表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
緋色の月に抱かれて ―永遠の孤独と四つ葉の誓い―  作者: 月代 緋色


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

10/17

虚無の果て

明治が終わった。


そして、新しい元号が発表された。大正。新しい時代の幕開けだった。


撫子と紗世は、東京で暮らし始めていた。


急速に近代化が進む帝都。石造りの建物が立ち並び、路面電車が走り、カフェやデパートメントストアが次々と開業していく。街には洋装の紳士淑女が行き交い、華やかな空気が満ちていた。


大正ロマン。


人々はそう呼んだ。西洋と東洋が混じり合い、新しい文化が花開く時代。女性たちは断髪に洋装、モダンガールと呼ばれて街を闊歩した。


撫子と紗世も、時代に合わせて洋装を纏った。


コルセットを締め、レースのブラウスにロングスカート。帽子を被り、パラソルを手に。華やかな装いに身を包んでも、心の空虚は埋まらなかった。鏡に映らない自分を飾り立てることに、何の意味があるのだろう。


それでも、人間社会に溶け込むためには必要なことだった。


「撫子様、この時代は華やかですね」


紗世が言った。銀座の通りを歩きながら、煌めくショーウィンドウを眺めている。


「そうね」


撫子は頷いた。だが、その声には感情がこもっていなかった。


「華やかなだけ。私の心は、相変わらず空っぽよ」


紗世は何も言わなかった。ただ、撫子の隣を歩き続けた。


通りを行き交う人々。笑い合う恋人たち。はしゃぐ子どもたち。誰もが生き生きとしている。この瞬間を、精一杯生きている。


撫子には、それが眩しかった。


「時代は変わる」


撫子は呟いた。


「でも、私たちは変わらない」


三百年近くを生きてきた。江戸時代の初期から、明治を経て、大正へ。時代は目まぐるしく変わっていった。だが、撫子の心は、あの夜から止まったままだった。


復讐を果たしたあの夜から。


   *


その年の秋、撫子と紗世は、ある人間の家族と知り合った。


下町の長屋に住む、三世代の家族だった。老夫婦と、その息子夫婦、そして孫娘。名を、千代という。


十歳ほどの千代は、活発で好奇心旺盛な少女だった。


「お姉さん、きれい!」


初めて会った時、千代は撫子を見上げて、目を輝かせた。


「お人形さんみたい!」


「ありがとう」


撫子は微かに微笑んだ。


千代は、よく撫子と紗世のもとを訪れた。学校の帰り道、わざわざ遠回りをして。


「お姉さん、今日はね、学校でこんなことがあったの」


「お姉さん、この本、読んだことある?」


「お姉さん、将来はお姉さんみたいになりたいな」


無邪気な笑顔。屈託のない声。


撫子は、千代を見るたびに、誰かを思い出した。


小百合。


十歳で死んだ、幼い妹。


「お姉様、お姉様」と後をついてきた、あの小さな影。蓮の花を見つめていた、あの無邪気な瞳。「死んでも、また会える?」と問うた、あの澄んだ声。


千代の笑顔が、小百合と重なる。


胸が、締め付けられた。


「撫子様……」


紗世が、撫子の表情の変化に気づいた。


「大丈夫よ」


撫子は首を振った。


「ただ……少し、思い出しただけ」


   *


数年が経った。


老夫婦が、相次いで世を去った。


祖父は穏やかな眠りの中で。祖母は、その半年後に後を追うように。


葬儀に参列した撫子は、棺の中の老人たちを見下ろした。皺だらけの顔。閉じられた目。もう二度と開くことのない瞳。


「お姉さん……」


千代が、撫子の袖を引いた。目は赤く腫れ、頬には涙の跡がある。


「おじいちゃんとおばあちゃん、天国に行ったの?」


「……ええ」


撫子は答えた。


「きっと、天国で会っているわ」


千代は泣いていた。撫子は、その頭をそっと撫でた。柔らかい髪の感触。温かい体温。生きている証。


また、誰かを見送った。


何度目だろう。何百回目だろう。


   *


さらに時は流れた。


千代は成長し、美しい娘になった。十歳の少女は、いつしか二十歳を超え、凛とした大人の女性になっていた。やがて縁談が持ち上がり、嫁いでいった。


「お姉さん、今までありがとう」


嫁入り前夜、千代は撫子を訪ねてきた。白無垢を着る前の、最後の夜。


「お姉さんに会えて、よかった」


「こちらこそ」


撫子は微笑んだ。


「幸せにね、千代」


千代は嬉しそうに頷いた。そして、ふと首を傾げた。


「お姉さんは、本当に変わらないね。私が子どもの頃から、ずっと同じ。まるで、時間が止まっているみたい」


撫子は、何も言えなかった。


「不思議な人。でも、私、お姉さんのこと好きよ」


千代は笑った。あの頃と変わらない、無邪気な笑顔で。


   *


千代の両親も、やがて老いて死んだ。


千代自身も、子を産み、孫を抱き、そして老いていった。


最期に会った時、千代は白髪の老婆になっていた。


皺だらけの顔。骨ばった手。かつて撫子の袖を引いた小さな手は、今は枯れ枝のように細くなっている。肌は薄く透け、青い血管が浮き出ていた。あの頃の少女の面影は、もうどこにもなかった。


