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第5話:スティレットのの計算式

クレア視点:


サンジハルの行政棟の重厚な彫刻扉が背後で音を立てて閉じ、香の匂いは古代の石、そして煮えたぎる男たちの誇りが詰まった空間を遮断する。


容赦なく照りつけるナバル王国の太陽が顔を打ち、わたしは乾いた空気を吸い込んだ。先ほどまでの閉ざされた緊張から解放され、埃混じりの風がむしろ心地よい。


.........................


しばし、誰も口を開かない。乾ききった石畳の上でヒールのカツカツという音だけが響く。沈黙は、先ほどの出来事すべてを孕んだ地雷原のようだった。


最初に崩れたのはジュリエットだった。


いつもの舞台女優のような優雅さは消え、指先がわずかに震えている。栗色の髪を耳にかける仕草もぎこちない。


「……ちょっと、クレア」

彼女は息を吐くように小さな声で言った。

「ほんの一瞬、本当に殴られるかと思ったわね。拳を握るのを見たの。あの目も。あの人、あたしの顔面に拳を叩き込むつもりだったの...」


わたしは彼女の顔を見ず、前方の大アーチへと視線を据えたまま答える。

「その通りですわ」

声音は平坦のつもりで言った。


アーミールの体が巻き上がり、原始的な怒りが顔に浮かんだあの瞬間が、冷徹に脳裏へ焼き付いている。「紛れもない人を殴りたい時の衝動に駆られましたわね。原始的で、抑えのきかないもので...」


ジュリエットは身震いした。

「助けてくれてありがとう、本当に……腕を蹴ってくれたことに。って、男の腕に蹴りを入れられて感謝するなんて、なんか変だわ、えへへ~、へ...」

弱々しく笑おうとしたが、声は喉で途切れた。


「怪我を与えるための蹴りではありませんでしたわ」

わたしは即座に訂正する。感情から切り離し、分析者としての事実だけを述べる。


「神経筋を狙った局所的な打撃。注意を逸らし、回路を遮断する一撃。彼の前頭葉は機能を停止していた。純粋な辺縁系反応。あの瞬間に理解できる言語は、肉体的介入だけでしたわよ」


わたしはようやく彼女を見やった。頬に血色は戻りつつあるが、瞳は大きく見開かれ、虚勢は剥がれ落ちていた。幼さすら漂う。


「怪我はない?」


「なに? ないわよ、もちろん。クレアの動きは……まるで外科手術みたいだったわ」

彼女は頭を振り、畏敬と恐怖の入り混じった表情を浮かべた。

「どこでそんな技、覚えたの?」


「アルブレヒト式経営学教育の必須課目ですわよ」

乾いた声で答える。


「高度な交渉には……火消しの技術が必要になることもありますからね」

それ以上は言わなかった。


――“CEOはすべての変数を制御せねばならぬ、肉体的なものも含めてだ、クレア”!父が叩き込んだ苛烈な護身術訓練の記憶は、今は語る時ではなかった。


アーチを抜けると、喧噪の街ザハラ=ケデシュが広がる。


香木の香りは香辛料と焼き肉の匂いに取って代わり、秩序立った聖域から一転して、鮮やかな混沌が押し寄せる。


挿絵(By みてみん)


「靴ごときで、完全に理性を失ったわね……」

ジュリエットが少し場の空気を明るくしようと破顔しながら呟いた。


「靴の問題じゃありませんのよ」

群衆をかき分けながらそう答えた。


「象徴の問題だからか、あなたの言い分の方が正しかったですわ。彼はそれを恐れているだけ。あの六インチの磨かれた革の尖りが、謙遜・強さ・女性の在り方についての彼の信念すべてを覆すことを突きつけられたのですわ。伝統を侮辱しただけじゃない。彼の存在基盤そのものを脅かしました。だから恐ろしかったと感じたはずですわね」


しばらくジュリエットは黙り込み、街の景色を新しい目で見つめる。

やがて小さく呟いた。

「これでもう完全に橋を燃やしたわね。提案を承認してくれることなんて、絶対にないと思う...」


「むしろ、承認する可能性が高まりましたのよ」

計算ずくの笑みを浮かべたわたし。


ジュリエットは立ち止まり、果物売りに避けられる。

「はあ? どうしてそう思うの?」


わたしは向き直る。

「彼は謝ったからですわ」


「だから?」


「アーミールのような男が軽々しく女性に向けて謝ると思いますの? ましてやただの女性だけでなく、異国の異端的挑発者と見なす相手に...。彼の誇りは核心そのもの。...そして、それを捨ててまで謝罪したということは、怒り以上の深い場所を突かれた証拠ですわよ。彼は今、自分を疑い始めている。疑い始めた男は、説得できる男と同義ですわ」


ジュリエットの瞳に理解が宿る。

「クレア……最初から彼を挑発するつもりだったのね~?」


「彼の信念の深さを測りたかっただけですの」

わたしは言い直した。

「そして測れた。底があると分かりましたの。”聖父”という肩書きの下には、激情の男がいる。その激情は方向を変えられるのであって、利用できる証拠ですわよ」


わたしは再び歩き出す。


頭の中では変数が次々と組み合わさる。アーミールの怒り、羞恥、そしてポートフォリオを見た時のあの目――、ただの憤りではなく、好奇心もあった。数字の衝撃も......


「彼は提案を読み込みますわ。そして経典を調べ、祈る。その間ずっと、わたし達の事を思い出す。あなたを、あの挑戦を...。もうこの案件は抽象的な商談などではありません。彼の失敗と好奇心、贖罪の道と結びついてしまったと、わたしは思うのですわ。だから断言できます...」


ジュリエットはわたしの隣に並び、ゆっくりと笑みを広げる。

「クレア・フォン・エーデルワイス……あんたって、本当に恐ろしいほど頭が切れる女社長ね」


「わたしはただ現実的なだけですわよ」

そう答えながらも、心の奥で小さな満足感が芽生えていた。

複雑な方程式だが、変数は揃いつつある。


宿へ向かう道すがら、思考は自然と過去へ戻っていく。


アーミールの瞳の濃い色でもなく、あの衝突の衝撃でもなく、わたし達をここへ導いた冷徹な決断へ......


それは灼ける中庭ではなく、雨に濡れた街路と蒸気を吐く工場を見下ろす、エーデルマルクのガラス張りの執務室で始まった。


ナバル王国への進出は情熱や芸術の問題ではなかった。


生き残るための算段だったのです。


.................

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