わせ、目を閉じた。


「撫子様……必ず、見つけます」


 涙が、灰の上に落ちた。


「何年かかっても……何十年かかっても……必ず、また会いに行きます」


 朝日が、廃寺の境内を照らしていた。


 灰がきらきらと輝いている。まるで、撫子が微笑んでいるかのように。


 紗世は立ち上がった。


 涙を拭い、空を見上げた。


 青く澄んだ空。温かい太陽。


 撫子が最後に見た空。


「行ってきます、撫子様」


 紗世は呟いた。


「必ず……また会いに行きます」


 そして、紗世は歩き出した。


 撫子を探す、永遠の旅が始まった。


   *


 時は流れた。


 昭和の時代が過ぎていった。


 紗世は日本中を旅した。町から町へ、村から村へ。撫子の魂が宿る子どもを探して。


 戦争が終わった。焼け野原から、少しずつ町が復興していった。人々は懸命に生き、新しい時代を築いていった。


 紗世は変わらなかった。十八歳の姿のまま、永遠に。


 公園で遊ぶ子どもたちを見つめた。学校から帰る少女たちの瞳を覗き込んだ。


 けれど、撫子はいなかった。


 似たような瞳を持つ子はいた。けれど、あの深く澄んだ黒い瞳は見つからなかった。


 十年が過ぎた。二十年が過ぎた。


 昭和が終わり、平成が始まった。


 世界は目まぐるしく変わっていった。建物が高くなり、車が増え、人々の服装も言葉も変わっていった。


 紗世は変わらなかった。十八歳の姿のまま、撫子を探し続けた。


 何度も、撫子かもしれないと思う子どもに出会った。けれど、違った。あの瞳ではなかった。あの笑顔ではなかった。


 落胆と希望を繰り返しながら、紗世は旅を続けた。


 三十年が過ぎた。四十年が過ぎた。


 平成が終わり、令和が始まった。


 紗世の旅は、八十年以上続いていた。


 それでも、紗世は諦めなかった。


『必ず、見つける』


 心の中で、何度も誓った。


『撫子様……必ず、また会いに行きます』


   *


 二〇二五年、秋。


 紗世は、ある公園のベンチに座っていた。


 木々の葉が色づき、黄金色の光が地面に影を落としている。子どもたちの笑い声が響いていた。


 この公園は、かつて撫子と蓮が会っていた場所だった。


 八十年以上の時を経て、公園の姿は変わっていた。ベンチも新しくなり、遊具も変わった。けれど、木々は当時のまま残っていた。撫子が座っていたベンチがあった場所に、紗世は座っていた。


