虚無の果て
十
明治が終わった。
そして、新しい元号が発表された。大正。新しい時代の幕開けだった。
撫子と紗世は、東京で暮らし始めていた。
急速に近代化が進む帝都。石造りの建物が立ち並び、路面電車が走り、カフェやデパートメントストアが次々と開業していく。街には洋装の紳士淑女が行き交い、華やかな空気が満ちていた。
大正ロマン。
人々はそう呼んだ。西洋と東洋が混じり合い、新しい文化が花開く時代。女性たちは断髪に洋装、モダンガールと呼ばれて街を闊歩した。
撫子と紗世も、時代に合わせて洋装を纏った。
コルセットを締め、レースのブラウスにロングスカート。帽子を被り、パラソルを手に。華やかな装いに身を包んでも、心の空虚は埋まらなかった。鏡に映らない自分を飾り立てることに、何の意味があるのだろう。
それでも、人間社会に溶け込むためには必要なことだった。
「撫子様、この時代は華やかですね」
紗世が言った。銀座の通りを歩きながら、煌めくショーウィンドウを眺めている。
「そうね」
撫子は頷いた。だが、その声には感情がこもっていなかった。
「華やかなだけ。私の心は、相変わらず空っぽよ」
紗世は何も言わなかった。ただ、撫子の隣を歩き続けた。
通りを行き交う人々。笑い合う恋人たち。はしゃぐ子どもたち。誰もが生き生きとしている。この瞬間を、精一杯生きている。
撫子には、それが眩しかった。
「時代は変わる」
撫子は呟いた。
「でも、私たちは変わらない」
三百年近くを生きてきた。江戸時代の初期から、明治を経て、大正へ。時代は目まぐるしく変わっていった。だが、撫子の心は、あの夜から止まったままだった。
復讐を果たしたあの夜から。
*
その年の秋、撫子と紗世は、ある人間の家族と知り合った。
下町の長屋に住む、三世代の家族だった。老夫婦と、その息子夫婦、そして孫娘。名を、千代という。
十歳ほどの千代は、活発で好奇心旺盛な少女だった。
「お姉さん、きれい!」
初めて会った時、千代は撫子を見上げて、目を輝かせた。
「お人形さんみたい!」
「ありがとう」
撫子は微かに微笑んだ。
千代は、よく撫子と紗世のもとを訪れた。学校の帰り道、わざわざ遠回りをして。
「お姉さん、今日はね、学校でこんなことがあったの」
「お姉さん、この本、読んだことある?」
「お姉さん、将来はお姉さんみたいになりたいな」
無邪気な笑顔。屈託のない声。
撫子は、千代を見るたびに、誰かを思い出した。
小百合。
十歳で死んだ、幼い妹。
「お姉様、お姉様」と後をついてきた、あの小さな影。蓮の花を見つめていた、あの無邪気な瞳。「死んでも、また会える?」と問うた、あの澄んだ声。
千代の笑顔が、小百合と重なる。
胸が、締め付けられた。
「撫子様……」
紗世が、撫子の表情の変化に気づいた。
「大丈夫よ」
撫子は首を振った。
「ただ……少し、思い出しただけ」
*
数年が経った。
老夫婦が、相次いで世を去った。
祖父は穏やかな眠りの中で。祖母は、その半年後に後を追うように。
葬儀に参列した撫子は、棺の中の老人たちを見下ろした。皺だらけの顔。閉じられた目。もう二度と開くことのない瞳。
「お姉さん……」
千代が、撫子の袖を引いた。目は赤く腫れ、頬には涙の跡がある。
「おじいちゃんとおばあちゃん、天国に行ったの?」
「……ええ」
撫子は答えた。
「きっと、天国で会っているわ」
千代は泣いていた。撫子は、その頭をそっと撫でた。柔らかい髪の感触。温かい体温。生きている証。
また、誰かを見送った。
何度目だろう。何百回目だろう。
*
さらに時は流れた。
千代は成長し、美しい娘になった。十歳の少女は、いつしか二十歳を超え、凛とした大人の女性になっていた。やがて縁談が持ち上がり、嫁いでいった。
「お姉さん、今までありがとう」
嫁入り前夜、千代は撫子を訪ねてきた。白無垢を着る前の、最後の夜。
「お姉さんに会えて、よかった」
「こちらこそ」
撫子は微笑んだ。
「幸せにね、千代」
千代は嬉しそうに頷いた。そして、ふと首を傾げた。
「お姉さんは、本当に変わらないね。私が子どもの頃から、ずっと同じ。まるで、時間が止まっているみたい」
撫子は、何も言えなかった。
「不思議な人。でも、私、お姉さんのこと好きよ」
千代は笑った。あの頃と変わらない、無邪気な笑顔で。
*
千代の両親も、やがて老いて死んだ。
