灰と祈り
十五
朝の光が、障子を透かして部屋に差し込んでいた。
撫子は鏡台の前に座り、髪を整えていた。鏡には何も映らない。三百年もの間、自分の姿を見ることができなかった。
今日、蓮から呼び出しを受けた。「話がある」と言われた時、蓮の声はどこか緊張しているように聞こえた。
『何の話だろう……』
撫子は立ち上がり、洋装に着替えた。淡い紫色のワンピースに、白いカーディガン。日傘と手袋も忘れずに。
屋敷を出る時、紗世が見送ってくれた。
「行ってらっしゃいませ、撫子様」
「ありがとう、紗世」
紗世の瞳には、いつもと変わらぬ穏やかさがあった。けれどその奥に、どこか寂しげな色が滲んでいるような気がした。
『今夜……儀式がある』
撫子は心の中で呟いた。
『今日が……蓮さんと会う最後の日になるかもしれない』
いや、違う。今夜、人間に戻れたら、明日からは蓮と同じ時間を生きられる。
撫子は歩き始めた。秋の風が頬を撫で、街路樹の葉がさらさらと音を立てていた。
町は少しずつ変わり始めていた。
掲示板には出征の知らせが貼られ、通りを歩く人々の表情にはどこか暗い影があった。ラジオからは戦況のニュースが流れ、物資統制の話を囁く声が聞こえてくる。
戦争の影が、この町にも忍び寄っていた。
『蓮さんは……大丈夫だろうか』
撫子は胸の奥で不安を感じながら、公園へと向かった。
*
いつもの公園のベンチに、蓮は座っていた。
撫子の姿を見つけると、蓮は立ち上がった。その表情は、どこか緊張しているように見えた。
「撫子さん、来てくれたんですね」
「蓮さん……話があるって」
「ええ……座ってください」
二人はベンチに並んで座った。秋の陽射しが、木々の葉を透かして柔らかな影を地面に落としている。
蓮は暫く黙っていた。何かを言おうとしては口を閉じ、視線を落としては上げる。その横顔を、撫子はじっと見つめていた。
『蓮さん……何を考えているの?』
沈黙が続いた。風が木々を揺らし、枯葉が一枚、二枚と舞い落ちていく。
やがて、蓮が口を開いた。
「撫子さん」
「はい」
「僕は……あなたに会えて、本当によかった」
蓮の声は静かだった。けれどその中に、深い想いが込められているのが分かった。
「蓮さん……」
「最初に図書館で会った時から、ずっと気になっていました。あなたの瞳が……とても悲しそうだったから」
撫子は息を呑んだ。
「何か……深い悲しみを抱えているような。それでいて、どこか強い意志を持っているような」
蓮は撫子を見つめた。
「僕は……あなたの悲しみを、少しでも癒したいと思いました」
「蓮さん……」
撫子の目に、涙が滲んだ。
蓮は深呼吸をした。そして、鞄の中から何かを取り出した。
小さな花束だった。
白と淡い桃色の小さな花々。野に咲く花を摘んで束ねたような、素朴で可憐な花束。
「撫子さん……これ、受け取ってください」
撫子は花束を見つめた。
瞬間、胸が締め付けられた。
『この花……』
記憶が、遠い昔へと遡っていった。
あれは、屋敷が燃える前の日だった。
十歳の小百合が、野原から帰ってきた。小さな手に、野の花を束ねて握りしめて。
「お姉様、これあげる!」
無邪気な笑顔。きらきらと輝く瞳。
「綺麗でしょう? お姉様に似合うと思って」
撫子は微笑んで、その花束を受け取った。
「ありがとう、小百合。とても綺麗ね」
小百合は嬉しそうに笑った。
「明日も摘んできてあげる! もっといっぱい!」
けれど、明日は来なかった。
その夜、屋敷は燃え、小百合は殺された。
あの花束は、小百合が撫子にくれた最後の贈り物だった。
「撫子さん?」
蓮の声が、撫子を現実に引き戻した。
撫子は泣いていた。涙が、頬を伝って落ちていた。
「あ……ごめんなさい……」
「いいえ……泣かせてしまったなら、僕の方こそ……」
「違うの」
撫子は首を横に振った。
「この花が……昔、大切な人がくれた花に似ていて……」
「そうですか……」
蓮は優しく微笑んだ。
「大切な思い出があるんですね」
撫子は頷いた。涙を拭いながら、花束を受け取った。
蓮が、撫子の手を取った。
「撫子さん」
その声が、少し震えていた。
「僕と……結婚してください」
撫子は目を見開いた。
蓮の瞳が、真っ直ぐに撫子を見つめていた。優しく、けれど真剣な眼差し。そこに嘘はなかった。
「蓮さん……」
「実は……徴兵令が来てしまいました」
撫子の心臓が、凍りついたように止まった。
「え……」
「もう時間がないんです」
蓮の声が、かすかに震えていた。
「明日には……出発しなければならない」
明日。
たった一日しかない。
「だから……どうしても今、伝えたかった」
蓮は撫子の手を、両手で包み込んだ。温かかった。生きている者の温もり。
「あなたと一緒に生きたい。戦争が終わったら……あなたと、穏やかな日々を過ごしたい」
撫子は泣いていた。涙が、止めどなく頬を伝っていた。
『うなずきたい……』
心の中で、撫子は叫んでいた。
『今すぐ、はいと言いたい……』
けれど、言えなかった。
『だって、まだ私は……』
吸血鬼。人間ではない。蓮と同じ時間を生きることができない存在。
もし今、はいと言ったとして。蓮が戦地から帰ってきた時、撫子はどうなっているだろう。
何年経っても老いない姿を、どう説明すればいい?
