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緋色の月に抱かれて ―永遠の孤独と四つ葉の誓い―  作者: 月代 緋色


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13/17

紗世の想い

紗世の視点になります。

十三

朝の光が障子を透かして、畳の上に淡い影を落としていた。


紗世は台所で朝餉の支度を終え、廊下を静かに歩いていた。二階から撫子の足音が聞こえてくる。いつもより軽やかな音だった。


『今日も、あの方と会いに行かれるのですね』


撫子が階段を降りてくる。淡い紫のワンピースに身を包み、髪は丁寧に結い上げられていた。その上から薄手のカーディガンを羽織り、襟元まで深く覆っている。手には日傘と薄手の手袋。昼間の陽射しから身を守るための、念入りな装いだった。三百年変わらぬ美しい横顔。けれど今日は、どこか違う。頬がほんのり色づいているような気がした。


「紗世、行ってくるわね」


「はい、撫子様。お気をつけて」


撫子が玄関へ向かう。その背中を見送りながら、紗世は自分の胸に手を当てた。


『撫子様が楽しそうで、私も嬉しい。でも……』


言葉にできない何かが、胸の奥で小さく軋んだ。


玄関の戸が閉まる音がして、撫子の足音が遠ざかっていく。紗世は暫くその場に立ち尽くしていた。静寂が屋敷を包み込む。三百年もの間、二人だけで過ごしてきた。その静寂に慣れていたはずなのに、今日はどこか違って感じられた。


紗世は箒を手に取り、掃き掃除を始めた。廊下の端から端まで、丁寧に塵を払っていく。撫子が帰ってきた時、綺麗な屋敷でお迎えするために。


『撫子様は、いつ頃お帰りになるだろうか』


以前なら、撫子が外出することは稀だった。二人で夜の町を歩き、必要な時だけ人間の世界へ出向いた。けれど最近は違う。撫子は昼間から出かけることが増えた。あの男と会うために。


紗世は二階へ上がり、撫子の部屋の襖を開けた。陽の光を遮るため、厚い紙障子が張られている。その薄暗がりの中、文机の上に一輪の花が活けられていた。


撫子の花。


紫がかった淡い桃色の小さな花。あの男が、撫子に贈ったものだった。


『あの花は、あの方が撫子様に贈ったもの』


紗世は花に近づき、その花弁をそっと見つめた。愛らしい花だった。撫子という名に相応しい、可憐な姿。あの男は撫子の名を聞いて、この花を選んだのだろうか。


紗世は文机を丁寧に拭き、花瓶の水を替えた。萎れかけた花弁を一枚、そっと取り除く。撫子が戻った時、この花がまだ美しく咲いていますように。そう願いながら。


掃除を終え、紗世は縁側に腰を下ろした。庭の木々が風に揺れている。秋が近づき、葉の色が少しずつ変わり始めていた。


三百年。


気の遠くなるような時間を、紗世は撫子の傍で過ごしてきた。撫子だけを見てきた。撫子の笑顔を守るために生きてきた。


『でも、今は……』


今は、撫子を笑顔にしているのは紗世ではない。あの男だ。蓮という名の、人間の男。


紗世は自分の手を見つめた。白く、冷たく、死人のような手。人間だった頃の温もりは、もう思い出せない。


   *


昼過ぎ、紗世は買い物のために町へ出た。


陽の光は苦手だったが、曇り空ならば何とか耐えられる。深く被った帽子の下から、通りを行き交う人々を眺めた。


あの場所へ行くつもりはなかった。ただ、足が自然とそちらへ向かっていた。


古い煉瓦造りの図書館。その前の公園に、二人の姿があった。


撫子と蓮が、木陰のベンチに並んで座っていた。蓮が何かを言い、撫子が笑っている。声は聞こえなかったが、撫子が心から笑っているのが分かった。


紗世は街路樹の陰に身を隠し、二人を見つめた。


蓮という男は、二十代の半ばだろうか。教師だと聞いていた。穏やかな眼差しと、どこか懐かしい雰囲気を持つ男。撫子が言っていた。「紗世、あの人は……父上に似ているの」と。