千代自身も、子を産み、孫を抱き、そして老いていった。
最期に会った時、千代は白髪の老婆になっていた。
皺だらけの顔。骨ばった手。かつて撫子の袖を引いた小さな手は、今は枯れ枝のように細くなっている。肌は薄く透け、青い血管が浮き出ていた。あの頃の少女の面影は、もうどこにもなかった。
だが、その目だけは、あの頃と同じ輝きを宿していた。
「お姉さん……」
病床で、千代は撫子を見上げた。かすれた声。途切れ途切れの息。
「本当に……変わらないのね……」
「千代……」
「不思議な人……でも、私……お姉さんに会えて……幸せだった……」
千代の皺だらけの手が、撫子の手を握った。冷たくなりかけた指先。命の灯火が、消えようとしている。
「ありがとう……お姉さん……」
千代は、静かに目を閉じた。
そして、二度と開かなかった。
握られた手から、力が抜けていく。温もりが、少しずつ失われていく。
撫子は、冷たくなっていく千代の手を、いつまでも握っていた。
*
「また……また、時が流れていった」
撫子は、千代の墓の前に立っていた。
紗世が、隣にいる。秋の風が吹き、落ち葉が舞う。
「私は、何度この光景を見るのだろう」
撫子の声が、震えていた。
「人間は生まれ、育ち、老いて、死んでいく。私は、それをただ見ているだけ。何百年も、何百回も」
紗世は黙っていた。
「千代は、十歳の時に私と出会った。無邪気で、明るくて、小百合に似ていた」
撫子の目に、涙が滲んだ。
「そして、老いて、死んでいった。私は、また見送った。何もできずに、ただ見送った」
「撫子様……」
「紗世、私たちは永遠に……こうして見送り続けるのね」
「はい」
紗世は静かに答えた。
「でも、撫子様。私が一緒に見送ります」
撫子は紗世を見た。
「一人で見送るよりは、少しはましでしょう?」
紗世の顔には、穏やかな微笑みが浮かんでいた。
撫子は、何も言えなかった。ただ、紗世の手を握った。
冷たい手と手が、重なり合う。
*
その夜、撫子と紗世は、人気のない河原を歩いていた。
月が、川面に映っている。冷たい風が吹き、枯れた草が揺れる。
ふと、撫子は足を止めた。
気配がある。
人間ではない。もっと古く、もっと深い、闇の気配。
「お前たちを探していた」
声が聞こえた。
振り返ると、月明かりの中に男が立っていた。
長い黒髪。深い紅の瞳。三百年前と変わらぬ姿。闇そのものを纏ったような、圧倒的な存在感。
「アザール……」
撫子は息を呑んだ。
「なぜ、私たちを……」
「気になってな」
アザールは静かに言った。
「三百年だ。お前たちが、どう生きているか。見ておきたかった」
「あなたが、私を吸血鬼にしたのよ」
撫子の声には、複雑な感情がこもっていた。怒りなのか、諦めなのか、自分でも分からなかった。
「そうだな」
アザールは頷いた。
「後悔しているか?」
撫子は答えなかった。
「分からない」
長い沈黙の後、撫子は言った。
「後悔しているのか、していないのか。分からないわ」
アザールは、撫子をじっと見つめた。その紅い瞳は、全てを見透かすようだった。
「お前は、紗世の全てを受け取っているか?」
「どういう意味ですか」
「あの娘は、お前のために全てを捧げている」
アザールの視線が、撫子の後ろに立つ紗世へ向いた。紗世は微動だにせず、その視線を受け止めている。
「人間を捨て、永遠の闇を選び、お前のためだけに生きている。お前が知らぬところで、何人もの刺客を斬り、何人もの敵を葬ってきた。その手は、お前の何倍も血に染まっている」
撫子は振り返った。紗世は無表情のまま立っている。だが、その瞳の奥に、微かな揺らぎが見えた。
「紗世……」
「その重さを、お前は分かっているのか」
アザールの声が、夜の空気を震わせた。
「……分かっている」
撫子は言った。
「紗世がいなければ、私は……とうに壊れていた」
「そうか」
アザールは頷いた。
そして、不意に言った。
「いつか、お前が人間に戻りたいと願う日が来るかもしれない」
撫子の目が、大きく見開かれた。
「人間に戻る……? そんなこと……」
「可能性の話だ」
アザールは淡々と言った。
「吸血鬼が人間に戻る方法は、存在する。極めて難しいが、不可能ではない」
「でも、私は……」
「その時、紗世はどうなる?」
アザールの言葉が、撫子の胸に突き刺さった。
「お前が人間に戻れば、紗世は一人で永遠を生きることになる。お前を見送り、お前の死を看取り、そして一人で残る」
