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緋色の月に抱かれて ―永遠の孤独と四つ葉の誓い―  作者: 月代 緋色


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桜散る、運命の日

はじめまして、月代緋色と申します。


桜が散る春の日、一人の娘が全てを失いました。

残されたのは、復讐への誓いだけ。


永遠を生きる吸血鬼となった撫子と、侍女・紗世の300年の物語。

和風ゴシック×吸血鬼×復讐×切ない主従の絆です。


週2〜3回更新予定。完結まで書き切ります。


※R15(残酷な描写あり)


どうぞ、お付き合いください。

桜が、散っていた。

薄紅の花弁が春風に攫われ、庭一面を淡い絨毯のように覆い尽くしていく。その光景を、撫子は縁側に腰を下ろしたまま、ぼんやりと眺めていた。

温かな陽射しが頬を撫で、どこか遠くで鳥がさえずっている。空は雲一つなく澄み渡り、穏やかな春の午後がゆったりと流れていく。何の変哲もない、いつもと同じ日常。それがどれほど尊いものか、撫子はまだ知らなかった。

「お嬢様、お茶をお持ちいたしました」

聞き慣れた声に振り返ると、紗世が盆を手に控えていた。小柄な体躯に黒髪を三つ編みにまとめた少女は、撫子より二つ年下の十八歳。物心ついた頃から傍に仕え、姉妹のように育った、かけがえのない存在だった。

「ありがとう、紗世」

撫子は微笑んで湯呑みを受け取る。紗世が淹れる茶は、いつも絶妙な加減だった。熱すぎず、ぬるすぎず、撫子の好みを完璧に心得ている。長い年月を共に過ごしてきたからこその呼吸だった。

湯呑みに口をつけると、ほのかな渋みと甘みが舌の上に広がる。撫子は小さく息をつき、再び庭へ視線を向けた。

「今日は良いお天気ですね」

紗世が傍らに控えながら言った。

「ええ。桜も、そろそろ終わりかしら」

「名残惜しゅうございますね。今年も美しい桜でございました」

「そうね。少し寂しいわ」

満開を過ぎた桜は、惜しむように花弁を散らし続けている。一片一片が風に舞い、やがて地に落ちて土に還る。その儚さが、どこか胸に沁みた。

けれど、それは決して悲しみではなかった。散りゆく桜もまた美しい。そしてまた来年、同じように花を咲かせる。その繰り返しの中に、撫子は安らぎを見出していた。

「紗世は、桜と梅と、どちらが好き?」

「私でございますか」

紗世は少し考え込むような仕草を見せた。

「梅も凛として美しゅうございますが...やはり桜でしょうか。お嬢様がお好きでいらっしゃいますから」

「私が好きだから?」

「はい。お嬢様がお好きなものは、私も好きになります」

その言葉に、撫子は思わず笑みを零した。紗世はいつもそうだった。撫子が喜ぶことを自分の喜びとし、撫子が悲しむことを自分の悲しみとする。時にそれが申し訳なくもあり、同時に心強くもあった。

