有村玲奈 ②
篠田朗、三十二歳。
亜里沙の勤め先に業務委託している会社で働いている。
平日の朝は大抵会社近くのチェーンのカフェにいて、夜も外で食事を済ませている。
妻とは同居しているが、子どもはいない。休日にも一緒に出掛ける様子はなく、夫婦は不仲だろうとのこと。
亜里沙の勤め先を訪れることが多く、名刺をもらっていることから仕事上の接点もある。
朝のカフェに亜里沙が来て隣に座ることは数度あったそうだが、一緒に来ることはなく。
篠田が不倫をしているという噂も全くないらしい。
写真を見せてもらったが、ただ人がよさそうなだけで何の特徴もない、どこにでもいそうな男だった。
誰かに貢がれるような生活をしていた亜里沙が入れ込んだ相手がどんな人なのか気になって、興信所に調査を依頼したけれど。
こんな普通の人だったなんて思わなかった。
でもだからこそ、上手く隠せていたのかもしれない。
亜里沙を弄んで自殺に追いやっておいて、誰にも知られず今まで通りのうのうと暮らしているなんて。
もし本当のことを――隠し通せたと思ったその罪を明るみに出せたら、少しは亜里沙の弔いになるだろうか。
次の日から毎朝あの男の通うカフェに行った。
いつも同じ席に座るあの男。私も間をひとつ空けた隣に定位置を作る。
私から声を掛けたりはしない。
向こうからも声を掛けてこないけど。
そのうちいつもいる、くらいには認識されたようで、たまに目が合うようになった。
不倫するような男なのだから、もしかしたら勘違いして声でも掛けてこないかと思っていたのだけど。
亜里沙と違って美人でもない私では、そう上手くはいかない。
知り合いでもなんでもない私がいきなりあの男を責めたところで、通報されて終わりだろうから。
どうにか自然に知り合うきっかけを作れないかと考えた。
実行したのは午後から雨予報の日。私は持ってきた長傘をテーブルの横に掛けたまま席を立った。
「傘、忘れてますよ!」
背後から掛かった声にほっとしたのを顔に出さないよう気をつけて、慌てた様子で礼を言い取りに戻る。
長傘を手にもう一度礼を言い、店を出た。
そして翌朝、いつもの席に座るあの男に近付く。
「昨日はありがとうございます」
「いえ。たまたま気付いただけなので」
穏やかに微笑みそう返してくる男。
会話をしながら持っているトレイを隣のテーブルに置いて座った。
目論見通り、私は篠田とそれをきっかけに話をするようになった。
隣のテーブルに着くようになり。
互いに名乗り。
世間話の延長で、篠田が既婚者であることも聞いた。
ナンパ目的だと警戒されないように彼氏持ちだと嘘をついたからかもしれないけど、篠田が私を誘うようなことはなかった。
篠田は印象通り優しく穏やかで、こちらが不快な思いをするようなことをしなかった。
きちんと向き合い話を聞き、さり気なくこちらを気遣ってくれる。
歳上の男性らしい寛容さは、せかせかとした日々の疲れを癒してくれるようだった。
外面がいいだけなのかもしれないけど。
亜里沙も篠田のこういうところに惹かれたのだろうか。
どんな風に亜里沙とのことを暴露すれば効果的だろうかと考えているうちに、篠田と過ごす日数が積み重なっていく。
篠田は変わらず私に何も言ってはこないけど。
向けられている眼差しが変わってきているのは気のせいではなく、親しみを持ってくれているのは間違いないと思う。
もし私が一歩踏み込めば、篠田は誘いに乗るだろうか。
不倫相手になった私から暴露すれば、世間は亜里沙とのことも本当だと思うだろうか。
――それなら、と。
上手くいくかはわからないけれど、私は計画を立てて動き始めた。
彼の態度がなんだか素っ気なくなったと相談すると、居もしない彼との仲を心配してくれる篠田。
「きっと些細なことですれ違っているだけじゃないかな。ふたりできちんと話してみるのが一番だと思うけどね」
いつもこちらの話を真剣に聞き、考えてくれる。
篠田は優しい。
これも篠田の手のひとつ、なのかもしれないが。
「こんな素敵な旦那様で。奥さんは幸せですね」
するりと口から出た言葉に、篠田は驚いたように目を見開いた。
「いや、私は――」
何か返しかけて、篠田はそのまま苦笑いを浮かべる。
「……全然、そんなことはないよ」
どこか諦めたような表情に、夫婦は不仲であったことを思い出す。
それきり黙り込んだ篠田。
私は何も聞けなかった。
策を練り、覚悟を決めて。
金曜日の朝、私は緊張しながら篠田の隣のテーブルに着く。
「どうしたの?」
視線を落として溜息をつく私に、篠田がそう声を掛けてきた。
昨日の夜から嫌なことばかり考えて気分を落としてきた。
父さんも死んで、親戚も付き合いなんかなく、彼氏どころか友達もいない。
唯一友達だと思ってた子も、私の知らないところで華やかな生活をしていた。
誰にも必要とされていない私。
いてもいなくても変わらない私。
きっと本当に彼氏がいたとしても。
こんな扱いをされて終わるのだろう。
「なんでもないです」
「そんな風には見えないけど」