撫子は言葉を失った。
「覚えておけ」
アザールは踵を返した。
「その時が来たら、よく考えることだ」
そして、闘の中に消えていった。
*
アザールが去った後、撫子と紗世は長い間黙っていた。
月だけが、変わらず二人を照らしている。川のせせらぎだけが、静寂を破っていた。
「紗世……聞こえていた?」
「はい……」
紗世の声は、いつもと変わらなかった。だが、その横顔には、かすかな影が落ちていた。
「人間に戻る……そんなこと、考えたこともなかった」
撫子は呟いた。
「三百年、吸血鬼として生きてきた。もう、人間だった頃のことなど、忘れかけている」
「撫子様……」
「でも、もし……もし、人間に戻れるなら……」
撫子は言葉を切った。
紗世を見た。月明かりに照らされた紗世の顔は、静かだった。だが、その瞳の奥には、複雑な感情が渦巻いているように見えた。
「もし、撫子様がそれを望むなら……」
紗世は言った。その声は、静かだが、どこか震えていた。
「私は、撫子様の望む通りにします」
「紗世……?」
「撫子様が人間に戻りたいと願うなら、私はそれを止めません。たとえ、私が一人になっても」
紗世は目を伏せた。
「私は……撫子様のためなら、何でもします。何でも耐えられます。たとえ、永遠の孤独でも」
その言葉の重さが、撫子の胸に響いた。
紗世は、本気だ。
撫子のためなら、永遠に一人で生きることすら受け入れる。それが、紗世の愛だった。
撫子は、紗世の手を握った。
「紗世、私は……」
「撫子様が幸せなら、私は幸せです」
紗世は顔を上げ、微笑んだ。
「それだけです」
撫子の目に、涙が滲んだ。
「紗世……あなたは、どこまで……」
言葉にならなかった。
紗世の愛の深さが、撫子には重すぎた。だが、その重さが、撫子を支えていた。三百年間、ずっと。
*
アザールとの会話の後、撫子の心はさらに揺れていた。
「人間に戻る……それは、可能なのだろうか」
夜、一人で考え込むことが増えた。紗世が傍にいても、心は遠いところを彷徨っていた。
「でも、人間に戻って、何をする?」
家族は、もういない。愛する人も、いない。人間に戻ったところで、待っているのは孤独だ。
「いや、違う」
撫子は首を振った。
「吸血鬼でいても、孤独は同じ。むしろ、永遠に続く孤独だ」
だが、紗世がいる。
紗世だけは、傍にいてくれる。
「でも、私が人間に戻ったら……紗世は……」
考えるだけで、胸が痛んだ。
紗世は、撫子のために全てを捧げている。人間を捨て、永遠の闇を選び、三百年間、撫子だけを見てきた。その紗世を、一人にすることなどできるのだろうか。
「撫子様……何か、お悩みですか」
紗世の声に、撫子は我に返った。
「いいえ……大丈夫よ、紗世」
撫子は微笑んだ。だが、その笑みは虚ろだった。
紗世は、何も言わなかった。ただ、心配そうに撫子を見つめていた。
その目が、全てを見透かしているようで、撫子は目を逸らした。
*
大正時代が終わった。
十四年という短い時代だった。関東大震災で帝都は壊滅し、復興の途上で時代は変わった。
昭和。
新しい元号が発表された年、撫子と紗世は、また新しい町へ引っ越した。
震災後の東京を離れ、地方の静かな町へ。いつものことだった。十年ごとの引っ越し。新しい名前、新しい人生。
「三百年……三百年も生きてきた」
撫子は呟いた。
窓の外には、夜の町が広がっている。電灯が灯り、ラジオの音が聞こえる。三百年前には想像もできなかった光景。
「でも、何も変わらない。心は、ずっと空っぽのまま」
紗世は黙って撫子の隣に立っていた。
「紗世、このまま永遠に……私たちは、こうして生きていくのかしら」
「分かりません」
紗世は正直に答えた。
「でも、私は撫子様の側にいます」
「いつもの言葉ね」
撫子は、微かに微笑んだ。
「でも、その言葉だけが……私を支えている」
紗世が、撫子の手を取った。
「ありがとう、紗世」
「いいえ。私こそ……撫子様の側にいられることが、幸せです」
二人は、新しい町への道を歩き出した。
昭和の時代が始まろうとしていた。
世界は、大きく変わろうとしていた。戦争の足音が、遠くから聞こえ始めていた。
だが、撫子にはまだ分からなかった。
この先に、運命の出会いが待っていることを。
永遠の虚無を破る、一人の人間との出会いが。




