人間への願いと別れ
十四
月明かりが、山道を青白く照らしていた。
撫子と紗世は、人気のない夜道を歩いていた。木々の間から差し込む月光が、二人の影を長く伸ばしている。
アザールを探す旅に出て、三日が経っていた。
『蓮と一緒に生きたい』
撫子は胸の奥で、何度もその想いを確かめていた。
『人間として、老いて、死ぬその日まで』
三百年もの間、撫子は永遠の闇の中を彷徨ってきた。復讐を果たしても心は満たされず、虚無だけが残った。けれど蓮と出会い、撫子の心に光が差し込んだ。
人間に戻りたい。
蓮の傍で、温もりの中で生きたい。
「撫子様」
紗世の声が、静寂を破った。
「少し休まれますか?」
「いいえ、大丈夫よ」
撫子は微笑んだ。紗世は静かに頷き、再び歩き始めた。
紗世の横顔を見つめながら、撫子は胸が痛むのを感じた。人間に戻るということは、紗世と別れるということ。三百年もの間、傍にいてくれた紗世を、一人にしてしまうということ。
『ごめんね、紗世』
その言葉を、撫子は心の中で何度も呟いた。
山道を越え、古い神社の跡に辿り着いた。鳥居は朽ち果て、石段は苔に覆われている。かつては人々の祈りが捧げられていた場所も、今は忘れ去られた廃墟と化していた。
「ここではないようですね」
紗世が周囲を見回しながら言った。
「そうね……もう少し先へ行きましょう」
二人は神社跡を後にし、さらに山の奥へと進んだ。
やがて、古い廃寺の境内に辿り着いた。崩れかけた本堂が、月明かりの中で黒い影を落としている。
その影の中に、人影があった。
「久しぶりだな、撫子」
低く、落ち着いた声。
アザールが、月明かりの中に姿を現した。
*
長身の男だった。黒いコートを纏い、闇そのものを身に纏っているような存在感。三百年前、撫子を吸血鬼にした張本人。
「アザール……」
撫子は息を呑んだ。
「探していたようだな」
アザールは静かに歩み寄ってきた。その瞳は深く、底知れない闇を湛えている。
「お前たちを探していた」
「私たちを?」
「ああ。お前がいずれ来ると思っていた」
アザールは撫子を見つめた。
「人間に戻りたいのだろう」
撫子は頷いた。
「方法があるなら……教えてほしいの」
「方法は存在する」
アザールの言葉に、撫子の心臓が跳ねた。
「だが、代償がある」
「代償……?」
「人間に戻る儀式は、満月の夜に行う。吸血鬼の力を完全に捨て、人間として生まれ変わる。だが……」
アザールは一拍置いて、続けた。
「記憶の一部が失われる可能性がある」
撫子は息を呑んだ。
「記憶が……」
「三百年分の全てではない。だが、大切な記憶が欠落するかもしれない。誰を忘れるか、何を失うかは、儀式が終わるまで分からない」
紗世が、小さく息を呑む音が聞こえた。
「そして」
アザールは続けた。
「儀式の成功は確実ではない。失敗すれば、お前は灰になる」
撫子の背筋に、冷たいものが走った。
「灰に……」
「それでも、お前は望むか」
アザールの問いが、夜の静寂に響いた。
撫子は目を閉じた。
『三百年の記憶を失うかもしれない』
父の顔。母の声。小百合の笑顔。
そして、紗世との日々。
『紗世を……忘れてしまうかもしれない』
胸が締め付けられるように痛んだ。
けれど。
『それでも……蓮と生きたい』
撫子は目を開けた。
「望むわ」
その声は、静かだが揺るぎなかった。
「たとえ記憶を失っても。たとえ灰になる危険があっても。私は……人間に戻りたい」
アザールは暫く撫子を見つめていた。その瞳に、何かが過ぎったような気がした。
「……そうか」
アザールは頷いた。
「儀式の日取りは、次の満月の夜。七日後だ。準備を整えておけ」
「分かったわ」
「場所はこの廃寺の境内。夜半過ぎに来い」
アザールはそう言うと、踵を返した。
「アザール」
撫子は呼び止めた。
「なぜ……教えてくれるの?」
アザールは振り返らなかった。
「お前が選んだ道だ。それを見届けるのが、私の役目だ」
その言葉を最後に、アザールは闇の中へ消えていった。
後には、月明かりと静寂だけが残った。
撫子は紗世を見た。紗世は静かに立っていた。その表情には、寂しさと覚悟が滲んでいた。
「紗世……」
「大丈夫です、撫子様」
紗世は微笑んだ。その微笑みの奥に、涙を堪えているような色があった。
「撫子様が望むなら……私は、何も言いません」
「紗世……」
