紗世の想い
紗世の視点になります。
十三
朝の光が障子を透かして、畳の上に淡い影を落としていた。
紗世は台所で朝餉の支度を終え、廊下を静かに歩いていた。二階から撫子の足音が聞こえてくる。いつもより軽やかな音だった。
『今日も、あの方と会いに行かれるのですね』
撫子が階段を降りてくる。淡い紫のワンピースに身を包み、髪は丁寧に結い上げられていた。その上から薄手のカーディガンを羽織り、襟元まで深く覆っている。手には日傘と薄手の手袋。昼間の陽射しから身を守るための、念入りな装いだった。三百年変わらぬ美しい横顔。けれど今日は、どこか違う。頬がほんのり色づいているような気がした。
「紗世、行ってくるわね」
「はい、撫子様。お気をつけて」
撫子が玄関へ向かう。その背中を見送りながら、紗世は自分の胸に手を当てた。
『撫子様が楽しそうで、私も嬉しい。でも……』
言葉にできない何かが、胸の奥で小さく軋んだ。
玄関の戸が閉まる音がして、撫子の足音が遠ざかっていく。紗世は暫くその場に立ち尽くしていた。静寂が屋敷を包み込む。三百年もの間、二人だけで過ごしてきた。その静寂に慣れていたはずなのに、今日はどこか違って感じられた。
紗世は箒を手に取り、掃き掃除を始めた。廊下の端から端まで、丁寧に塵を払っていく。撫子が帰ってきた時、綺麗な屋敷でお迎えするために。
『撫子様は、いつ頃お帰りになるだろうか』
以前なら、撫子が外出することは稀だった。二人で夜の町を歩き、必要な時だけ人間の世界へ出向いた。けれど最近は違う。撫子は昼間から出かけることが増えた。あの男と会うために。
紗世は二階へ上がり、撫子の部屋の襖を開けた。陽の光を遮るため、厚い紙障子が張られている。その薄暗がりの中、文机の上に一輪の花が活けられていた。
撫子の花。
紫がかった淡い桃色の小さな花。あの男が、撫子に贈ったものだった。
『あの花は、あの方が撫子様に贈ったもの』
紗世は花に近づき、その花弁をそっと見つめた。愛らしい花だった。撫子という名に相応しい、可憐な姿。あの男は撫子の名を聞いて、この花を選んだのだろうか。
紗世は文机を丁寧に拭き、花瓶の水を替えた。萎れかけた花弁を一枚、そっと取り除く。撫子が戻った時、この花がまだ美しく咲いていますように。そう願いながら。
掃除を終え、紗世は縁側に腰を下ろした。庭の木々が風に揺れている。秋が近づき、葉の色が少しずつ変わり始めていた。
三百年。
気の遠くなるような時間を、紗世は撫子の傍で過ごしてきた。撫子だけを見てきた。撫子の笑顔を守るために生きてきた。
『でも、今は……』
今は、撫子を笑顔にしているのは紗世ではない。あの男だ。蓮という名の、人間の男。
紗世は自分の手を見つめた。白く、冷たく、死人のような手。人間だった頃の温もりは、もう思い出せない。
*
昼過ぎ、紗世は買い物のために町へ出た。
陽の光は苦手だったが、曇り空ならば何とか耐えられる。深く被った帽子の下から、通りを行き交う人々を眺めた。
あの場所へ行くつもりはなかった。ただ、足が自然とそちらへ向かっていた。
古い煉瓦造りの図書館。その前の公園に、二人の姿があった。
撫子と蓮が、木陰のベンチに並んで座っていた。蓮が何かを言い、撫子が笑っている。声は聞こえなかったが、撫子が心から笑っているのが分かった。
紗世は街路樹の陰に身を隠し、二人を見つめた。
蓮という男は、二十代の半ばだろうか。教師だと聞いていた。穏やかな眼差しと、どこか懐かしい雰囲気を持つ男。撫子が言っていた。「紗世、あの人は……父上に似ているの」と。
『撫子様のお父上に……』
あの優しかった殿様。紗世も覚えている。撫子と同じ、澄んだ瞳を持っていた方だった。
蓮が立ち上がり、撫子に手を差し伸べた。撫子がその手を取り、立ち上がる。二人は何かを話しながら、ゆっくりと歩き始めた。
紗世はその姿を目で追った。二人が光の中を歩いていく。撫子の横顔が、柔らかく微笑んでいる。
『あの方は、撫子様を笑顔にできる』
蓮は光の中を生きる人間だった。三百年の闇を知らない、温かな世界に生きる者。撫子が失ったものを、今も持っている者。
