揺れる心
十二
蓮と会うことが、日常になっていた。
図書館で言葉を交わす。町を散歩する。夕暮れの路地を並んで歩く。三百年の中で、こんな日々を過ごしたことはなかった。
「撫子さん」
その日も、蓮は図書館で撫子を待っていた。手には、小さな花束を持っている。
「これを」
蓮が差し出したのは、淡い紅色の花だった。
「撫子の花です。あなたにぴったりだと思って」
撫子は、花を受け取った。
可憐な花弁。優しい香り。三百年前、庭に咲いていた花と同じ。
『この人は……』
撫子の胸が、温かくなった。三百年ぶりの、この感覚。心が満たされていく感覚。
「ありがとうございます」
「喜んでもらえて、よかった」
蓮は嬉しそうに微笑んだ。
二人は図書館を出て、いつものように町を歩いた。蓮は、子どもたちの話をした。最近、算数が苦手だった男の子が、少しずつ問題が解けるようになってきたこと。引っ込み思案だった女の子が、友達と話せるようになったこと。
「子どもたちの成長を見るのが、何より嬉しいんです」
蓮は言った。
「この子たちが大人になる頃には、戦争のない世界であってほしい。そう願いながら、毎日教壇に立っています」
撫子は、蓮の話を聞いていた。
『この人と一緒にいると、生きている実感がある』
三百年、虚無の中を漂ってきた。何のために生きているのか、分からなかった。だが、蓮と話していると、生きていることに意味があるような気がした。
「撫子さんと一緒にいると、心が落ち着きます」
蓮が言った。
「不思議ですね。まだ出会って間もないのに、ずっと前から知っているような気がする」
撫子は、何も言えなかった。
『私は、この人に嘘をついている』
蓮は、撫子のことを何も知らない。吸血鬼であること。三百年も生きていること。人の血を啜って生きていること。
何一つ、知らない。
『この人を、傷つけてしまうのではないか』
その恐怖が、撫子の胸を締め付けた。
*
撫子が蓮と会う時間が増えるにつれ、紗世と過ごす時間は減っていった。
紗世は、何も言わなかった。撫子が出かける時も、「行ってらっしゃいませ」と微笑んで送り出す。帰ってきた時も、「お帰りなさいませ」と優しく迎える。
だが、撫子は気づいていた。
紗世の目に、寂しさが滲んでいることを。
ある夜、撫子が帰宅すると、紗世は縁側に座っていた。一人で、月を見上げている。
「紗世」
撫子が声をかけると、紗世は振り返った。
「お帰りなさいませ、撫子様」
「待たせてしまって……」
「いいえ」
紗世は微笑んだ。
「撫子様が楽しそうで、私も嬉しいです」
だが、その声は少し震えていた。
撫子は、紗世の隣に座った。月が、二人を照らしている。三百年、何度も見てきた月。だが、今夜の月は、どこか寂しげに見えた。
「撫子様」
紗世が言った。
「撫子様は……あの方を、愛しておられるのですか?」
撫子は、答えられなかった。
沈黙が、二人の間に横たわった。
「……そうですか」
紗世は呟いた。
その声には、諦めが滲んでいた。
撫子は、紗世の顔を見た。紗世は微笑んでいた。だが、その目には涙が滲んでいた。
「紗世……」
「大丈夫です」
紗世は言った。
「私は、撫子様の幸せを願っています。それだけです」
涙が、紗世の頬を伝った。一筋、二筋。月明かりに照らされて、銀色に光っている。
「紗世、私は……」
撫子は、紗世の手を握った。冷たい手と手が重なる。三百年、何度も握ってきた手。
「私は、紗世のことも……」
「分かっています」
紗世は、撫子の言葉を遮った。
「撫子様が私を大切に思ってくださっていることは、分かっています。だから……だから、大丈夫です」
紗世は涙を拭い、微笑んだ。