だが、その目だけは、あの頃と同じ輝きを宿していた。


「お姉さん……」


病床で、千代は撫子を見上げた。かすれた声。途切れ途切れの息。


「本当に……変わらないのね……」


「千代……」


「不思議な人……でも、私……お姉さんに会えて……幸せだった……」


千代の皺だらけの手が、撫子の手を握った。冷たくなりかけた指先。命の灯火が、消えようとしている。


「ありがとう……お姉さん……」


千代は、静かに目を閉じた。


そして、二度と開かなかった。


握られた手から、力が抜けていく。温もりが、少しずつ失われていく。


撫子は、冷たくなっていく千代の手を、いつまでも握っていた。


   *


「また……また、時が流れていった」


撫子は、千代の墓の前に立っていた。


紗世が、隣にいる。秋の風が吹き、落ち葉が舞う。


「私は、何度この光景を見るのだろう」


撫子の声が、震えていた。


「人間は生まれ、育ち、老いて、死んでいく。私は、それをただ見ているだけ。何百年も、何百回も」


紗世は黙っていた。


「千代は、十歳の時に私と出会った。無邪気で、明るくて、小百合に似ていた」


撫子の目に、涙が滲んだ。


「そして、老いて、死んでいった。私は、また見送った。何もできずに、ただ見送った」


「撫子様……」


「紗世、私たちは永遠に……こうして見送り続けるのね」


「はい」


紗世は静かに答えた。


「でも、撫子様。私が一緒に見送ります」


撫子は紗世を見た。


「一人で見送るよりは、少しはましでしょう?」


紗世の顔には、穏やかな微笑みが浮かんでいた。


撫子は、何も言えなかった。ただ、紗世の手を握った。


冷たい手と手が、重なり合う。


   *


その夜、撫子と紗世は、人気のない河原を歩いていた。


月が、川面に映っている。冷たい風が吹き、枯れた草が揺れる。


ふと、撫子は足を止めた。


気配がある。


人間ではない。もっと古く、もっと深い、闇の気配。


「お前たちを探していた」


声が聞こえた。


振り返ると、月明かりの中に男が立っていた。


長い黒髪。深い紅の瞳。三百年前と変わらぬ姿。闇そのものを纏ったような、圧倒的な存在感。


「アザール……」


撫子は息を呑んだ。


「なぜ、私たちを……」


「気になってな」


アザールは静かに言った。


「三百年だ。お前たちが、どう生きているか。見ておきたかった」


「あなたが、私を吸血鬼にしたのよ」


撫子の声には、複雑な感情がこもっていた。怒りなのか、諦めなのか、自分でも分からなかった。


「そうだな」


アザールは頷いた。


「後悔しているか?」


撫子は答えなかった。


「分からない」


長い沈黙の後、撫子は言った。


「後悔しているのか、していないのか。分からないわ」


アザールは、撫子をじっと見つめた。その紅い瞳は、全てを見透かすようだった。


「お前は、紗世の全てを受け取っているか?」


「どういう意味ですか」


「あの娘は、お前のために全てを捧げている」


アザールの視線が、撫子の後ろに立つ紗世へ向いた。紗世は微動だにせず、その視線を受け止めている。


「人間を捨て、永遠の闇を選び、お前のためだけに生きている。お前が知らぬところで、何人もの刺客を斬り、何人もの敵を葬ってきた。その手は、お前の何倍も血に染まっている」


