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緋色の月に抱かれて ―永遠の孤独と四つ葉の誓い―  作者: 月代 緋色


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運命の出会い

十一

昭和という時代は、不穏な空気を纏っていた。


撫子と紗世が暮らす地方の町にも、戦争の影が忍び寄っていた。街角には軍服姿の男たちが増え、新聞には大陸での戦況が連日報じられている。人々の表情には、どこか緊張が漂っていた。


だが、町そのものは、まだ静かだった。


古い商店街には瓦屋根の店が並び、夕暮れ時には子どもたちの声が路地に響く。時代の波は確実に押し寄せていたが、この小さな町は、まだ昔ながらの穏やかさを保っていた。


撫子と紗世は、町外れの古い屋敷に住んでいた。


「姉妹」として、静かに暮らしている。昼は障子を閉め切り、夜になると町へ出る。いつもの生活。三百年続けてきた、人間に紛れる生活。


「撫子様、今夜の買い物は何が必要ですか」


紗世が尋ねた。


「そうね……味噌と醤油を」


撫子は答えた。吸血鬼は人間の食事を必要としないが、人間として暮らすためには、食料を買う振りをしなければならない。


夕暮れの商店街を、二人は歩いた。


オレンジ色の空が、瓦屋根を染めている。店先では魚屋の主人が威勢よく声を上げ、八百屋の前では主婦たちが野菜を選んでいる。


ありふれた、日常の風景。


だが、撫子の心は、ここにはなかった。


アザールの言葉が、まだ頭から離れない。


『人間に戻る方法は、存在する』


あの夜、アザールはそう言った。


三百年、考えたこともなかった。人間に戻るなど。吸血鬼になった瞬間から、撫子は永遠を生きることを受け入れた。復讐のために。そして、復讐を終えた後も、惰性で生き続けてきた。