『撫子様のお父上に……』


あの優しかった殿様。紗世も覚えている。撫子と同じ、澄んだ瞳を持っていた方だった。


蓮が立ち上がり、撫子に手を差し伸べた。撫子がその手を取り、立ち上がる。二人は何かを話しながら、ゆっくりと歩き始めた。


紗世はその姿を目で追った。二人が光の中を歩いていく。撫子の横顔が、柔らかく微笑んでいる。


『あの方は、撫子様を笑顔にできる』


蓮は光の中を生きる人間だった。三百年の闇を知らない、温かな世界に生きる者。撫子が失ったものを、今も持っている者。


紗世には、撫子をあんなふうに笑わせることができなかった。


『私では……駄目なのですね』


胸の奥で、何かが軋む音がした。けれど紗世は、それを押し殺した。撫子が幸せならば、それでいい。撫子が笑っているならば、それが全て。


二人の姿が通りの向こうへ消えていく。紗世は暫くその場に立ち尽くしていた。


   *


夕暮れ時、紗世は縁側に座って庭を眺めていた。


遠い昔のことを思い出していた。まだ人間だった頃。撫子の傍で過ごした、幼い日々のことを。


紗世が撫子の侍女見習いとなったのは、五つの時だった。母に連れられて屋敷に上がり、撫子の部屋へ通された日のことを、今も鮮明に覚えている。


撫子は紗世より二つ年上だった。美しい黒髪と、澄んだ瞳を持つ少女。身分の違いなど気にもせず、撫子は紗世に手を差し伸べた。


「やっと会えたね、紗世。私と遊んでくれる?」


その日から、二人は離れがたい存在になった。


ある冬の夜、撫子が高い熱を出したことがあった。


医者が呼ばれ、屋敷中が慌ただしくなった。紗世は部屋の隅で膝を抱え、震えていた。撫子様が死んでしまったらどうしよう。そんな恐怖が、幼い胸を締め付けていた。


「紗世、もうお休みなさい」


母が迎えに来た。けれど紗世は首を横に振った。


「撫子様の傍にいます」


「でも、あなたまで風邪を引いたら……」


「いいの。傍にいたいの」


母は困った顔をしたが、最後には折れてくれた。


紗世は撫子の枕元に座り、一晩中その手を握り続けた。冷たい手拭いを額に当て、汗を拭き、水を飲ませた。撫子が苦しそうに呻くたび、紗世は祈った。どうか、どうか治りますように。