「帰りましょう。蓮様が、待っていらっしゃいます」
紗世はそう言って、先に歩き始めた。
撫子はその背中を見つめながら、胸の痛みを噛み締めていた。
*
屋敷に戻った翌日、撫子は蓮に会いに行った。
町の公園。秋の陽射しが木々の葉を透かして、地面に柔らかな影を落としている。
蓮はベンチに座って、本を読んでいた。撫子の姿を見つけると、顔を上げて微笑んだ。
「撫子さん」
「こんにちは、蓮さん」
撫子は蓮の隣に座った。蓮の温もりが、すぐ傍に感じられる。
「最近、少し元気がないね」
蓮が心配そうに言った。
「何かあった?」
「……いいえ」
撫子は首を横に振った。
「ただ、これから大切なことがあるの」
「大切なこと?」
「ええ……とても、大切なこと」
撫子は蓮を見つめた。優しい瞳。穏やかな表情。父に似た、温かな雰囲気。
『この人と生きたい』
心の底から、そう思った。
「何か手伝えることがあれば、言ってね」
蓮が言った。
「僕にできることなら、何でもするよ」
「……ありがとう」
撫子は蓮の手に、そっと自分の手を重ねた。蓮の手は温かかった。生きている者の温もり。
『もうすぐ……私も、この温もりを持てる』
蓮と同じ時間を生きられる。老いて、皺が増えて、やがて死んでいく。けれどそれは、人間として当たり前の幸せ。
「蓮さん」
「何?」
「私、あなたに会えてよかった」
蓮は少し驚いたような顔をして、それから優しく微笑んだ。
「僕もだよ、撫子さん」
二人は暫く、手を重ねたまま座っていた。秋の風が、優しく頬を撫でていった。
*
満月まで、あと三日。
夜、屋敷の居間で、撫子と紗世は向かい合って座っていた。
月明かりが障子を透かして、畳の上に淡い影を落としている。
「紗世」
撫子は口を開いた。
「私は……人間に戻る。蓮さんと生きたい」
「……はい」
紗世は静かに頷いた。その瞳に、涙が滲んでいた。
「分かっています」
「ごめんね」
撫子の声が震えた。
「あなたを……一人にしてしまう」
「いいんです」
紗世は首を横に振った。
「撫子様が笑顔でいられるなら……それが、私の願いですから」
紗世はそう言って、着物の袂に手を入れた。
取り出したのは、小さな押し花だった。
「これ……覚えていますか?」
月明かりの中、それは淡い緑色に見えた。
四つ葉のクローバー。
「紗世……これ……」
撫子は目を見開いた。
「やっと見つけたんです」
紗世の声が、かすかに震えていた。
「あの日から……ずっと探していました。撫子様にあげようと思って……ずっと、大切にしていました」
「あの日……」
撫子の記憶が、遠い昔へと遡っていった。
「私たちが……初めて会った日」
「はい」
紗世は頷いた。涙が、頬を伝って落ちた。
「あの日、撫子様がくださった四つ葉のクローバー。お返しをしたくて……でも、なかなか見つからなくて……」
「紗世……」
「三百年経って……やっと、お返しができます」
紗世は押し花を、撫子の手に渡した。
撫子はそれを受け取り、じっと見つめた。長い年月を経て、色褪せてはいるが、四つ葉の形は確かに残っていた。
涙が、撫子の頬を伝った。
「ありがとう……紗世」
「撫子様こそ……ありがとうございました」
紗世も泣いていた。
「三百年……ずっと、傍にいてくださって」
「あの日から……ずっと一緒だったね、紗世」
「はい……ずっと」
撫子は紗世の手を取った。冷たい手と手が重なる。
「もし記憶を失っても……紗世のことは忘れない。絶対に」
「撫子様……」
「だって、あなたは私の一番の友達だから」
紗世の顔が、歪んだ。堪えていた涙が、堰を切ったように溢れ出した。
「私も……ずっと撫子様を見守っています。どこにいても……」
二人は抱き合った。冷たい腕が、互いを強く抱きしめる。
三百年の絆が、二人を包んでいた。
「ありがとう、紗世……全部、全部、ありがとう」
「撫子様……」
どれほどの時間、そうしていただろう。
やがて抱擁が解かれ、撫子は立ち上がった。
「休みましょう。明後日の夜のために」
「はい……」
撫子が部屋を出ていく。その足音が遠ざかっていった。
紗世は一人、窓辺に座った。
満月が、夜空に浮かんでいる。あと三日で、儀式が行われる。
撫子が……人間に戻る。
紗世は押し花を見つめた。あの日、撫子が自分にくれた四つ葉のクローバー。今、お返しができた。
『これで……いいんだ』
涙が、また溢れてきた。