その笑顔が、撫子の胸を締め付けた。
『紗世……私は、あなたを置き去りにしている』
三百年、支え続けてくれた紗世。撫子のために全てを捧げてくれた紗世。その紗世を、撫子は傷つけている。
『私は……どうすればいいのか』
*
撫子は、一人で考え込む時間が増えた。
蓮への想い。紗世への想い。両方とも、本物だった。
蓮と一緒にいると、心が満たされる。三百年の虚無が、溶けていく気がする。蓮の優しさ、真っ直ぐさ、人を信じる心——その全てに、撫子は惹かれていた。
だが、紗世も大切だった。三百年、ずっと傍にいてくれた。撫子が壊れそうになった時、支え続けてくれた。紗世がいなければ、撫子はとうに虚無の中に沈んでいただろう。
『どちらも、選べない』
アザールの言葉が、脳裏に蘇った。
『人間に戻る方法は、存在する』
『その時、紗世はどうなる?』
人間に戻れば、蓮と共に生きられる。老いて、死んで、蓮と同じ場所へ行ける。
だが、紗世は一人になる。
吸血鬼のままなら、紗世と永遠を共にできる。三百年続けてきたように、これからも二人で生きていける。
だが、蓮を見送ることになる。蓮が老いて、死んでいくのを、ただ見ているだけ。
『どちらを選んでも、誰かを傷つける』
撫子は、自分の手を見つめた。
『私には、選ぶ資格などないのかもしれない』
ある夜、撫子は血を求めて町を彷徨った。
吸血鬼は、血を啜らなければ生きていけない。蓮と会う日々の中で、撫子はそれを忘れかけていた。だが、身体は血を求める。渇きが、喉を焼く。
町外れの街道で、旅人を見つけた。
一人で歩いている男。撫子は、音もなく近づき、背後から男を捕らえた。
「な……」
男の声が途切れる。撫子の牙が、男の首筋に沈んだ。
温かい血が、喉を満たしていく。渇きが、癒えていく。
だが、撫子の心は痛んだ。
『私は、化け物だ』
血を啜り終え、撫子は男を地面に横たえた。殺してはいない。気絶しているだけだ。目が覚めれば、夢だと思うだろう。
撫子は、自分の手を見た。
血に染まった手。
『蓮のような人間とは、違う』
蓮は、光の中を生きている。子どもたちを愛し、平和を願い、真っ直ぐに生きている。
撫子は、闇の中を生きている。血を啜り、人を傷つけ、永遠に夜を彷徨う。
『この手で、蓮に触れることなどできるのだろうか』
撫子は、血に染まった手を握りしめた。
*
ある日の夕暮れ、蓮が撫子を町外れの丘に誘った。
「見せたい場所があるんです」
蓮は言った。
二人は、坂道を登っていった。夕日がオレンジ色に染まり、空には紫色の雲が浮かんでいる。
丘の上に着くと、そこには一本の大きな桜の木があった。
季節は秋。花は咲いていない。だが、その木は立派だった。太い幹、広がる枝。何百年も生きてきたであろう、古い桜の大樹。
「この木は、昔からここにあるそうです」
蓮が言った。
「春になると、見事な花を咲かせる。町の人たちは、この木を大切にしています」
撫子は、桜の木を見上げた。
三百年。この木も、自分と同じくらい生きているのかもしれない。
「撫子さん」
蓮の声が、少し緊張していた。
振り返ると、蓮は真剣な表情をしていた。
「あなたに、話したいことがあります」
撫子の心臓が、大きく脈打った。
「私は……」
蓮は、一度目を伏せ、そして撫子を真っ直ぐに見た。
「あなたに惹かれています」
撫子は、息を呑んだ。
「初めて会った時から、あなたの目が忘れられなかった」
蓮は続けた。
「悲しい目。深い、深い悲しみを湛えた目。何があったのか分からない。でも、あなたの目を見た瞬間、心を掴まれた」
夕日が、蓮の顔を照らしている。穏やかな顔。優しい目。父に似た、その面影。