『撫子様……どこにいるのですか……』


 紗世は、ぼんやりと子どもたちを眺めていた。


 八十年以上、探し続けてきた。日本中を旅し、数え切れないほどの子どもたちを見てきた。


 けれど、まだ見つからない。


 時折、不安になることがあった。本当に撫子は生まれ変わるのだろうか。アザールの言葉は本当だったのだろうか。


 けれど、紗世は信じ続けた。撫子は必ず生まれ変わる。必ず、また会える。


 その時だった。


 視界の端に、小さな影が見えた。


 女の子だった。


 五歳くらいの、小さな女の子。黒い髪を二つに結んで、白いワンピースを着ている。


 女の子は、草むらの中にしゃがみ込んでいた。何かを探しているようだった。小さな手で、草をかき分けている。


 紗世は、何気なくその子を見つめた。


 可愛らしい子だな、と思った。それだけだった。


 女の子が、顔を上げた。


 紗世の心臓が、止まった。


 その瞳。


 黒く澄んだ、深い瞳。


 三百年、見つめ続けてきた瞳。


『撫子様……!』


 紗世は息を呑んだ。


 間違いない。あの瞳は、撫子の瞳だ。どれだけ時が流れても、どれだけ姿が変わっても、紗世には分かった。


 あれは、撫子だ。


 女の子は草むらの中で何かを見つけたらしく、嬉しそうな声を上げた。


「あった!」


 小さな手を高く掲げる。その手の中には——


 四つ葉のクローバーがあった。


 紗世の目に、涙が溢れた。


『撫子様……』


 女の子が立ち上がり、周りを見回した。誰かに見せたいのだろう。きょろきょろと辺りを見ている。


 その視線が、紗世と合った。


 女の子は、にっこりと笑った。


 その笑顔を見た瞬間、紗世の涙が止まらなくなった。


 あの笑顔だ。


 三百年前と同じ、無邪気で優しい笑顔。


 女の子が、駆けてきた。小さな足で、ぱたぱたと走ってくる。


「お姉さん!」


 女の子が、紗世の前に立った。息を弾ませながら、満面の笑みを浮かべている。


 小さな手を差し出す。その手の中には、四つ葉のクローバー。


「これ、あげるね!」


 女の子は無邪気に笑った。


「四つ葉のクローバー! 幸せになれるんだよ!」


 紗世は、言葉を失った。


 涙が、溢れて止まらなかった。


『撫子様……』


 あの日と同じだった。


 三百年前、幼い撫子が泣いていた紗世に四つ葉のクローバーをくれた日と。


 同じ笑顔。同じ言葉。同じ優しさ。


「お姉さん、どうしたの? 泣いてるの?」


 女の子が心配そうに紗世を見上げた。小さな手を伸ばし、紗世の頬に触れようとする。


「大丈夫? 痛いの?」


「ごめんなさい……」


 紗世は涙を拭いた。けれど、拭いても拭いても、新しい涙が溢れてくる。


「嬉しくて……泣いてしまったの」


「嬉しいの?」


 女の子は首を傾げた。不思議そうな顔をしている。


「うん……とても、嬉しいの」


 紗世は四つ葉のクローバーを受け取った。小さな、可愛らしいクローバー。四枚の葉が、陽の光を受けて輝いている。


「ありがとう……」


 声が震えた。


「本当に……ありがとう……」


「えへへ」


 女の子は嬉しそうに笑った。


「お姉さんが喜んでくれて、私も嬉しい!」


 紗世は女の子を見つめた。黒い髪。黒い瞳。優しい笑顔。


 撫子だ。間違いなく、撫子だ。


 けれど、この子は紗世のことを知らない。三百年の記憶は、輪廻を経て失われている。


 それでも——


 それでも、こうして会えた。


 また、撫子の笑顔を見ることができた。


「あなたは……幸せ?」


 紗世は尋ねた。


 女の子は、きょとんとした顔をした。


 それから、満面の笑みを浮かべた。


「うん! すっごく幸せ!」


 きらきらと輝く瞳。無邪気な笑顔。


「お父さんもお母さんも優しいし、今度妹が生まれるんだよ!」


「妹……」


 紗世の胸が、温かくなった。


 小百合。


 かつて、撫子には小百合という妹がいた。


 今度生まれてくる妹は、もしかしたら小百合の生まれ変わりかもしれない。


「そう……よかったね」


「うん! 私、お姉ちゃんになるんだよ! すっごく楽しみ!」


 女の子は両手を広げて、くるりと回った。白いワンピースの裾が、ふわりと広がる。


「妹には優しくしてあげるんだ! 一緒に遊んで、一緒にお花を摘んで……!」


 紗世の目から、また涙がこぼれた。


『よかった……撫子様……』


『幸せなんですね……』


「お姉さん、また泣いてる」


 女の子が心配そうに言った。


「ごめんね……嬉しいの。本当に」


「そっか」


 女の子は微笑んだ。


「嬉しい時も泣くんだね。お母さんも言ってた。嬉しい涙っていうのがあるんだよって」