撫子は振り返った。紗世は無表情のまま立っている。だが、その瞳の奥に、微かな揺らぎが見えた。


「紗世……」


「その重さを、お前は分かっているのか」


アザールの声が、夜の空気を震わせた。


「……分かっている」


撫子は言った。


「紗世がいなければ、私は……とうに壊れていた」


「そうか」


アザールは頷いた。


そして、不意に言った。


「いつか、お前が人間に戻りたいと願う日が来るかもしれない」


撫子の目が、大きく見開かれた。


「人間に戻る……? そんなこと……」


「可能性の話だ」


アザールは淡々と言った。


「吸血鬼が人間に戻る方法は、存在する。極めて難しいが、不可能ではない」


「でも、私は……」


「その時、紗世はどうなる?」


アザールの言葉が、撫子の胸に突き刺さった。


「お前が人間に戻れば、紗世は一人で永遠を生きることになる。お前を見送り、お前の死を看取り、そして一人で残る」


撫子は言葉を失った。


「覚えておけ」


アザールは踵を返した。


「その時が来たら、よく考えることだ」


そして、闘の中に消えていった。


   *


アザールが去った後、撫子と紗世は長い間黙っていた。


月だけが、変わらず二人を照らしている。川のせせらぎだけが、静寂を破っていた。


「紗世……聞こえていた?」


「はい……」


紗世の声は、いつもと変わらなかった。だが、その横顔には、かすかな影が落ちていた。


「人間に戻る……そんなこと、考えたこともなかった」


撫子は呟いた。


「三百年、吸血鬼として生きてきた。もう、人間だった頃のことなど、忘れかけている」


「撫子様……」


「でも、もし……もし、人間に戻れるなら……」


撫子は言葉を切った。


紗世を見た。月明かりに照らされた紗世の顔は、静かだった。だが、その瞳の奥には、複雑な感情が渦巻いているように見えた。


「もし、撫子様がそれを望むなら……」


紗世は言った。その声は、静かだが、どこか震えていた。


「私は、撫子様の望む通りにします」


「紗世……?」


「撫子様が人間に戻りたいと願うなら、私はそれを止めません。たとえ、私が一人になっても」


紗世は目を伏せた。


「私は……撫子様のためなら、何でもします。何でも耐えられます。たとえ、永遠の孤独でも」


その言葉の重さが、撫子の胸に響いた。


紗世は、本気だ。


撫子のためなら、永遠に一人で生きることすら受け入れる。それが、紗世の愛だった。


撫子は、紗世の手を握った。


「紗世、私は……」


「撫子様が幸せなら、私は幸せです」


紗世は顔を上げ、微笑んだ。


「それだけです」


撫子の目に、涙が滲んだ。


「紗世……あなたは、どこまで……」


言葉にならなかった。


紗世の愛の深さが、撫子には重すぎた。だが、その重さが、撫子を支えていた。三百年間、ずっと。


   *


アザールとの会話の後、撫子の心はさらに揺れていた。


「人間に戻る……それは、可能なのだろうか」


夜、一人で考え込むことが増えた。紗世が傍にいても、心は遠いところを彷徨っていた。


「でも、人間に戻って、何をする?」


家族は、もういない。愛する人も、いない。人間に戻ったところで、待っているのは孤独だ。


「いや、違う」


撫子は首を振った。


「吸血鬼でいても、孤独は同じ。むしろ、永遠に続く孤独だ」


だが、紗世がいる。


紗世だけは、傍にいてくれる。


「でも、私が人間に戻ったら……紗世は……」


考えるだけで、胸が痛んだ。


紗世は、撫子のために全てを捧げている。人間を捨て、永遠の闇を選び、三百年間、撫子だけを見てきた。その紗世を、一人にすることなどできるのだろうか。


「撫子様……何か、お悩みですか」


紗世の声に、撫子は我に返った。


「いいえ……大丈夫よ、紗世」


撫子は微笑んだ。だが、その笑みは虚ろだった。


紗世は、何も言わなかった。ただ、心配そうに撫子を見つめていた。


その目が、全てを見透かしているようで、撫子は目を逸らした。


   *


大正時代が終わった。


十四年という短い時代だった。関東大震災で帝都は壊滅し、復興の途上で時代は変わった。


昭和。


新しい元号が発表された年、撫子と紗世は、また新しい町へ引っ越した。


震災後の東京を離れ、地方の静かな町へ。いつものことだった。十年ごとの引っ越し。新しい名前、新しい人生。


「三百年……三百年も生きてきた」


撫子は呟いた。


窓の外には、夜の町が広がっている。電灯が灯り、ラジオの音が聞こえる。三百年前には想像もできなかった光景。


「でも、何も変わらない。心は、ずっと空っぽのまま」


紗世は黙って撫子の隣に立っていた。


「紗世、このまま永遠に……私たちは、こうして生きていくのかしら」


「分かりません」


紗世は正直に答えた。


「でも、私は撫子様の側にいます」


「いつもの言葉ね」


撫子は、微かに微笑んだ。


「でも、その言葉だけが……私を支えている」


紗世が、撫子の手を取った。


「ありがとう、紗世」


「いいえ。私こそ……撫子様の側にいられることが、幸せです」


二人は、新しい町への道を歩き出した。


昭和の時代が始まろうとしていた。


世界は、大きく変わろうとしていた。戦争の足音が、遠くから聞こえ始めていた。


だが、撫子にはまだ分からなかった。


この先に、運命の出会いが待っていることを。


永遠の虚無を破る、一人の人間との出会いが。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