夜明け近く、撫子の熱が下がり始めた。薄く目を開けた撫子が、紗世を見て微笑んだ。


「紗世……ずっと、いてくれたの?」


「はい」


「ありがとう……」


撫子の手が、紗世の手を弱々しく握り返した。その温もりが、紗世の胸に沁みた。


『この方を守りたい』


幼いながらも、紗世はそう思った。


また別の日のことも思い出す。


梅雨の季節だった。雨が何日も続き、庭は水浸しになっていた。外で遊べない日が続き、撫子は少し退屈そうだった。


その日、二人は縁側に並んで座っていた。雨音を聞きながら、ぼんやりと庭を眺めていた。


「紗世」


「はい、撫子様」


「私ね、時々怖くなるの」


撫子の声は、いつもより小さかった。


「怖い……とは?」


「いつか紗世がいなくなってしまうんじゃないかって」


紗世は驚いて撫子を見た。撫子は雨の降る庭を見つめたまま、続けた。


「母上が言っていたの。侍女はいつか嫁に行くものだって。紗世も、いつかどこかへ行ってしまうのかしら」


「私は……」


紗世は言葉を探した。まだ幼くて、難しいことは分からなかった。けれど、一つだけ確かなことがあった。


「私は、撫子様の傍にいたいです」


「本当?」


撫子が紗世を見た。その瞳に、かすかな不安の色が浮かんでいた。


「本当です。ずっと、撫子様の傍にいます」


撫子の顔に、笑みが広がった。


「約束よ、紗世。ずっと一緒にいてね」


「はい。約束します」


雨音の中で交わした、幼い約束。それが今も、紗世の胸の奥で息づいている。


そして、小百合が生まれた日のことも。


撫子が十の時だった。待望の妹が生まれ、屋敷中が喜びに沸いた。撫子は生まれたばかりの小百合を覗き込み、頬を紅潮させていた。


「見て、紗世。可愛いでしょう?」


「はい、とても」


小さな小さな赤子。撫子に似た、愛らしい顔立ちだった。


その夜、撫子は紗世を自室に呼んだ。二人きりになると、撫子は少し照れくさそうに言った。


「紗世、私ね……少し寂しかったの」


「寂しい……ですか?」


「小百合が生まれて、皆そちらに夢中でしょう。父上も母上も。私は少しだけ、置いていかれたような気がして」


撫子は苦笑した。


「おかしいでしょう。妹が生まれて嬉しいのに、寂しいなんて」


「おかしくありません」


紗世は首を振った。


「撫子様がそうお感じになるなら、それが撫子様のお気持ちです」


撫子は紗世を見つめた。それから、ふっと笑った。


「紗世は私の一番の友達よ」


「撫子様……」


「本当よ。誰よりも、あなたが一番。小百合が生まれても、それは変わらないわ」


その言葉が、紗世の胸に深く刻まれた。


一番の友達。


身分の差など関係なく、撫子は紗世をそう呼んでくれた。


あの頃の日々は、光に満ちていた。撫子の傍にいることが、紗世の全てだった。撫子の笑顔が、紗世の幸せだった。


そして今も、それは変わらない。


三百年が経っても、紗世の想いは変わらない。


ただ……


『今は、撫子様を笑顔にしているのは……私ではない』


紗世は庭を見つめながら、静かに息を吐いた。


   *


月が昇る頃、撫子が帰ってきた。


「紗世、ただいま」


「お帰りなさいませ、撫子様」


撫子の頬は、まだほんのりと色づいていた。楽しい時間を過ごしてきたのだろう。紗世は微笑んで、撫子の靴を揃えた。


「お風呂の用意を致しましょうか」


「ええ、お願い」


撫子が奥へ進んでいく。紗世はその背中を見送り、湯殿へ向かった。


湯を沸かしながら、紗世は自分の胸に問いかけた。


『私は……何を望んでいるのだろう』


撫子が幸せであること。それは間違いない。撫子が笑っていること。それだけを願ってきた。


けれど今、撫子を笑顔にしているのは紗世ではない。蓮という男だ。人間の男だ。


紗世は蓮を憎んでいるのだろうか。


『いいえ……違う』


蓮を憎むことはできなかった。あの男は、本当に撫子を大切に想っているように見えた。撫子の瞳の奥にある悲しみを、見抜いているような眼差しだった。


紗世が憎んでいるのは、自分自身なのかもしれなかった。


撫子を笑顔にできない、自分自身。三百年も傍にいながら、撫子の心を救えなかった自分自身。


湯が沸き、紗世は撫子を呼びに行った。


湯殿から上がった撫子は、縁側に座って月を見上げていた。紗世は茶を淹れて、傍に控えた。


「紗世」


「はい」


「今日、蓮さんと……」


撫子が言葉を切った。何かを迷っているような表情だった。


「蓮さんと、何かございましたか」


「……蓮さんが、私に言ったの。『ずっと傍にいたい』と」


紗世の胸が、鋭く痛んだ。


「そう……ですか」


「私は……どうすればいいのかしら」


撫子が紗世を見つめた。その瞳には、迷いと、そして何かを問いかけるような色があった。


「紗世、あなたは……」


「私は」


紗世は静かに答えた。


「撫子様が、幸せであればいいと思います」


「紗世……」


「撫子様が望まれることが、私の望みです。それは、三百年前から変わりません」


撫子が紗世の手を取った。冷たい手と手が重なる。


「紗世、私は……あなたを置いていくことなどできない」


「撫子様」


「三百年、あなたは私の傍にいてくれた。私を支えてくれた。あなたがいなければ、私は……」


撫子の声が震えていた。


紗世は撫子の手を、そっと握り返した。


「撫子様、私は大丈夫です」


「でも……」


「撫子様がどのような選択をされても、私は撫子様の傍にいます。それは変わりません」