紗世には、撫子をあんなふうに笑わせることができなかった。
『私では……駄目なのですね』
胸の奥で、何かが軋む音がした。けれど紗世は、それを押し殺した。撫子が幸せならば、それでいい。撫子が笑っているならば、それが全て。
二人の姿が通りの向こうへ消えていく。紗世は暫くその場に立ち尽くしていた。
*
夕暮れ時、紗世は縁側に座って庭を眺めていた。
遠い昔のことを思い出していた。まだ人間だった頃。撫子の傍で過ごした、幼い日々のことを。
紗世が撫子の侍女見習いとなったのは、五つの時だった。母に連れられて屋敷に上がり、撫子の部屋へ通された日のことを、今も鮮明に覚えている。
撫子は紗世より二つ年上だった。美しい黒髪と、澄んだ瞳を持つ少女。身分の違いなど気にもせず、撫子は紗世に手を差し伸べた。
「やっと会えたね、紗世。私と遊んでくれる?」
その日から、二人は離れがたい存在になった。
ある冬の夜、撫子が高い熱を出したことがあった。
医者が呼ばれ、屋敷中が慌ただしくなった。紗世は部屋の隅で膝を抱え、震えていた。撫子様が死んでしまったらどうしよう。そんな恐怖が、幼い胸を締め付けていた。
「紗世、もうお休みなさい」
母が迎えに来た。けれど紗世は首を横に振った。
「撫子様の傍にいます」
「でも、あなたまで風邪を引いたら……」
「いいの。傍にいたいの」
母は困った顔をしたが、最後には折れてくれた。
紗世は撫子の枕元に座り、一晩中その手を握り続けた。冷たい手拭いを額に当て、汗を拭き、水を飲ませた。撫子が苦しそうに呻くたび、紗世は祈った。どうか、どうか治りますように。
夜明け近く、撫子の熱が下がり始めた。薄く目を開けた撫子が、紗世を見て微笑んだ。
「紗世……ずっと、いてくれたの?」
「はい」
「ありがとう……」
撫子の手が、紗世の手を弱々しく握り返した。その温もりが、紗世の胸に沁みた。
『この方を守りたい』
幼いながらも、紗世はそう思った。
また別の日のことも思い出す。
梅雨の季節だった。雨が何日も続き、庭は水浸しになっていた。外で遊べない日が続き、撫子は少し退屈そうだった。
その日、二人は縁側に並んで座っていた。雨音を聞きながら、ぼんやりと庭を眺めていた。
「紗世」
「はい、撫子様」
「私ね、時々怖くなるの」
撫子の声は、いつもより小さかった。
「怖い……とは?」
「いつか紗世がいなくなってしまうんじゃないかって」
紗世は驚いて撫子を見た。撫子は雨の降る庭を見つめたまま、続けた。
「母上が言っていたの。侍女はいつか嫁に行くものだって。紗世も、いつかどこかへ行ってしまうのかしら」
「私は……」
紗世は言葉を探した。まだ幼くて、難しいことは分からなかった。けれど、一つだけ確かなことがあった。
「私は、撫子様の傍にいたいです」
「本当?」
撫子が紗世を見た。その瞳に、かすかな不安の色が浮かんでいた。
「本当です。ずっと、撫子様の傍にいます」
撫子の顔に、笑みが広がった。
「約束よ、紗世。ずっと一緒にいてね」
「はい。約束します」
雨音の中で交わした、幼い約束。それが今も、紗世の胸の奥で息づいている。
そして、小百合が生まれた日のことも。
撫子が十の時だった。待望の妹が生まれ、屋敷中が喜びに沸いた。撫子は生まれたばかりの小百合を覗き込み、頬を紅潮させていた。
「見て、紗世。可愛いでしょう?」
「はい、とても」
小さな小さな赤子。撫子に似た、愛らしい顔立ちだった。
その夜、撫子は紗世を自室に呼んだ。二人きりになると、撫子は少し照れくさそうに言った。
「紗世、私ね……少し寂しかったの」
「寂しい……ですか?」
「小百合が生まれて、皆そちらに夢中でしょう。父上も母上も。私は少しだけ、置いていかれたような気がして」
撫子は苦笑した。
「おかしいでしょう。妹が生まれて嬉しいのに、寂しいなんて」
「おかしくありません」
紗世は首を振った。
「撫子様がそうお感じになるなら、それが撫子様のお気持ちです」
撫子は紗世を見つめた。それから、ふっと笑った。
「紗世は私の一番の友達よ」