「一緒にいるうちに、もっとあなたを知りたいと思うようになった。あなたの笑顔を見たいと思うようになった」
蓮は、一歩近づいた。
「あなたは、秘密を抱えているように見えます」
撫子の心臓が、止まりそうになった。
「話したくないことがあるのも、分かっています。無理に聞き出そうとは思わない」
蓮は言った。
「でも、それでも……私は、あなたの傍にいたい」
撫子の目に、涙が滲んだ。
『この人は、私の全てを知らない』
吸血鬼であること。三百年生きていること。人の血を啜っていること。
『知ったら、きっと恐怖するだろう』
それでも、蓮は「傍にいたい」と言ってくれた。秘密を抱えていることを察しながら、それでも。
「蓮さん……私は……」
撫子は言葉に詰まった。
真実を話すことはできない。話せば、全てが終わる。蓮は恐怖し、撫子から離れていくだろう。
「急がなくていいです」
蓮が言った。
「ただ、私の気持ちを知っておいてほしかった」
蓮は、優しく微笑んだ。
『でも、私も……この人を……』
撫子の目から、涙が溢れた。
止められなかった。三百年、泣いたことはあった。だが、こんな涙は初めてだった。悲しみではない。虚無でもない。何か別の、名前のつけられない感情が、涙となって流れ出していた。
「撫子さん……?」
蓮が驚いた声を上げた。
「ごめんなさい……私は……」
撫子は、顔を覆った。涙が止まらない。
蓮が、そっと撫子に近づいた。そして、優しく撫子の手を取り、顔を覆っていた手を下ろさせた。
「泣かないでください」
蓮の指が、撫子の頬に触れた。涙を、そっと拭う。
「あなたが悲しむのは、見たくない」
蓮の声は、どこまでも優しかった。
撫子は、蓮の目を見た。
夕日に照らされた、優しい目。濁りのない、真っ直ぐな光。
『この人の優しさが……眩しい』
撫子の心が、震えていた。
*
蓮と別れ、撫子は一人で夜道を歩いた。
月が昇り、撫子を照らしている。蓮に貰った撫子の花を、撫子は大切に抱えていた。
『私は、決めなければならない』
撫子は、立ち止まった。
『蓮と生きるか。紗世と生きるか』
蓮の言葉が、まだ耳に残っている。「あなたの傍にいたい」「泣かないでください」
だが、紗世の涙も、目に焼き付いている。「撫子様は……あの方を、愛しておられるのですか?」と問うた時の、あの悲しげな目。
『どちらも、大切だ』
答えが、出なかった。
屋敷に戻ると、紗世が待っていた。
「お帰りなさいませ、撫子様」
紗世は、いつものように微笑んでいた。
撫子は、紗世の顔を見た。優しい顔。三百年、支え続けてくれた顔。
「紗世……私は……」
「何も言わなくて大丈夫です」
紗世が言った。
「撫子様が悩んでおられることは、分かっています」
紗世は、撫子の手を取った。
「私は、撫子様がどんな選択をされても、受け入れます」
その言葉の重さが、撫子の胸に響いた。
「紗世……あなたは、どこまで優しいの」
撫子は、紗世を抱きしめた。
細い身体。冷たい肌。だが、三百年変わらず撫子を支えてくれた、かけがえのない存在。
紗世は、撫子の背中をそっと撫でた。
「撫子様……」
二人は、しばらく抱き合ったまま動かなかった。
月明かりが、二人を照らしている。風が吹き、木々がざわめく。
『私は、まだ答えを出せない』
撫子は、紗世の温もりを感じながら思った。
『でも、いつか……いつか……』
時間は、刻一刻と迫っていた。
戦争の影は、日に日に濃くなっている。蓮も、いつか召集されるかもしれない。永遠に続くと思っていた日々が、終わりを告げようとしていた。
撫子は、目を閉じた。
答えは、まだ出ない。
だが、決断の時は、確実に近づいていた。