紗世は微笑んだ。心の奥で、何かが軋む音がした。けれどそれを、撫子に見せてはいけない。


「撫子様が蓮様を選ばれるなら、私は二人を見守ります。撫子様が永遠を選ばれるなら、私は永遠に傍にいます」


「紗世……」


「私の願いは、ただ一つ。撫子様が幸せであること。それだけです」


撫子が紗世を抱きしめた。冷たい腕が、紗世を包み込む。


「ありがとう……紗世」


紗世は撫子の背に手を回し、静かに目を閉じた。


『嘘ではない。けれど……全てでもない』


撫子が幸せであればいい。それは本当だった。けれど心の奥底で、紗世は叫んでいた。


『私を置いていかないで』


その言葉を、紗世は呑み込んだ。撫子に、そんな重荷を背負わせたくなかった。


抱擁が解かれ、撫子が立ち上がった。


「もう遅いわ。休みましょう」


「はい、撫子様」


撫子が部屋へ戻っていく。紗世は縁側に残り、月を見上げた。


満月が、静かに夜空を照らしていた。


   *


深夜、紗世は一人で屋敷を歩いていた。


撫子はもう眠っているだろう。紗世には眠りは必要なかったが、それでも夜は長く感じられた。


庭に出て、池の畔に立った。月明かりが水面を銀色に染めている。


紗世は水面を覗き込んだ。自分の姿は映らない。吸血鬼には、鏡も水も、己の姿を映してはくれない。


『私は……何者なのだろう』


三百年前、紗世は人間だった。撫子の侍女として生き、撫子の傍で死ぬつもりだった。けれど運命は、紗世を永遠の闇へ導いた。


今は吸血鬼として、撫子の傍にいる。けれど紗世の心は、今も人間だった頃の想いを抱えていた。


撫子を愛している。


その感情に、紗世は名前をつけることができなかった。主への忠誠なのか。友への情なのか。それとも……


『それとも……』


紗世は首を振った。考えても仕方のないことだった。


撫子は今、蓮という男に心を寄せている。人間の男に。光の中を生きる者に。


紗世には、それを止める権利はない。撫子が幸せになれるなら、紗世は何でもする。たとえ、撫子が蓮を選び、人間に戻ることを選んだとしても。


『その時、私は……』


その時、紗世は一人になる。永遠の闇の中で、一人きりになる。


アザールが言っていた。人間に戻る方法があると。けれどそれは、撫子だけに許された選択だった。紗世には、その道は開かれていない。


『私は……永遠に、ここにいる』


撫子が去っても。撫子が人間に戻っても。紗世は永遠に、闇の中を歩み続ける。


それでいい。


紗世は月を見上げた。涙が、頬を伝って落ちた。


「撫子様……」


声にならない声で、紗世は呟いた。


「どうか、幸せに」


涙が止まらなかった。けれど紗世は、それを拭わなかった。今夜だけは、泣くことを自分に許した。


月が静かに、夜空を渡っていく。


紗世は暫くそこに立ち尽くし、やがて静かに屋敷へ戻った。


撫子の部屋の前で立ち止まり、襖越しに耳を澄ませた。静かな寝息が聞こえる。撫子は安らかに眠っている。


『明日も、撫子様の傍にいよう』


紗世は自分の部屋へ戻り、窓辺に座った。


東の空が、わずかに白み始めていた。もうすぐ夜が明ける。また新しい一日が始まる。撫子が蓮と会いに行く、また一日が。


紗世は目を閉じた。


『撫子様が選ぶものが、何であれ……私は受け入れる』


それが、三百年かけて紗世が辿り着いた答えだった。


『たとえ、永遠の孤独が待っていても』


紗世は静かに息を吐いた。そして、朝の光が差し込む前に、眠りについた。


   *


夢を見た。


幼い頃の夢だった。


屋敷の庭を這いつくばり、草むらをかき分けていた。膝が泥に沈み、着物の裾がぐっしょりと濡れていた。


四つ葉を探していた。


撫子が見つけた、あの四つ葉。同じものを、紗世も見つけたかった。けれど、どれだけ探しても見つからない。三つ葉ばかりが、指の間をすり抜けていく。


泥だらけの手を見つめて、紗世は泣いていた。


夢の中でも、あの温もりが蘇った。


撫子が傍にしゃがみ込み、紗世の汚れた両手を包んでくれた。白く小さな手が、泥にまみれた紗世の手を、優しく、優しく包んでいた。


「私たちは一緒なのだから」


撫子の声が、夢の中で響いていた。


「私のものは、紗世のもの。紗世のものは、私のもの」


紗世は夢の中で、幼い撫子に問いかけた。


『撫子様、今も……一緒ですか』


撫子は答えなかった。ただ、優しく微笑んで、紗世の手を握り続けていた。


目が覚めた時、紗世の頬には涙の跡が残っていた。


窓の外では、陽が高く昇っていた。撫子はもう起きているだろうか。


紗世は立ち上がり、着物を整えた。鏡には何も映らないが、それでも身嗜みを確かめる仕草は習慣になっていた。


『今日も、撫子様の傍にいよう』


襖を開け、廊下へ出た。


撫子の部屋から、物音が聞こえた。撫子が身支度をしているのだろう。今日も、蓮と会いに行くのかもしれない。


紗世は静かに微笑んだ。


『私は、ここにいる』


撫子がどこへ行こうとも。撫子が誰を選ぼうとも。紗世はずっと、ここにいる。


それが、紗世の選んだ道だった。


あの日、泥だらけの手を包んでくれた撫子。惨めな自分を受け入れてくれた撫子。


その温もりを、紗世は三百年経った今も忘れていない。


たとえ撫子が別の誰かを選んでも。たとえ永遠の孤独が待っていても。


紗世だけは、あの日の温もりを抱いて生きていく。


永遠に。

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