「撫子様……」
「本当よ。誰よりも、あなたが一番。小百合が生まれても、それは変わらないわ」
その言葉が、紗世の胸に深く刻まれた。
一番の友達。
身分の差など関係なく、撫子は紗世をそう呼んでくれた。
あの頃の日々は、光に満ちていた。撫子の傍にいることが、紗世の全てだった。撫子の笑顔が、紗世の幸せだった。
そして今も、それは変わらない。
三百年が経っても、紗世の想いは変わらない。
ただ……
『今は、撫子様を笑顔にしているのは……私ではない』
紗世は庭を見つめながら、静かに息を吐いた。
*
月が昇る頃、撫子が帰ってきた。
「紗世、ただいま」
「お帰りなさいませ、撫子様」
撫子の頬は、まだほんのりと色づいていた。楽しい時間を過ごしてきたのだろう。紗世は微笑んで、撫子の靴を揃えた。
「お風呂の用意を致しましょうか」
「ええ、お願い」
撫子が奥へ進んでいく。紗世はその背中を見送り、湯殿へ向かった。
湯を沸かしながら、紗世は自分の胸に問いかけた。
『私は……何を望んでいるのだろう』
撫子が幸せであること。それは間違いない。撫子が笑っていること。それだけを願ってきた。
けれど今、撫子を笑顔にしているのは紗世ではない。蓮という男だ。人間の男だ。
紗世は蓮を憎んでいるのだろうか。
『いいえ……違う』
蓮を憎むことはできなかった。あの男は、本当に撫子を大切に想っているように見えた。撫子の瞳の奥にある悲しみを、見抜いているような眼差しだった。
紗世が憎んでいるのは、自分自身なのかもしれなかった。
撫子を笑顔にできない、自分自身。三百年も傍にいながら、撫子の心を救えなかった自分自身。
湯が沸き、紗世は撫子を呼びに行った。
湯殿から上がった撫子は、縁側に座って月を見上げていた。紗世は茶を淹れて、傍に控えた。
「紗世」
「はい」
「今日、蓮さんと……」
撫子が言葉を切った。何かを迷っているような表情だった。
「蓮さんと、何かございましたか」
「……蓮さんが、私に言ったの。『ずっと傍にいたい』と」
紗世の胸が、鋭く痛んだ。
「そう……ですか」
「私は……どうすればいいのかしら」
撫子が紗世を見つめた。その瞳には、迷いと、そして何かを問いかけるような色があった。
「紗世、あなたは……」
「私は」
紗世は静かに答えた。
「撫子様が、幸せであればいいと思います」
「紗世……」
「撫子様が望まれることが、私の望みです。それは、三百年前から変わりません」
撫子が紗世の手を取った。冷たい手と手が重なる。
「紗世、私は……あなたを置いていくことなどできない」
「撫子様」
「三百年、あなたは私の傍にいてくれた。私を支えてくれた。あなたがいなければ、私は……」
撫子の声が震えていた。
紗世は撫子の手を、そっと握り返した。
「撫子様、私は大丈夫です」
「でも……」
「撫子様がどのような選択をされても、私は撫子様の傍にいます。それは変わりません」
紗世は微笑んだ。心の奥で、何かが軋む音がした。けれどそれを、撫子に見せてはいけない。
「撫子様が蓮様を選ばれるなら、私は二人を見守ります。撫子様が永遠を選ばれるなら、私は永遠に傍にいます」
「紗世……」
「私の願いは、ただ一つ。撫子様が幸せであること。それだけです」
撫子が紗世を抱きしめた。冷たい腕が、紗世を包み込む。
「ありがとう……紗世」
紗世は撫子の背に手を回し、静かに目を閉じた。
『嘘ではない。けれど……全てでもない』
撫子が幸せであればいい。それは本当だった。けれど心の奥底で、紗世は叫んでいた。
『私を置いていかないで』
その言葉を、紗世は呑み込んだ。撫子に、そんな重荷を背負わせたくなかった。
抱擁が解かれ、撫子が立ち上がった。
「もう遅いわ。休みましょう」
「はい、撫子様」
撫子が部屋へ戻っていく。紗世は縁側に残り、月を見上げた。
満月が、静かに夜空を照らしていた。
*
深夜、紗世は一人で屋敷を歩いていた。
撫子はもう眠っているだろう。紗世には眠りは必要なかったが、それでも夜は長く感じられた。
庭に出て、池の畔に立った。月明かりが水面を銀色に染めている。
