有村玲奈 ①
読後モヤモヤしそうな話です。
おつらくなりそうな方はご無理なさらずに。
小さく聞こえていたシャワーの音がやんだ。
もうすぐあの男が出てくる。
薄明るい部屋のベッドの上に座り、無意識にお腹に触れていた左手で掛け布団を胸元まで上げ直す。
右手に握る包丁に気付かれないように、上手く隠せているか確認する。
もう退けない。
今日でこの馬鹿げた芝居を終わらせる。
∼**∼*°**∼°*∼***°∼∼∼*°*∼
その日は朝から小雨が降っていた。
涙雨だというには式場の席はまばらで人がいない。
親族の他は仕事関係だろう中年男性が数人と年配の女性。同年代は私だけ。
最期のお別れの場にしては寂しいこの状況が、どうにも亜里沙らしい。
最近はたまにメッセージでやり取りするだけで、直接顔を合わせたのは一年近く前だったけど。
相変わらず私と同じで友達がいなかったんだろう。
喪主を務める亜里沙のお母さんが、合間を見て声を掛けに来てくれた。
「有村さん、ずっと亜里沙と仲良くしてくれてありがとうね」
高校の卒業式以来のおばさんは、憔悴していることを除いても随分と老けて小さく見えた。
母ひとり子ひとりの家庭。その悲しみは考えるまでもなく。
「お気を落とさないでくださいね」
他に掛ける言葉のない私に、おばさんは寂しそうな笑みを見せる。
「こんなにいい友達がいてくれるのに。どうしてあの子は……」
言葉を詰まらせ俯くおばさん。
その呟きに、昨日のお通夜で聞いた話を思い出す。
亜里沙が亡くなった理由は病気でも事故でもなく、自殺なのだと。
亜里沙とは高二で同じクラスになった。
生まれつきの茶髪が悪目立ちして孤立していた私と違い、亜里沙は自然と周りに壁を作っているようにも見えた。
いじめられていたわけでもあからさまに敬遠されていたわけでもなく。
ただ、周りに合わせることをしない。
それなのに、何故か私には初めから普通に話してくれた。
やんわりいじめられるのを一年我慢して。この先もこのままならもうやめたいと思っていた高校。
亜里沙といるようになって、やっと落ち着いて通えるようになった。
卒業してすぐ就職した亜里沙と進学した私とでは生活リズムが違ってしまって、あまり会えなくなったけど。
私の就職祝いで久し振りに会った時に酔った勢いで理由を聞いたら、自分と似てたからだと返ってきた。
周りの態度に背を丸めない私が気になったのだと言ってくれた。
自分を貫く亜里沙は強い。
私もそんな風に見えていたのかと嬉しかった。
そんな亜里沙がどうして自ら命を絶ったのか――。
友人を失った悲しみと、気付けなかった後悔と、頼られなかった落胆とを抱きながら、誰に聞くこともできない問いを繰り返す。
もちろん自分の中にも答えはない。
大事な人ができたと言われたことに遠慮して連絡を控えるのではなかったなと、今になって思う。
その時の亜里沙が何を思い、踏み切ったのか。
最近の亜里沙を知らない私には、もはや想像もつかなかった。
もやもやとしたものを抱えながら、だからといってどうにもできずに過ごすこと数日。郵便受けに手紙が届いた。
見覚えある字にはっとして、慌てて手に取る。
裏返すと、やっぱり差出人は亜里沙。
もう一度表に返して、今日の日付指定がされていることに気付く。
私が亜里沙の死を知ってから届くように出したのだろうか。
ふと浮かんだ疑問の答えを察して、私は急いで部屋に入り、中を確かめた。
∼*∼°∼*°∼∼*∼*°∼***
玲奈へ
会って話すと決心が鈍るから、手紙でごめんね。
今まで仲良くしてくれてありがとう。
高校は嫌いだったし、まわりはみんなイヤな子ばっかりだったけど、玲奈がいてくれたから卒業できたよ。
あの時はいっぱいいろんな話をしたね。
同じだけど違う片親同士、私のあんな生活も、玲奈からはうらやましいって言ってもらえて嬉しかったな。
私が先に働き出したから、あんまり話もできなくなったし。
私があの人を好きになってからは、玲奈も気を使ってくれてたんだってわかってるよ。
玲奈、怒らないで聞いてね。
あの人ね、奥さんがいるの。私も知ってたけど、それでも大好きだったから。
いつか私のところに来てくれるって。そう思ってたのに。
結局あの人は私より世間体を選んだ。