『でも今夜、儀式がある』
撫子は思った。
『人間に戻れるかもしれない』
『でも……失敗したら……』
灰になる。
蓮に会うこともできなくなる。
何も言えなかった。言葉が、喉の奥で詰まっていた。
「返事は……急がなくていいです」
蓮が優しく言った。
「僕のわがままを言ってしまって、すみません」
「いいえ……」
「でも……僕の気持ちだけは、受け取ってほしい」
撫子は涙を拭いた。何度拭いても、新しい涙が溢れてきた。
「蓮さん……」
やっとの思いで、言葉を絞り出した。
「ありがとうございます……私、あなたに会えて……本当に……」
それ以上、言葉が続かなかった。涙だけが溢れ続けた。
蓮は何も言わず、ただ撫子の手を握っていた。
二人は暫く、そのまま座っていた。秋の風が優しく頬を撫で、木々の葉がさらさらと音を立てていた。遠くで子どもたちの声が聞こえる。平和な午後の風景。けれどその平和が、もう長くは続かないことを、二人とも知っていた。
『蓮さん……今夜、私は人間になります』
撫子は心の中で誓った。
『そしたら……あなたと一緒に生きられる』
『だから……待っていて』
やがて、蓮は立ち上がった。
「そろそろ……行かないと」
「はい……」
撫子も立ち上がった。花束を胸に抱きしめながら。
「待っています」
蓮は言った。
「戦地から帰ってきたら……また、ここで会いましょう」
「はい」
撫子は頷いた。涙で濡れた頬のまま、微笑んだ。
「必ず……また」
「また会いましょう、撫子さん」
蓮も微笑んだ。優しく、穏やかな笑顔。
そして、蓮は歩き出した。
その背中が、少しずつ遠ざかっていく。
撫子はその背中を見つめ続けた。涙が止まらなかった。
蓮が振り返った。手を振っていた。
撫子も手を振り返した。
やがて蓮の姿が木々の向こうに消えていった。
撫子はベンチに座り直した。花束を胸に抱きしめたまま、暫くそこにいた。
『今夜……必ず、人間に戻る』
撫子は心に誓った。
『蓮さんと……一緒に生きるために』
陽が傾き始めていた。空が少しずつ茜色に染まっていく。
今夜、満月が昇る。
今夜、全てが変わる。
*
満月が、夜空に浮かんでいた。
撫子は山道を歩いていた。木々の間から差し込む月明かりが、道を青白く照らしている。
足音だけが、静寂の中に響いていた。
紗世との最後の別れを思い出していた。
夕暮れ時、撫子は屋敷で紗世と向き合った。
「紗世……私、行くわね」
「はい、撫子様」
紗世は微笑んでいた。けれどその瞳には、涙が滲んでいた。
「私は……ここで待っています。撫子様が人間に戻って……幸せになられるのを」
「紗世……」
「行ってらっしゃいませ、撫子様」
紗世はそう言って、深く頭を下げた。
撫子は紗世を抱きしめた。冷たい腕と腕が重なる。最後の抱擁。
「ありがとう、紗世……全部、全部、ありがとう」
「撫子様……どうか、お幸せに」
抱擁が解かれ、撫子は屋敷を後にした。
振り返ると、紗世が玄関に立っていた。月明かりの中で、その姿が小さく見えた。
『紗世……ごめんね』
胸が痛んだ。けれど、撫子は足を止めなかった。
山道を登り続けた。木々が深くなり、月明かりが途切れ途切れになる。
やがて、廃寺の境内に辿り着いた。
崩れかけた本堂が、月明かりの中で黒い影を落としている。苔むした石段。朽ちた狛犬。かつては人々の祈りが捧げられていた場所も、今は忘れ去られた廃墟と化していた。
静寂が、全てを包んでいた。
その中に、人影があった。
「来たか」
アザールが、月明かりの中に立っていた。長身の体躯。黒いコート。底知れない瞳。
「はい」
撫子は静かに答えた。
月明かりが二人を照らしている。風が木々を揺らし、枯葉がさらさらと舞い落ちた。
「覚悟はできているか」
「はい」
「もう一度言う。失敗すれば、お前は灰になる」
「分かっています」
撫子の声は、静かだが揺るぎなかった。
「それでも……人間に戻りたい」
アザールは暫く撫子を見つめていた。その瞳に、何かが過ぎったような気がした。