だが、今は違う。


『もし、人間に戻れるなら……』


その可能性が、心の隅に芽生えていた。


「撫子様?」


紗世の声に、撫子は我に返った。


「何でもないわ」


撫子は首を振った。


「少し、考え事をしていただけ」


紗世は何も言わなかった。ただ、心配そうな目で撫子を見つめていた。


   *


買い物を終え、紗世を先に屋敷へ帰した後、撫子は一人で町を歩いていた。


夕暮れの路地。オレンジ色の光が、古い家々の壁を染めている。人通りは少なく、静かだった。


三百年。


三百年も生きてきた。


だが、何も変わらない。心は、ずっと空っぽのまま。復讐を果たしても、何も残らなかった。永遠を生きても、何も得られなかった。


『何のために、生きているのだろう』


呟いた声は、誰にも届かなかった。


その時だった。


路地の角を曲がった瞬間、誰かとぶつかった。


「あっ……」


撫子は小さく声を上げた。


「すみません、大丈夫ですか?」


男の声がした。


顔を上げると、一人の青年が立っていた。


穏やかな顔立ち。優しい目。柔らかい雰囲気。


撫子は、一瞬息を呑んだ。


この顔。


どこかで見たことがある。遠い昔、誰かと……。


そうだ。


父だ。


父の面影がある。あの厳しくも優しかった父の、若い頃の姿に似ている。


「お怪我はありませんか?」


青年が、心配そうに尋ねた。


「……いいえ、大丈夫です」


撫子は答えた。声が、少し震えていた。


青年は、撫子の顔をじっと見つめた。


「……美しい方ですね」


不意に、青年がそう言った。


撫子は戸惑った。三百年生きてきて、何度も「美しい」と言われてきた。清隆にも、そう言われた。だが、この男の言葉は、どこか違った。


青年は、撫子の目を見つめていた。


「その目……」


青年が言った。


「とても悲しそうですね」


撫子の心臓が、大きく脈打った。


誰も、自分の目を「悲しい」と言ったことはなかった。「美しい」「冷たい」「怖い」——そんな言葉ばかりだった。


だが、この男は違った。


外見ではなく、内面を見ている。


「私は蓮と申します」


青年が、丁寧に頭を下げた。


「この町で教師をしています」


「撫子……です」


撫子は、自分の名を告げた。


「撫子さん」


蓮は、その名を噛みしめるように呟いた。


「美しい名前ですね。撫子の花のように」


短い会話だった。


やがて、二人は別れた。


撫子は、蓮の後ろ姿を見つめていた。夕日に照らされた、柔らかな背中。


胸の奥に、何かが芽生えた気がした。


三百年、感じたことのない、不思議な感覚。


   *


数日後、撫子は町の図書館にいた。


古い建物の、静かな図書館。本の匂いが漂い、埃が窓から差し込む光の中で舞っている。


撫子は、書架の間を歩いていた。特に読みたい本があるわけではなかった。ただ、何となく、ここに来たかった。


「あの時の……」


声がした。


振り返ると、蓮が立っていた。


「撫子さん、でしたね」


蓮は微笑んでいた。


「こんなところでお会いするとは。本がお好きなのですか?」


「ええ……まあ」


撫子は曖昧に答えた。


「私もです」


蓮は嬉しそうに言った。


「教師という仕事柄、子どもたちに本を薦めることが多いのですが、自分でも読むのが好きでして。休みの日は、よくここに来るんです」


二人は、図書館の片隅で話し始めた。


蓮は、よく喋る人だった。子どもたちのこと、本のこと、町のこと。穏やかな声で、楽しそうに話す。


「子どもたちは、本当に面白いですよ」


蓮は言った。


「毎日、新しい発見があります。彼らは、世界を新鮮な目で見ている。私も、子どもたちから学ぶことばかりです」


撫子は、蓮の話を聞いていた。


久しぶりに、心が動いていた。


三百年、人間と関わってきた。だが、ほとんどの人間は、表面的な付き合いに過ぎなかった。深く関われば、別れが辛くなる。だから、撫子は距離を置いてきた。


だが、蓮の話には、引き込まれるものがあった。


「撫子さんは、どんな本が好きですか?」


蓮が尋ねた。


撫子は少し考えた。


「昔の物語が好きです」


「昔の物語?」


「ええ。遠い昔の、人々の生き様が描かれた話。彼らがどう生き、どう死んでいったか。そういう話に、惹かれます」


蓮は、じっと撫子を見つめた。


「私もです」


蓮は言った。


「過去を知ることで、今を生きる意味が分かる気がします。先人たちが何を考え、何を大切にしてきたか。それを知ることで、自分の生き方が見えてくる」


撫子は、蓮の言葉に心を打たれた。


三百年、過去を振り返ることはあった。だが、それは後悔と虚無に満ちたものだった。蓮のように、過去から意味を見出すことなど、考えたこともなかった。


「蓮さんは……」


撫子は言った。


「前向きな方なのですね」


「そうでしょうか」


蓮は照れたように笑った。


「ただ、子どもたちに恥ずかしくない大人でいたいだけです」


   *


それから、二人はよく図書館で会うようになった。


約束したわけではない。ただ、同じ時間に、同じ場所に来る。そして、本の話をする。子どもたちの話をする。町の話をする。


蓮は、いつも穏やかだった。


「今日、面白いことがあったんですよ」


蓮は嬉しそうに話した。


「授業で、『将来の夢』について作文を書かせたのですが、一人の男の子が『お父さんみたいになりたい』と書いてきたんです。お父さんは、町の大工さんなのですが……」


蓮の話を聞きながら、撫子は思った。


『この人は、眩しい』


三百年、撫子は闇の中を生きてきた。復讐と虚無と孤独の中を。だが、蓮は違う。光の中を生きている。子どもたちを愛し、未来を信じ、今を精一杯生きている。


ある日、蓮が撫子に尋ねた。


「撫子さんは、何か夢はありますか?」