仕方ないってわかってても。
本当にショックだった。
あの人とのこと、何度も玲奈に相談しようと思ったんだけど。怖くてできなかった。
ごめんね玲奈。
全部私が弱いから。
あの人も、誰も、悪くない。
私はね、あの人と出会えて幸せだったよ。
だからこの気持ちのまま終わりたい。
こんな手紙が最後でごめんね。
玲奈にだけは本当の理由を知ってもらいたかったの。
ありがとう玲奈。
元気でね。
亜里沙
∼∼∼*∼°*∼*∼∼°**°∼*∼*
最後まで読んで、信じられなくてもう一度読んで。
三度読み返して、ようやくその内容を理解できた。
――大事な人ができたとは聞いていた。
メッセージ上では一度も名前が書かれることはなかったし、最後に会った時もあの人と呼んでいたけれど。一度だけ気が緩んだのか、『あきらさん』と口にしていたのを覚えている。
一年程前から話に出るようになったその相手。
掛けられた言葉やしてくれたこと、一緒に食事に行った話。
メッセージでの亜里沙の様子は幸せなカップルそのものだったというのに。
「……不倫……だったの……?」
『あの人も、誰も、悪くない』
『あの人と出会えて幸せだった』
文字ではそう書かれているのに、手紙に滲むのは紛れもなく怨嗟。
自死を決意し凪いでいるのだろうその穏やかな文面が、恨みつらみを書き殴られるよりも恐ろしく見えた。
もしかしたら『あきらさん』のことがわかるかもしれない。
そう思って、おばさんに亜里沙の遺品整理を手伝わせてほしいと申し出た。
初めて入った亜里沙の部屋で、私は一瞬目的を忘れて唖然としてしまった。
ひとり暮らしの小さな部屋に、ブランド物のバッグや派手な服、高そうな化粧品が並んでいる。
母子家庭の亜里沙は決して裕福ではなかった。在学中のバイトも卒業してすぐ働き出したのも、家計を助ける為だと言っていたのに。
「あの子、少し前まで派手に遊んでいたらしくて」
お葬式に来ていた年配の女性が教えてくれたのだと、手を動かしたままのおばさんが話し始める。
「会社に迎えに来る男の人がすぐに変わるんだって」
私と会った時はそんなに派手な格好ではなかったけど、目鼻立ちのはっきりした亜里沙がきちんとメイクをすれば、間違いなく美人だろう。
「……あの子。一体どんな生活をしてたのかしらね……」
母親なのに知らないことばかりだと、俯いたままおばさんが独り言のように呟いた。
おばさんと思い出話をしながら、感じた違和感を整理する。
派手に遊んでいたのは『あきらさん』と付き合う前なのかもしれないけど。
亜里沙から大切な人の話を聞いたのは一年前。少し前というには長い気がする。
小さな部屋に似つかわしくないいくつもの高級品。
『あきらさん』のプレゼントなのだろうか。
それとも、別の――。
片付けを手伝いながら『あきらさん』に関する物を探した。
スマホは亜里沙本人に解約されていたそうで、もうどこにあるのかわからない。
プリントした写真も一枚もなく。もちろん手紙やメモもない。
『あきらさん』どころか他の誰の痕跡もない部屋で、ようやく見つけた名刺入れ。
中には亜里沙のものではない名刺が入っている。
何も知らないだろうおばさんに『あきらさん』のことは話していないから。
悪いことだとは思いつつ、こっそりと鞄にしまい込んだ。
一日掛けて片付けを終えて、何度もお礼を言ってくれたおばさんを残して帰路に就く。
いい物も多そうだし、バッグやアクセサリーを持って帰ってと言われたけど断った。
誰からもらったのかわからないものなんて。なんだか気持ち悪い。
あの部屋に住んでいたのは私の知らない亜里沙。
着飾って、綺麗にメイクをして。
男の人に迎えに来られたり、プレゼントを貰ったりしていたのだろうか。
片親で、友達がいない。高校生の亜里沙は私と同じだったのに。
父さんも死んで、彼氏どころか友達もおらず。毎日毎日仕事と家のことをするだけ。
あの部屋の亜里沙の生活は、そんな私の暮らしとは全然違っていたんだろう。
思ったよりも疲れて家に戻ってから。持ってきた名刺を一枚ずつ見ていった。
上司らしき人や、仕事関係だろう人。ホストクラブの紹介カードや手書きで電話番号を書き足された物も混ざっている。
そんな重ねられた名刺の一番下に。
『篠田朗』という名があった。