篠田朗
約束の時間。既に店内で待っていてくれた彼女は、私の姿を見つけてにこりと微笑む。
「待たせてすまない」
「私も今来たところよ」
お疲れ様と労ってくれる彼女。
言葉や態度の端々に感じる自然な気遣いに、日々のストレスが解けていく。
今はまだ伝えられない私の気持ち。
もう少し落ち着いたら、その時には――。
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「それじゃあ。また仕事の時に」
以前から妙になれなれしく絡んでくる相田さんにそう告げて、私は会社へと向かった。
就業時間外に二度も三度も押し掛けてくるなんて。
本当に、朝からたまったものではない。
一緒に仕事をすることになった相手先の社員のひとりである彼女は、いつもあまりこちらの話を注意して聞いておらず、何度も確認する必要があった。
そのくせ自分の意見だけは当たり前のように放り込んでくる。野放しにしていると纏まるものも纏まらないので、相手先の数人と上手く舵を取っていた。
まだ若く、一般的には美人であるのだろうが。自己中心的で自分勝手なその様子が妻と重なり、本当に苦手だった。
仕事では仕方ないので普通に接していたが、まさかこんなところまで押し掛けてくるとは。
これ以上関わってくるようなら会社を通して苦情を入れようかと思っていた矢先、彼女が亡くなったと連絡が来た。
会社からはそれだけだったが、仕事仲間から自殺らしいと聞いた。
自分のせいかもしれないと思う一方で、もう絡まれることはないとの安堵を覚えた。
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それからはまた静かな朝を過ごせるようになった。
自宅ではくつろぐことなどできない私にとって、この朝の落ち着いた時間は必要なこと。
自宅はただ風呂に入って寝るだけの場所。妻とも長らくまともに話していない。
酔っての情事で妊娠したと言い寄られ、結婚することになった妻。
結婚後に流産し、結局子どもはいないまま。
互いに愛がないことも、妻に別の相手がいることもわかっているのだが、面倒なので気付かぬ振りをしている。
共に食事などをするわけもなく、朝はこうして会社近くのカフェに行き、帰りも適当に食べて帰っていた。
なんの喜びも楽しみもない、灰色に塗り潰された日々。
また元通りの灰色の生活に戻って暫く、そんな私の日常に変化が起きた。
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忘れ物の傘に気付いて声を掛けたのがきっかけで知り合った有村さんは、とても穏やかな女性だった。
少し世間話をする程度だが、彼女の慎ましく謙虚な態度は私にとってはとても新鮮で。話をしていて嫌な気持ちになることがない。
年若い彼女になんだか後輩を見るような気持ちを覚えながら、いつの間にか毎朝のささやかな会話を楽しみにしていた。
アスファルトの隙間から一輪の花が咲いたように。
有村さんは灰色の日常を彩ってくれた。
付き合っている相手はいるが、親も亡くし兄弟もいないという彼女。それでも凛と立つその姿に、自分もしっかりしなくてはと思うようになった。
まずはこの流されるだけの生活をなんとかしようと思い、妻に離婚を切り出した。
事前に弁護士に相談して、不倫の証拠も集めて準備をした甲斐があり、慰謝料を請求しない代わりに今後一切関わらないとの誓約書を書かせることができた。
晴れて離婚は成立したが、有村さんに伝えることはできずにいた。
彼氏がいるという彼女。おそらく私が既婚者だから気を許してくれているのだろう。
そしてその頃には有村さんを女性として見ている自分に気付いていた。
この気持ちを気取られると、その為に離婚したのかと思われかねない。
過ぎた願いを抱くつもりはない。
その花を手に入れられなくてもいい。
このまま咲いていてくれさえいればいい。
ただそれだけでいいと思っていた。
――思えていると、思っていた。
いくら綺麗事を言ったところで、いざその時が来ると欲望に負ける。
私は自分のそんな弱さを目の当たりにすることとなった。
彼氏に二股を掛けられていたと落ち込む有村さん。私はそんな彼女の悲しみにつけ込んで、一夜を共にした。
これからも会いたいと言ってもらえたことに安堵しつつも疑問が残る。
その夜の彼女はどう考えても彼氏のいる女性のそれではなく、処女かほとんど経験がないのではと思える様子だった。
もちろんプラトニックな関係だったのかもしれないが。だとすると余計に私に身体を許す理由がわからない。
しかしそんな疑問を持ちつつも、心を満たすのは幸福で。
手折ってしまったその花を、何よりも大切にしようと決意する。