「紗世は、もっと自分の好きなものを持っていいのよ」

「これが私の好きなものでございます」

紗世は真っ直ぐな目で答えた。その瞳には、幼い頃から変わらない純粋な敬愛が宿っている。

撫子は湯呑みを置き、桜を見つめながら言った。

「覚えている? 私たちが初めて会った日のこと」

「もちろんでございます。忘れるはずがありません」

紗世の声が、少しだけ柔らかくなった。

「お嬢様が五つ、私が三つの時でございました。私が屋敷に来たばかりで、庭の隅で泣いておりましたら...」

「私が見つけたのよね。『どうして泣いているの』って」

「はい。私は母と離れるのが寂しくて...でも、お嬢様が」

紗世は懐かしそうに目を細めた。

「お嬢様は私の手を引いて、野原に連れて行ってくださいました。そして、四つ葉のクローバーを探し始められて」

撫子もその光景を思い出していた。幼い自分が、土で膝を汚しながら草むらを這い回った記憶。そして、ようやく見つけた時の喜び。

「『みつけた!』って、お嬢様は満面の笑みで」

紗世は続けた。

「『これあげるね。これ持ってると幸せになるのよ!』と。朝からずっと、私のために探してくださっていたと、後から母に聞きました」

「懐かしいわね」

撫子は微笑んだ。あの時の自分は、ただ泣いている女の子を何とかしたかっただけだった。幸せになれるおまじないを、分けてあげたかった。それだけのことだったのに。

「あの四つ葉のクローバー、まだ持っているの?」

「もちろんでございます」

紗世は懐から小さな布袋を取り出した。中には、色褪せて茶色くなった押し花が大切に包まれている。

「十五年、ずっとお守りにしております」

「まあ...ずっと持っていてくれたの」

「これが私の全ての始まりでございます。お嬢様に出会って、この四つ葉をいただいて...私の人生は、あの日から変わりました」

紗世の言葉に嘘はなかった。あの日から、紗世の世界は撫子を中心に回り始めた。それは主従の関係を超えた、もっと深い何かだった。

「大袈裟ね、紗世は」

撫子は照れ隠しに言ったが、心の奥は温かかった。

「事実を申し上げているだけでございます」

紗世は真面目な顔で答えた。その真っ直ぐさが、撫子には眩しかった。

その時、廊下を走る軽やかな足音が近づいてきた。

「お姉様!」

障子を勢いよく開けて飛び込んできたのは、妹の小百合だった。十歳になったばかりの少女は、姉とよく似た黒い瞳を輝かせ、無邪気な笑顔を見せている。

「小百合、走ってはいけないと何度言ったら」

撫子は苦笑しながら言った。

「だって、お姉様にお見せしたいものがあるんですもの」

小百合は手に持っていた野草の花束を差し出した。庭の隅に咲いていた小さな花々を摘んできたらしい。菫、蒲公英、白詰草...春の野花が無造作に束ねられている。

「まあ、可愛らしい」

撫子は妹から花束を受け取り、そっと香りを嗅いだ。素朴な草の匂いが鼻をくすぐる。高価な花にはない、素朴で温かな香り。

「お姉様のお部屋に飾ってくださいませ」

小百合は得意げに胸を張った。

「ありがとう、小百合。大切にするわ」

撫子が妹の頭を撫でると、小百合は嬉しそうに目を細めた。この妹は昔から姉に懐いており、暇さえあれば撫子のもとへ走ってくる。時には鬱陶しいと思うこともあったが、今ではそれも愛おしかった。

「小百合様、またお着物を汚されて」

廊下から現れたのは、乳母の佳世だった。紗世の母であり、撫子が生まれた時からこの家に仕えている女性である。穏やかな顔立ちは紗世によく似ており、年を重ねてなお美しさを保っていた。