『撫子様の幸せが、私の幸せだから』
紗世は月を見上げた。
「行ってらっしゃい、撫子様……」
声にならない声で、紗世は呟いた。
静かな涙が、頬を伝って落ちた。
紗世は押し花を胸に抱き、目を閉じた。
遠い記憶が、ゆっくりと蘇ってきた。
*
あれは、とても遠い昔のことだった。
撫子が八つ、紗世が五つの頃。
その日、撫子は朝から落ち着かなかった。
乳母の佳世が言っていた。「今日、娘を連れてきます」と。
『佳世の娘さん……どんな子かな?』
撫子は期待に胸を膨らませていた。自分と遊んでくれる子が来るかもしれない。友達ができるかもしれない。
ふと、撫子は思いついた。
『そうだ、四つ葉のクローバーを見つけよう!』
四つ葉のクローバーは幸せを呼ぶという。それを贈れば、きっと喜んでもらえる。
撫子は屋敷を抜け出し、裏山の草原へと駆け出した。
草むらをかき分け、クローバーを探す。三つ葉ばかりが目に入る。どこかに四つ葉があるはず。
「どこかな……どこかな……」
撫子は膝をついて、地面に顔を近づけた。着物の裾が泥で汚れていく。けれど構わなかった。四つ葉を見つけることが大事だった。
陽が高くなり、汗が額を伝う。それでも撫子は探し続けた。
そして——
「見つけた!」
茂みの奥に、小さな四つ葉のクローバーがあった。
撫子は慎重に手を伸ばし、そっと摘み取った。四枚の葉が、陽の光を受けて輝いていた。
「やった……!」
撫子は満足げに微笑んだ。着物は泥だらけ。膝も手も汚れている。けれど、大切な宝物を手に入れた。
急いで屋敷に戻ろうと、裏山を駆け下りた。
その時だった。
庭の隅で、小さな女の子がしゃがみ込んでいるのが見えた。
「……?」
撫子はそっと近づいた。
小さな肩が震えていた。しゃくり上げる声が聞こえた。泣いているのだ。
「どうしたの?」
撫子は優しく声をかけた。
女の子が顔を上げた。涙でぐしゃぐしゃの顔。五つか六つくらいの、小さな女の子だった。
「お母さんが……どこか行っちゃって……」
女の子は声を震わせながら言った。
「お庭が綺麗で…でも広くて……迷子になっちゃった……怖い……」
「大丈夫だよ」
撫子は微笑みかけた。
「怖くないよ。お母さんの名前は?」
「佳世……です」
撫子の目が大きく見開かれた。
「佳世って……じゃあ、あなたが紗世ちゃん?」
「うん……」
女の子——紗世は、涙を拭きながら小さく頷いた。
「やっと会えた!」
撫子は嬉しそうに笑った。
「私、あなたが来るの、朝からずっと待ってたんだよ!」
紗世は驚いたように撫子を見上げた。涙の跡が残る頬。まだ怯えたような目。
撫子は泥だらけの手を差し出した。その手の中には、さっき見つけた四つ葉のクローバーが大切に握られていた。
「これ、あげる」
「……え?」
「四つ葉のクローバー。幸せになれるんだって」
撫子は泥だらけの手で、クローバーを紗世の前に差し出した。
「私、あなたに会えるのをずっと待ってたの。だから……これ、紗世ちゃんにあげたくて」
紗世は目を丸くした。小さな手で、おずおずとクローバーを受け取った。
じっと見つめる。
「……きれい」
その声は、まだ震えていた。けれど、涙は止まっていた。
そして——紗世の顔に、初めての笑顔が浮かんだ。
恥ずかしそうな、でも嬉しそうな、小さな笑顔。
「ありがとう……」
「よかった! 笑ったね!」
撫子も嬉しそうに笑った。
「私は撫子よ。あなたが屋敷に来るの、待ってるからね!」
「うん……!」
紗世は頷いた。その瞳から、怯えの色が消えていた。
遠くから、佳世の声が聞こえた。
「紗世! どこにいるの!?」
「お母さんが呼んでるよ。行こう!」
撫子は紗世の手を取った。小さな手と手が繋がる。紗世の手は冷たかったけれど、撫子がぎゅっと握ると、少しずつ温かくなっていくような気がした。
二人は手を繋いで、佳世のもとへ走った。
「撫子様! 紗世! ありがとうございます……」
佳世が安堵の表情で二人を迎えた。
撫子は紗世の手を離した。けれど、その温もりはまだ掌に残っていた。
「紗世ちゃん、また会おうね!」
撫子は手を振った。
「うん! また……!」
紗世も手を振り返した。その手には、四つ葉のクローバーが大切に握られていた。
温かい陽射しの中で、二人の笑顔が重なった。
小さな手と手が繋がった、あの温もり。
それが、三百年続く絆の始まりだった。