本当はすぐにでも離婚したことを告げて新たな関係を結びたかったが、彼女の傷が癒えるまでは私も余計なことは言わず、望まれる関係を続けていくことにした。
彼女も今は後腐れのない関係を求めているのかもしれない。
本気になのだと知られて去られることだけは避けたかった。
玲奈と過ごす幸せな日々。
ただ一輪の花を手にしたことで、私の日常は色鮮やかに変わっていった。
穏やかで優しく思慮深い玲奈に日々の疲れを癒されながら、いつかを夢見る。
まだ言えないままのこの気持ちを、彼女に伝えることができたなら――。
そう願う私を嘲笑うかのように問題は起きる。
一体どこで知ったのか、元妻が相田さんの自殺を私との不倫のせいだろうと言い出し、慰謝料を請求してきた。
事実無根である上に、こちらには誓約書もある。弁護士に任せておけばいいとはいえ、未だにちらつくふたりにげんなりする。
玲奈にはすぐにその苛立ちを気取られ、どうしたのかと問われた。
いっそ話してしまえればと思ったが、あの元妻は玲奈とのことでも横槍を入れてくるかもしれない。
こうした関係になったのは離婚後だが、私のいざこざに玲奈を巻き込むのは申し訳なく。
今回のことに片がつき、もう大丈夫だと言えるようになったら。
その時には、玲奈に言うべきことをきちんと告げたい。
労うように寄り添ってくれる玲奈を抱きしめながら、そう誓った。
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その日の玲奈はいつもと様子が違っていた。
ずっと何かを気にして怯えるようで。いつになく甘えてくる彼女を宥めるように抱きしめる。
その理由を知ったのは、シャワーを済ませた後だった。
ベッドに座り動かない玲奈。どうしたと聞いても答えず、ただ宙を見据えている。
どこか緊張したその様子に、緩めるように頭を撫でてキスをしても動きはない。
もう少し近付こうと掛け布団の上に置いた手の下に、何か硬い物があることに気付いた。
掛け布団から降りてめくると、布団の下の玲奈の手には包丁が握られている。
「……こ……れは……?」
玲奈を見ると、彼女もまたうろたえた様子で私を見ていた。
「亜里沙は私の友達だったの」
玲奈の口から出た名に驚く。
相田亜里沙。
どうしてあの女の名が玲奈の口から出るのだろうか。
「あの子はあなたに捨てられて自殺した! あなたが殺したようなものよ!」
包丁の切っ先をこちらへ向けて声を荒らげる玲奈。
普段からは考えられないその様子に、浮かんだ疑問の答えと今の関係になれた理由を知る。
最初から玲奈は私のことを「そう」だと見ていたのだ。
友人を死に追いやった、憎むべき不倫相手だと。
それでも私を見据える玲奈の表情から窺えるのは憎悪というより悲しみで、何かに苦しんでいるようにも見える。
震えて安定しない切っ先はその困惑を示すようだった。
何が正しいのか、もうわからなくなった。
私が玲奈から感じたものは、すべて偽りだったのだろうか。
あの優しさも温かさも、すべて演技だったのだろうか。
私が抱く気持ちと同じものを、確かに玲奈からも感じていた。
それが偽りだとは思えない。
――思えないが。
振り払っても振り払っても纏わりつくあの女の残滓。
私と同じように、玲奈もあの女に囚われている。
包丁を取り上げても、誤解なのだと諭しても、私の気持ちを告げても。
解放されるのはひと時で、またすぐに絡め取られるのだろう。
私と関わる限り、永遠に――。
苦しそうな玲奈を解放してやりたい。
もうそれだけでいい。
突然玲奈が動いた。
胸元を押される圧迫感が裂ける痛みを伴い内側に抜けていく。
揉み合うように見せかけて自分で刺すつもりが遅かった。
玲奈の罪にならないように上手くごまかしてくれればと思い、せめてと包丁の柄を握る。
呆然と私を見つめる玲奈。
その顔には友の仇を討った喜びはなく、何を考えることも放棄しているようにすら見える。
私への気持ちに偽りがないのであれば、彼女もまた、ずっと苦しんでいたのだろう。
――そんな顔をせずとも。
もうこれで終わりにできる。
この状況でも込み上げるのは変わらぬ気持ち。
伝えたいのに声にならない。
身体の力が抜けていく。
狭くなる視界にかろうじて映る、彼女の姿。
愛している、と。
最期まで、言えなかった。
最後までお読みくださりありがとうございます。
亜里沙視点、篠田視点を経ることで、玲奈視点の見え方が変わっていればと思います。
三人の中で篠田だけが心のままを語っています。なのでおそらく、篠田視点が一番客観的に見たものに近いかと。
玲奈と亜里沙が本人も自覚のない心中と向き合えていたのなら、少しは違った結果だったのかもしれませんね。
すっきりとしないお話でしたが、お付き合いくださりありがとうございました。