「そうね……嬉しい涙よ」


 紗世は涙を拭いた。


 女の子は首を傾げた。それから、にっこりと笑った。


「お姉さん、名前は?」


「紗世……よ」


「紗世お姉さん!」


 女の子は嬉しそうに言った。


「私は撫子!」


 その名前を聞いた瞬間、紗世の心臓が跳ねた。


「撫子……」


「うん! お花の名前なんだって! 可愛いでしょ?」


「ええ……とても、可愛い名前ね」


 涙が止まらなかった。けれど、紗世は微笑んでいた。


「なでしこー!」


 遠くから、女性の声が聞こえた。


「あ、お母さんだ!」


 女の子——撫子は振り返った。


 公園の入り口に、若い女性が立っていた。お腹が少し膨らんでいる。妹が生まれるという話は本当らしい。


「行かなきゃ!」


 撫子は紗世を見上げた。


「紗世お姉さん、また会おうね!」


「ええ……また」


 紗世は微笑んだ。


 撫子は手を振りながら、母親の元へ駆けていった。


「また会おうね、紗世お姉さん!」


 その声が、風に乗って届いた。


 紗世は手を振り返した。涙で濡れた頬のまま、精一杯の笑顔で。


 撫子が母親の手を取った。二人で何か話している。撫子が紗世の方を指差し、母親が微笑んで頷いている。


 やがて、二人は公園を出ていった。小さな背中が、少しずつ遠ざかっていく。


 最後に撫子が振り返り、もう一度手を振った。


 紗世も手を振り返した。


 そして——撫子の姿が見えなくなった。


 紗世は、四つ葉のクローバーを見つめた。


 小さな、可愛らしいクローバー。


 三百年前と同じ。あの日と同じ。


「撫子様……」


 紗世は呟いた。


「幸せで……よかった……」


 涙が、クローバーの上に落ちた。


   *


「どうだった」


 声が聞こえた。


 紗世は振り返った。


 アザールが、木陰に立っていた。黒いコートを纏い、闇の中から現れたかのように。いつからいたのか分からない。


「お嬢様は……」


 紗世は言った。声がまだ震えていた。


「幸せだと。きらきらと笑顔で……」


 涙を拭いながら、紗世は続けた。


「お父様もお母様も優しいと。今度、妹が生まれるんだと……」


「そうか」


 アザールは静かに言った。


 暫く、沈黙が流れた。


 秋の風が吹き、木々の葉がさらさらと音を立てた。子どもたちの笑い声が、遠くから聞こえてくる。


「ならば、帰ろう」


 アザールが言った。


 紗世は頷いた。


 立ち上がり、アザールの方へ歩いていく。


「お前は、もう私から離れられない」


 アザールが言った。


 紗世は足を止めた。


「……分かっています」


 あの日、撫子が灰になった後。紗世はアザールに頼んだ。永遠に生き続ける力を。撫子が生まれ変わるまで、何十年でも何百年でも待ち続ける力を。


 その代償として、紗世はアザールに縛られることになった。永遠に、アザールの傍にいなければならない。


「それでも、あの娘を見守り続けるのか」


 アザールが問うた。


「はい」


 紗世は迷わず答えた。


「それが、私の永遠です」


 アザールは暫く紗世を見つめていた。


 その瞳に、何かが過ぎったような気がした。


「……そうか」


 アザールは踵を返した。


 木陰の闘へと歩いていく。


「行くぞ」


「はい」


 紗世はアザールの後に続いた。


 二人の姿が、木陰の闇の中に溶けていく。


 公園には、秋の陽射しが降り注いでいた。


 子どもたちの笑い声が響いている。


 風が吹き、木々の葉がさらさらと音を立てた。黄金色の葉が、ひらひらと舞い落ちていく。


 ベンチの上に、四つ葉のクローバーが一つ、残されていた。


 陽の光を受けて、きらきらと輝いていた。


 三百年の絆は、終わらない。


 形を変えて、時を超えて、永遠に続いていく。


 紗世の手には、小さな四つ葉のクローバー。


 撫子からもらった、幸せの証。


 それを胸に抱いて、紗世は歩き続ける。


 永遠の闇の中を。


 けれど、その闇は暗くない。


 撫子の笑顔が、いつも紗世を照らしているから。


「また会おうね、紗世お姉さん!」


 あの声が、いつまでも胸の中で響いていた。


 そして紗世は知っている。


 また会える日が、必ず来ることを。


 撫子が成長し、大人になり、また人生を歩んでいく。


 その傍らで、紗世は見守り続ける。


 永遠に。


 それが、紗世の選んだ道。


 それが、紗世の永遠の絆。

—完結—

このあと、アザール編お届けします。

(一話完結です)

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