心配そうな篠田に笑ってみせる。
「たいしたことじゃないので」
「でも……」
言い淀んだ篠田は鞄から名刺とボールペンを取り出して、何かを書き込んで渡してきた。
亜里沙の部屋にあったのと同じ名刺に電話番号が書かれている。
「時間もないし、朝に話すようなことじゃないだろうから。何時でもいいし、今日が無理ならいつでもいいから。仕事終わったら連絡して」
「篠田さん……」
「余計なお世話なら、それは捨ててくれて構わないから」
「そんな……」
私を見つめる篠田は真剣で。
私は目を逸らして、小さく礼を言った。
――喰い付いた。
カフェを出てから独りごちる。
上手くいった。あとは――。
ふるりと震える身体は、上手くいった喜びからか、この先の不安からか。
それでも、私は――。
六時過ぎに電話をすると、篠田はすぐに出てくれた。
ここに来てと呼ばれた店は個室のある居酒屋だった。小さな部屋で篠田と向かい合って座り、彼氏に二股を掛けられていて捨てられたのだと話した。
「様子がおかしいことには気付いていたのに。バカですよね」
「有村さんは何も悪くないでしょう?」
最後まで黙って話を聞いてくれた篠田は、私を見つめたままそう断言する。
「こんなに素敵な人なのに。見る目ないね」
「そんなこと言われたことがないから、お世辞でも嬉しいです」
まっすぐに私を見るその瞳に、今まではなかった色が浮かんだ。
「……お世辞じゃないよ。少なくとも私はそう思ってる」
静かで優しい、それでいて強い声。
呑まれそうになったのを、すんでのところで踏み留まる。
自然とこういうことが言える人なのだろうか。
それともこうして誰にでも耳障りのいいことを言うことで、手を出せそうな相手を探しているのだろうか。
どちらなのかはわからないが。
きっと本心ではないのだろう。
ありがとうございますと礼を言いながら、その視線から逃れるように目を伏せた。
「……好きになったのが、篠田さんみたいな人だったらよかったのに」
零れた言葉に篠田がどんな顔をしたのかわからなかったけど。
小さくありがとうと返された。
その後は居もしない彼氏の文句を頷いて聞いてくれた篠田。
店を出て、駅までの道を並んで歩き出す。
「今日はありがとうございました」
「大丈夫?」
はい、と答える声が緊張で震える。
篠田からの誘いはない。
やっぱり私から踏み込まなければ。
「無理に聞き出して悪かったね」
震える声を勘違いしたのか、篠田が申し訳なさそうに謝ってくる。
「いえ、お陰ですっきりしました。ありがとうございます」
「そんな風には見えないけど。でもそう言ってもらえるなら」
困ったように微笑む篠田は、うしろからの街灯のせいか、どこか寂しげに見えた。
近付く駅の明かり。
もう時間がない。
伸ばした手で篠田の袖を掴んで引く。
驚いた様子の篠田と目が合った。
「今夜だけ……」
緊張と不安で声が上擦る。
「……傍に……いてくれませんか……?」
時間が止まってしまったかのように、篠田はそのまま私を見つめていた。
一瞬見入り、私は慌てて手を放す。
「あっ、す、すみません。忘れてくださ――」
「有村さん」
私の言葉を遮る篠田の声は、先程の様子が嘘のように落ち着いていた。
「私でよければ。気が済むまでお付き合いしますよ」
「篠田さん……」
篠田の顔に浮かぶ、心配と気遣い。
あとは私の覚悟だけ。
飲食店でもカラオケでも。そう言う篠田にホテルを指すと、今度は驚いた顔をしなかった。
「……有村さんはそれでいいの?」
それでもいつもより低い声には戸惑いが混ざるようで。
「はい。忘れさせてください」
背を押すようにそう言い切ると、篠田はどこか苦しげに眉根を下げて、私の手を掴んだ。
そのまま篠田に手を引かれながら、私は自然に上がる口元を堪える。
繋いだ篠田の手は、男の人らしく大きくて温かかった。
翌朝、礼を言い謝る私に、篠田は必要ないと首を振る。
「謝るのは私の方だ。卑怯だとわかっていても、これ以上自分の気持ちに嘘がつけなかった」
つけ込むような真似をしてすまない。
私を強く抱きしめながら、篠田は何度もそう言っていた。
「……また、会ってくれますか?」
「君さえいいなら、私こそそれを願いたい」
穏やかに答えた篠田の表情からは、今までなんとなく感じるだけだった好意がはっきりと見て取れるようになっていて。
明日も会えないかと聞く篠田に頷いて、私は家へと帰った。
玄関を閉め、荷物を投げ捨て、そのままお風呂場に直行する。
――悍ましい。
服のまま頭からシャワーを浴びる。
濡れて張り付く感触に、昨夜の肌を思い出す。
悍ましい、悍ましい、悍ましい――。
引き剥がすように脱いだ服が、お湯を含んでべチャリと落ちる。
流しても流しても身体に残る自分のものではない感触。
いっそ身体の内側を開いて流せたらいいのに。
ふとそんなことを思った自分を嘲笑う。
こんな計画を立てている時点で、私の内はもう汚れきっている。
――わかっている。
悍ましいのは私自身なのだと――。