「……そうか」
アザールは頷いた。
「始めるか」
「お願いします」
アザールは古い祭壇の方へ歩いていった。撫子もその後に続いた。
祭壇は石で作られていた。苔に覆われ、長い年月を経てきたことが分かる。月明かりに照らされ、青白く光っているように見えた。
「座れ」
撫子は祭壇の前に座った。冷たい石の感触が、着物越しに伝わってきた。
アザールが何かを取り出した。
古い短剣だった。
月光が短剣の刃を青白く照らしている。刃紋が、まるで生きているかのように揺らめいて見えた。
「血を抜く」
アザールは言った。
「吸血鬼の血を全て抜き、人間の血を循環させる。それがこの儀式だ」
撫子は頷いた。
「痛みは……相当なものだ」
アザールの声は、いつもより低かった。
「吸血鬼になる時の何倍もの痛みが、何日も続く。耐えられるか」
「耐えます」
撫子の声は揺るがなかった。
『蓮さんのために』
心の中で、撫子は唱えた。
『紗世のために』
『私は……人間に戻る』
アザールは撫子の腕を取った。着物の袖をまくり、白い肌を露わにする。
短剣の刃が、肌に触れた。
冷たい。
そして——
刃が肌を裂いた。
血が流れ始めた。
瞬間——
激痛が走った。
「っ……!!」
撫子は声を押し殺した。
痛い。
体が引き裂かれるような痛み。骨の髄まで焼けるような熱さ。全身の血管が燃え上がるような感覚。
吸血鬼になった時の何倍もの痛み。アザールの言葉は本当だった。
血が流れ続ける。赤黒い血が、石の祭壇を染めていく。
撫子の体が震えた。歯を食いしばり、必死に耐える。
『蓮さん……』
心の中で、その名を呼んだ。
痛みは増していく。
体の奥底から、何かが引きずり出されるような感覚。三百年分の闇が、血と共に流れ出していく。
「ぐっ……!」
声が漏れた。額に脂汗が浮かぶ。
視界が歪む。意識が遠のきそうになる。
『負けない……』
撫子は歯を食いしばった。
『負けない……!』
*
一日目の夜が過ぎた。
撫子は祭壇の前で、ただ痛みに耐え続けていた。
血は流れ続けていた。どれだけの血が流れたのか分からない。体が空になってしまうのではないかと思うほどだった。
痛みは一瞬も止まなかった。
波のように押し寄せては引き、引いてはまた押し寄せる。穏やかな時間などなかった。常に、体を蝕む苦痛が続いていた。
夜が明け、また暮れた。
二日目。
痛みは衰えなかった。
むしろ、より深く、より鋭くなっていくような気がした。
体の奥底から、何かが剥がれ落ちていく感覚。それは三百年分の記憶だった。
『父様……』
記憶が、痛みと共に蘇っていく。
優しかった父の声。「撫子、お前は私の誇りだ」と言ってくれた日のこと。
その記憶が、血と共に流れ出していく。
『嫌だ……忘れたくない……』
けれど、痛みは容赦なく続いた。
「っ……!」
撫子は体を折り曲げた。嘔吐感が込み上げてくる。けれど吐くものなど何もなかった。
アザールは傍に立っていた。何も言わず、ただ撫子を見つめていた。
二日目の夜が過ぎた。
*
三日目。
撫子の意識は朦朧としていた。
今が昼なのか夜なのかも分からなかった。時間の感覚が失われていた。
痛みだけが、確かなものとして存在していた。
『母様……』
記憶が流れていく。
温かかった母の腕。子守唄を歌ってくれた夜。「大丈夫よ、撫子」と言ってくれた声。
全てが、血と共に流れ出していく。
『嫌だ……嫌だ……!』
けれど、撫子は耐えた。
『蓮さんのために……』
心の中で、その名を唱え続けた。
『紗世のために……』
痛みが波のように押し寄せる。意識が途切れそうになる。
けれど、撫子は目を閉じなかった。
三日目の夜が過ぎた。
*
四日目。
撫子の体は限界に近づいていた。
血は相変わらず流れ続けていた。もう体の中に血など残っていないはずなのに。それでも、赤黒い液体は祭壇を染め続けていた。
痛みは、もはや感覚を超えていた。
体が痛いのか、心が痛いのか、それすらも分からなくなっていた。
『小百合……』
記憶が流れていく。