撫子は、答えられなかった。


三百年、夢など持ったことがなかった。復讐を果たすこと——それが唯一の目的だった。だが、それを終えた後は、何もなかった。ただ、紗世と共に生きることだけ。


「私は……」


撫子は言葉に詰まった。


「私には、夢というものが……」


「そうですか」


蓮は、優しく微笑んだ。


「無理に答えなくてもいいですよ。夢は、見つかる時に見つかるものですから」


そして、蓮は言った。


「私は、子どもたちが幸せに生きられる世界を作りたい。戦争のない、平和な世界を」


撫子は、蓮の目を見た。


その目には、真っ直ぐな光があった。濁りのない、純粋な光。三百年生きてきて、こんな目を持つ人間に出会ったことがあっただろうか。


『この人は……眩しい』


撫子は、心の中で呟いた。


   *


撫子が蓮と会うようになったことに、紗世は気づいていた。


撫子の表情が、少しずつ変わっていた。虚ろだった目に、微かな光が宿り始めている。時折、小さな笑みを浮かべることもある。


紗世は、複雑な思いを抱えていた。


撫子が笑顔を見せるようになったことは、嬉しかった。三百年、ずっと虚無に沈んでいた撫子が、少しでも心を開いているなら、それは喜ぶべきことだ。


だが、同時に不安もあった。


相手は、人間だ。いつか、老いて、死んでいく。撫子は、また別れを経験することになる。


そして、寂しさもあった。


三百年、撫子の傍にいたのは、紗世だけだった。撫子の唯一の支えは、紗世だけだった。だが、今は違う。撫子の心の中に、別の誰かが入り込んでいる。


ある夜、紗世は撫子に尋ねた。


「撫子様……最近、よく出かけられますね」


撫子は、少し戸惑った表情を見せた。


「ええ……図書館に行っているの」


「……そうですか」


紗世は微笑んだ。だが、その目は少し寂しそうだった。


「撫子様が楽しそうで、私も嬉しいです」


「紗世……」


撫子は、紗世の顔を見た。紗世の目の奥にある感情を、読み取ろうとするかのように。


「でも……お気をつけください」


紗世は言った。


「人間と深く関わると……」


言葉を切った。


撫子には、紗世の言いたいことが分かった。人間と深く関わると、別れが辛くなる。何度も、経験してきたことだ。千代のように。他の多くの人間たちのように。


「分かっているわ」


撫子は言った。


「でも……」


その先は、言えなかった。


紗世は黙っていた。


『撫子様が、あの人に惹かれていくのが分かる』


紗世は心の中で思った。


『でも、私は……撫子様の幸せを願うだけ。それだけが、私の存在理由だから』


   *


ある日の夕暮れ、撫子は蓮と町の外れを歩いていた。


田畑が広がり、遠くに山々が見える。夕日がオレンジ色に染まり、空には紫色の雲が浮かんでいた。


「最近、戦争が激しくなってきました」


蓮が言った。


「大陸での戦いは、どんどん広がっている。いつか、私も戦地に行くことになるかもしれません」


撫子の胸が、締め付けられた。


「……そうですか」


「教師は、すぐには召集されないでしょうが……でも、いつかは」


蓮は、静かに言った。その声には、諦めと覚悟が混じっていた。


「でも、今この瞬間は、こうして撫子さんと話せて幸せです」


撫子は、蓮の横顔を見た。


夕日に照らされた、穏やかな顔。優しい目。父に似た、その面影。


「撫子さん」


蓮が言った。


「私はあなたに会えて、本当によかった」


撫子の胸が、熱くなった。


三百年、こんな気持ちになったことはなかった。清隆に惹かれた時とも違う。あれは、幻だった。偽りの愛だった。


だが、蓮は違う。


蓮の言葉には、嘘がない。その目には、濁りがない。


「私も……です」


撫子は言った。


蓮は、嬉しそうに微笑んだ。


二人は、しばらく黙って歩いた。


夕日が沈んでいく。オレンジ色の空が、紫色に変わり、やがて闇が訪れる。


撫子は思った。


『この人と一緒にいると、心が満たされる。三百年の虚無が、少しずつ溶けていく気がする』


だが、同時に恐怖もあった。


『この人は、人間だ。いつか、老いて、死んでいく。私は、また見送ることになる』


千代のように。


老夫婦のように。


出会った全ての人間たちのように。


『でも……それでも、今は……』


撫子は、蓮の隣を歩いた。


夕日が沈み、夜が訪れた。星が瞬き始め、月が昇る。


「また、明日も会えますか?」


蓮が尋ねた。


撫子は、頷いた。


「……ええ」


蓮は、嬉しそうに微笑んだ。


「では、また明日」


二人は別れた。


撫子は、一人で夜道を歩いた。


月が昇り、撫子を照らしている。三百年、何度も見てきた月。だが、今夜の月は、どこか違って見えた。


『私は……この人に、惹かれている』


撫子は、心の中で呟いた。


『でも、私は吸血鬼。この人と共に生きることはできない』


永遠に老いない身体。血を啜らなければ生きられない体。太陽の下を歩けない存在。


蓮とは、住む世界が違う。


『それでも……』


アザールの言葉が、脳裏に蘇った。


『人間に戻る方法は、存在する』


『もし、人間に戻れるなら……この人と……』


だが、紗世のことを思った。


『紗世……私が人間に戻ったら、あなたは……』


一人で永遠を生きることになる。撫子を見送り、撫子の死を看取り、そして一人で残る。


三百年、撫子を支え続けてくれた紗世を、一人にすることなどできるのだろうか。


撫子は、立ち止まった。


月明かりの中、撫子は一人で立ち尽くしていた。


蓮への想い。紗世への想い。永遠の命と、人間の儚さ。


全てが、撫子の心の中で渦巻いていた。


答えは、出なかった。

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