紗世は水面を覗き込んだ。自分の姿は映らない。吸血鬼には、鏡も水も、己の姿を映してはくれない。
『私は……何者なのだろう』
三百年前、紗世は人間だった。撫子の侍女として生き、撫子の傍で死ぬつもりだった。けれど運命は、紗世を永遠の闇へ導いた。
今は吸血鬼として、撫子の傍にいる。けれど紗世の心は、今も人間だった頃の想いを抱えていた。
撫子を愛している。
その感情に、紗世は名前をつけることができなかった。主への忠誠なのか。友への情なのか。それとも……
『それとも……』
紗世は首を振った。考えても仕方のないことだった。
撫子は今、蓮という男に心を寄せている。人間の男に。光の中を生きる者に。
紗世には、それを止める権利はない。撫子が幸せになれるなら、紗世は何でもする。たとえ、撫子が蓮を選び、人間に戻ることを選んだとしても。
『その時、私は……』
その時、紗世は一人になる。永遠の闇の中で、一人きりになる。
アザールが言っていた。人間に戻る方法があると。けれどそれは、撫子だけに許された選択だった。紗世には、その道は開かれていない。
『私は……永遠に、ここにいる』
撫子が去っても。撫子が人間に戻っても。紗世は永遠に、闇の中を歩み続ける。
それでいい。
紗世は月を見上げた。涙が、頬を伝って落ちた。
「撫子様……」
声にならない声で、紗世は呟いた。
「どうか、幸せに」
涙が止まらなかった。けれど紗世は、それを拭わなかった。今夜だけは、泣くことを自分に許した。
月が静かに、夜空を渡っていく。
紗世は暫くそこに立ち尽くし、やがて静かに屋敷へ戻った。
撫子の部屋の前で立ち止まり、襖越しに耳を澄ませた。静かな寝息が聞こえる。撫子は安らかに眠っている。
『明日も、撫子様の傍にいよう』
紗世は自分の部屋へ戻り、窓辺に座った。
東の空が、わずかに白み始めていた。もうすぐ夜が明ける。また新しい一日が始まる。撫子が蓮と会いに行く、また一日が。
紗世は目を閉じた。
『撫子様が選ぶものが、何であれ……私は受け入れる』
それが、三百年かけて紗世が辿り着いた答えだった。
『たとえ、永遠の孤独が待っていても』
紗世は静かに息を吐いた。そして、朝の光が差し込む前に、眠りについた。
*
夢を見た。
幼い頃の夢だった。
屋敷の庭を這いつくばり、草むらをかき分けていた。膝が泥に沈み、着物の裾がぐっしょりと濡れていた。
四つ葉を探していた。
撫子が見つけた、あの四つ葉。同じものを、紗世も見つけたかった。けれど、どれだけ探しても見つからない。三つ葉ばかりが、指の間をすり抜けていく。
泥だらけの手を見つめて、紗世は泣いていた。
夢の中でも、あの温もりが蘇った。
撫子が傍にしゃがみ込み、紗世の汚れた両手を包んでくれた。白く小さな手が、泥にまみれた紗世の手を、優しく、優しく包んでいた。
「私たちは一緒なのだから」
撫子の声が、夢の中で響いていた。
「私のものは、紗世のもの。紗世のものは、私のもの」
紗世は夢の中で、幼い撫子に問いかけた。
『撫子様、今も……一緒ですか』
撫子は答えなかった。ただ、優しく微笑んで、紗世の手を握り続けていた。
目が覚めた時、紗世の頬には涙の跡が残っていた。
窓の外では、陽が高く昇っていた。撫子はもう起きているだろうか。
紗世は立ち上がり、着物を整えた。鏡には何も映らないが、それでも身嗜みを確かめる仕草は習慣になっていた。
『今日も、撫子様の傍にいよう』
襖を開け、廊下へ出た。
撫子の部屋から、物音が聞こえた。撫子が身支度をしているのだろう。今日も、蓮と会いに行くのかもしれない。
紗世は静かに微笑んだ。
『私は、ここにいる』
撫子がどこへ行こうとも。撫子が誰を選ぼうとも。紗世はずっと、ここにいる。
それが、紗世の選んだ道だった。
あの日、泥だらけの手を包んでくれた撫子。惨めな自分を受け入れてくれた撫子。
その温もりを、紗世は三百年経った今も忘れていない。
たとえ撫子が別の誰かを選んでも。たとえ永遠の孤独が待っていても。
紗世だけは、あの日の温もりを抱いて生きていく。
永遠に。




