有村玲奈 ③
それ以来私は篠田と夜に会うようになった。
食事だけで帰る日もあれば、終電で帰る日も朝まで一緒にいる日もある。
篠田は変わらず優しくて。
そしてとても疲れていた。
大人のように私を包んでくれるかと思えば、子どものように甘えてくる。
そんな篠田に求められるまま――そして演じるままに関係を深めた。
時には甘え、時には叱り、甘やかし。
疲れた笑みを労い、癒すべく微笑みかける。
篠田は私に好きだと言わなかった。
だから私も篠田に好きだと言わなかった。
これは間違った関係。事実はそれだけがあればいい。
執着を見せて逃げられてしまえば、私の計画は頓挫する。
私の目的はあくまで篠田の不倫を曝すこと。
私との不倫をきっかけに、亜里沙との不倫を表沙汰にすること。
亜里沙の恨みを篠田にわからせる。
その為にどうすれば一番効果的なのかを、今は探っているところ。
重ねる肌も重なる日々もその目的の為。
通い合う心など、私と篠田の間には最初からないのだから。
「今日はどうしたの?」
いつもより強く求めてくる篠田を怪訝に思いそう問うと、すまない、と苦笑が返ってきた。
「ちょっと色々あってね。……本当に疲れた」
苦労が滲むその顔に手を伸ばして頬に触れると、覆うように握られる。
「仕事で何かあった?」
「まぁ……そんな感じかな」
曖昧な答えを質すつもりはない。
私は篠田にとって都合のいい存在であればいい。
篠田は私を求めてはくれるが、愛しているわけではなく。ただ日々の鬱憤を晴らせる相手がいればいいだけなのだから。
そしてそれは私も同じ。
目的の為に、篠田を気遣う振りをしているだけ。
私と篠田の間に恋愛感情はない。
あるのはただお互いの打算と計画。
ふと篠田の手に力が籠る。
「……玲奈。私は――」
「大丈夫よ。私はこれ以上望んだりしないから」
私がもし篠田の心を求めるような素振りを見せれば、きっと亜里沙と同じように捨てられる。
私はそうはならない。
ちゃんと上手くやってみせる。
「朗さんの邪魔はしないわ」
何か言おうとした篠田を唇で止めて。
その胸に顔を埋めた。
――どうすればいいのか。
答えを出すのをズルズルと引き伸ばした私は、その報いを受けることとなった。
この先確実に来るタイムリミットに、私は覚悟を決める。
私が篠田に近付いたのは、亜里沙との不倫を曝す為。
ただそれだけなのだと、改めて胸に刻んだ。
*∼***°**∼*°*∼*∼∼°*∼°∼*∼∼*
その日もいつも通りだった。
食事のあとホテルに入り、ベタベタと触れ合いながら過ごす。
次第に熱を帯びる眼差しと身体。
逃れきれずに受け入れてしまう私もまた、篠田には同じように見えているのだろうか。
呑み込む吐息はただ熱く。
閉じた瞼の裏まで熱していく。
「……玲奈?」
篠田の指に優しく拭われて、私は溢れた涙に気付いた。
どうかしたのかと尋ねながら離れようとする篠田。しがみつくように抱きついて止めると、優しく抱きしめ返してくれる。
――本当に優しくてばかな人。
あなたは私を許さなくていい。
ずっと、ずっと。
恨んでくれたらそれでいい――。
篠田がシャワーを浴びている間に、持ってきた包丁をベッドの中で隠し持つ。
殺すつもりはない。
私が傷害事件を起こして警察沙汰になれば、少なくとも篠田の奥さんや周りの人間に、私の動機は知られるだろう。
私が罪を犯したとしても、どうせ困る人もいないのだから。
あとのことはあとで考えればいい。
やがて小さく聞こえていたシャワーの音がやんだ。
もうすぐ篠田が出てくる。
ベッドの上に座り、無意識にお腹に触れていた左手で掛け布団を胸元まで上げ直す。
右手に握る包丁に気付かれないように、上手く隠せているか確認する。
もう退けない。
今日でこの馬鹿げた芝居を終わらせる。
シャワールームから出てきた篠田がベッドに腰を下ろした。
「どうした?」
緊張で強張る私に気付き、労わるように頭を撫でてくれる。
瞳を細めて覗き込む篠田。何も言わない私に仕方なさそうに笑い、軽くキスをした。
今ならできる。
軽く腕を切るだけでいいのだから。
ほんの少し、刃が掠めるだけでいいのだから。
ただそれだけのことなのに。
包丁を握りしめたまま、どうしても動けない。
「玲奈?」
私の方へと身を乗り出した篠田の手が、掛け布団の上から私の手と重なった。
途端に怪訝な顔をした篠田が、立ち上がって掛け布団をめくる。
「……こ……れは……?」
包丁から私へと視線を移し、篠田が呆然と呟いた。
「亜里沙は私の友達だったの」
見つかってしまったことに動揺しながらも、私は包丁を胸の前に引き寄せて両手で握りしめる。
切っ先を向けられても篠田はまだ驚いた表情のまま動かなかった。
「あの子はあなたに捨てられて自殺した! あなたが殺したようなものよ!」
叫ぶように吐き捨てた言葉に、篠田は真っ直ぐ私を見つめて。
そして、諦めたように笑う。
「……そう、か」
乾いた小さな呟きが、その場に落とされた。
反射的に動いていた。
ただ掠めるだけのつもりだった切っ先が、ずぶりと嫌な感触と共に篠田の胸に呑まれていく。
低く呻いた篠田は、それでも微笑んだままで。
そのまま一歩後退り、胸に刺さる包丁の柄を自分で握った。
じっと篠田が私を見つめる。
その瞳には怒りも疑問もなく。
ただ諦めだけが浮かんでいた。
何かを話すようにその唇を動かしてから、篠田はよろりと体勢を崩して座り込み、そのまま仰向けに倒れて動かなくなった。
静まり返る部屋の中に、私の心臓の音だけがうるさいくらいに響いている。
その音が鳴り止んでから、そろりとベッドから降りて篠田の横に座り込んだ。
包丁の柄から離れた篠田の手を取って、お腹に当てる。
――これでもう、私は自分を偽らなくていい。
途端に零れる涙でも、べとりとついた血の跡を滲ませることはできない。
もう消えない、罪の証。
これは私の罪――。
冷たくなったその手を放して。
立ち上がり、鞄の中からスマホを取り出した。
お読みくださりありがとうございます。
四話目は亜里沙視点、五話目は篠田視点となります。
受け取り方によっては更に救いのない話に変わるかもしれませんので、しんどそうだと思う方はここで読み終えてください。