「佳世、すまないわね。小百合の面倒をかけて」

「とんでもございません。小百合様は元気なのが一番でございます」

佳世は穏やかに答え、小百合の着物についた土汚れを払った。

「ほら、小百合様。お着替えをいたしましょう。このままでは、お母様にお叱りを受けますよ」

「えー、もう少しお姉様と」

「駄目でございます。さあ、参りましょう」

「はーい...」

小百合は名残惜しそうに姉を振り返りながら、佳世に連れられて去っていった。

残された撫子と紗世は、再び二人きりになる。

「紗世のお母様は、相変わらず小百合に甘いわね」

撫子が言うと、紗世は小さく笑った。

「母は小百合様を、実の娘のように思っておりますから。私よりも可愛がっているかもしれません」

「まさか。紗世のことも、佳世は大切に思っているわよ」

「存じております。ただ、母は昔から世話好きでございますから」

紗世は庭を見つめながら続けた。

「お嬢様のことも、私のことも、小百合様のことも...この屋敷の皆様を、家族のように思っているのでしょう」

「そうね。私も佳世には感謝しているわ。生まれた時から、ずっと傍にいてくれた」

撫子は湯呑みを手に取り、残りの茶を飲み干した。温かさが喉を通り、体に染み渡る。

「紗世」

「はい」

「私は幸せよ」

唐突な言葉に、紗世は少し驚いた表情を見せた。

「父上も母上もお健やかで、小百合も元気に育っている。この屋敷には佳世やあなたがいて、毎日穏やかに過ごせる」

撫子は空を見上げた。雲一つない青空が、どこまでも広がっている。

「これ以上、何を望むことがあるかしら。私は本当に、恵まれているわ」

その言葉に嘘はなかった。撫子は自分の幸福を心から感じていた。裕福な家に生まれ、愛情深い家族に囲まれ、忠実な侍女がいる。何不自由ない暮らし。当たり前のように享受してきた幸福。

けれどそれは、「当たり前」ではなかったのだ。その幸福がどれほど脆く、儚いものであるか。撫子はまだ、知らなかった。

「お嬢様がお幸せなら、私も幸せでございます」

紗世は心からそう答えた。撫子の幸福が、紗世の全てだった。それ以外に、何を望むことがあるだろう。

撫子は黒い瞳を細め、微笑んだ。深窓の令嬢らしい、穏やかで優しい笑顔。特別な美貌というわけではない。目を引くような派手さもない。ただの黒い瞳、ただの黒い髪。どこにでもいそうな、普通のお嬢様。

けれどその笑顔には、見る者の心を和ませる温かさがあった。紗世はその笑顔を守りたいと、心の底から思った。

しかし、その幸福な光景を、離れた場所から見つめる視線があった。

屋敷の廊下の陰。薄暗い隅に、一人の女中が佇んでいた。その目は撫子と紗世を、射殺さんばかりに睨みつけている。

志乃。撫子と同じ二十歳の女中である。

彼女の目には、隠しきれない感情が渦巻いていた。嫉妬。憎悪。そして、どす黒い羨望。

志乃は貧しい農家の生まれだった。物心ついた頃から、働くことが当たり前の生活。朝から晩まで畑を耕し、それでも食べるものにも事欠く日々。着る物は継ぎ接ぎだらけ、履く物は藁草履。そんな中で育った。

十二歳の時、口減らしのためにこの屋敷に奉公に出された。それからの八年間、志乃は必死に働いた。認められたかった。少しでも良い暮らしがしたかった。

けれど、どれだけ働いても、志乃の立場は変わらなかった。下女は下女のまま。出世など望むべくもない。

そんな毎日の中で、志乃は撫子を見ていた。

何の苦労もなく生まれてきた女。働かなくても食べられる女。美しい着物を纏い、美味しいものを食べ、好きなことをして生きている女。

同じ年に生まれたというのに、なぜこうも違うのか。

(あの方は、何も知らない)

志乃は唇を噛み締めた。爪が掌に食い込む。

(私がどれだけ働いても、あの方の一日分の着物も買えない。あの方が一度着て捨てるような着物を、私は一生かけても手に入れられない)

桜の花弁が風に舞い、志乃の頬を掠めた。薄紅の花弁。美しいはずのそれが、今の志乃には醜く見えた。

(それなのに、あの方は笑っている。何も知らずに、幸せそうに笑っている)

撫子の笑顔が脳裏に焼きつく。穏やかで、優しくて、何の曇りもない笑顔。その笑顔を見るたびに、志乃の心は黒く染まっていった。

(いつか...いつか必ず...)

何を「いつか」するのか、志乃自身にもまだ分からなかった。ただ、この煮えたぎるような感情を、どうにかしなければ壊れてしまいそうだった。

志乃は音を立てずにその場を離れた。誰にも気づかれることなく。

その背中を、春の陽射しが無情に照らしていた。

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