無邪気な笑顔。「お姉様」と呼ぶ声。野の花を摘んできてくれた日。
小百合の笑顔が、血の中に溶けていく。
「小百合……!」
声が漏れた。涙が頬を伝った。
けれど、涙すらも血の色に染まっているような気がした。
四日目の夜が過ぎた。
*
五日目。
撫子は、もう自分が生きているのかどうかも分からなかった。
痛みだけが世界の全てだった。
時間も、空間も、全てが溶けて消えていた。
『紗世……』
記憶が流れていく。
幼い日、庭で出会った少女。泣いていた紗世に、四つ葉のクローバーを渡した日。「紗世ちゃん、また会おうね」と手を振った日。
三百年、傍にいてくれた紗世。「行ってらっしゃいませ、撫子様」と見送ってくれた紗世。
その記憶が、血と共に流れ出していく。
『嫌だ……紗世を忘れたくない……!』
撫子は叫んだ。声にならない叫びだった。
けれど、痛みは容赦なく続いた。
五日目の夜が過ぎた。
*
六日目。
撫子の意識は、ほとんど闇の中に沈んでいた。
痛みすらも、遠くなっていた。
『もう……駄目かもしれない……』
そう思った。
『灰になるのかもしれない……』
体から力が抜けていく。意識が薄れていく。
このまま、闇に呑まれてしまうのだろうか。
蓮に会うこともできず。
紗世に別れを告げることもできず。
ただ、灰になって消えていくのだろうか。
『嫌だ……』
心の奥底で、何かが叫んだ。
『まだ……終われない……!』
撫子は歯を食いしばった。
痛みが戻ってきた。全身を蝕む苦痛。けれど、それは生きている証だった。
『負けない……』
撫子は心の中で叫んだ。
『人間に戻るんだ……!』
『蓮さんと……一緒に生きるんだ……!』
痛みに抗い、闇に抗い、撫子は耐え続けた。
六日目の夜が過ぎた。
*
七日目の朝。
痛みは、まだ続いていた。
けれど、何かが変わり始めていた。
体の奥底で、新しい何かが生まれようとしている感覚。
血はまだ流れていた。けれど、その色が少しずつ変わっていくような気がした。赤黒い色から、鮮やかな赤へ。
『もう少し……もう少し……』
撫子は歯を食いしばり続けた。
空が白み始めていた。
東の空が、淡い紫から灰色へと変わっていく。
夜明けが近づいていた。
痛みは続いていた。けれど、その痛みの中に、温かいものが混じり始めていた。
『もう少し……もう少しだ……』
そして——
スッと、痛みが消えた。
「……?」
体が軽くなった。
七日間、体を蝕み続けた痛みが、嘘のように消えていた。
何かが……変わった。
撫子はゆっくりと目を開けた。
空が白み始めていた。
東の空が、淡い紫から橙色へと変わっていく。
夜明けだ。
そして——
太陽が、地平線から顔を出した。
オレンジ色の光が、世界を染めていく。
その光が——撫子を照らした。
「……!」
温かい。
太陽の光が、撫子の肌に降り注いでいた。
熱くない。痛くない。
ただ、温かい。
三百年ぶりの、太陽。
「太陽……!」
撫子は声を上げた。
涙が溢れてきた。
撫子はゆっくりと立ち上がった。七日間の儀式で、体は疲弊しきっていた。けれど、不思議と力が湧いてきた。
両手を広げた。太陽の光を、全身に浴びた。
温かい。優しい。生命の光。
頬を伝う涙が、朝日に輝いていた。
『人間に戻った……!』
心の中で、撫子は叫んだ。
『私……人間に戻ったんだ……!』
笑顔が浮かんだ。涙を流しながら、撫子は笑っていた。
「蓮さん……紗世……」
撫子は呟いた。
「私……人間に戻れたよ……」
太陽の光が、撫子を包み込んでいた。
朝日が昇り、新しい一日が始まる。
七日間の闘いを経て、三百年の闇が終わった。
撫子は光の中に戻ってきた。
『これから……蓮さんと一緒に生きられる……』
撫子は太陽を見上げた。
『人間として……老いて、死ぬその日まで……』
眩しい光の中で、撫子は微笑んだ。
希望に満ちた、穏やかな微笑み。
太陽が、優しく撫子を照らしていた。
長い長い夜が終わり、朝が来た。
撫子の新しい人生が、今、始まろうとしていた。




