第4話〈まぁ、これは……腸?ですの?〉
『アルネシア・オンライン』の世界に降り立って三日目。
私、桜ノ宮ミレイは、人生で最も重要な選択の瞬間を迎えていた。
「"解体スキル"の習得試験……ですのね」
基礎解体技能を身につけた私は、意を決してあの黒フードのNPCの元を再び訪れていた。鍛冶屋の裏手、薄暗い作業場で黙々と素材処理を続ける彼の前に立つと、今度は反応があった。
『素材認識:判定中……未処理素材5件確認済』
『味覚判定スキル:評価精度B以上』
『基礎解体技能:習得済み』
『条件達成。ただし、解体スキルは"技術依存スキル"です。適性試験を実施いたします』
フードの奥から響く、重厚な男性の声。その響きには、長年の経験に裏打ちされた職人の威厳があった。
「……承知いたしましたわ」
私は深呼吸をし、スカートの裾をぎゅっと握りしめた。緊張と期待が入り混じった気持ちで、彼の次の言葉を待つ。
『試験内容:対象素材を指定部位で"破損させることなく"分離せよ。制限時間は三分。失敗は二回まで許可する』
作業台の上に、半透明なスライムの検体が用意された。それと同時に、精巧な解体用ナイフが提示される。刃は薄く、まるで外科手術用のメスのよう。
『指定箇所:膜の内層を損傷させることなく、中央の核を完全な状態で取り出せ』
スライムの解剖図が空中に浮かび上がり、取り出すべき部位が赤く点滅している。膜の構造、核の位置、そして最適な切開ラインまでが詳細に表示されていた。
「内層を傷つけずに、核を取り出す……」
私はナイフを手に取り、一度深く息を吸った。
これまでの人生で、私が握ってきたのは紅茶のスプーンやお菓子作りの道具ばかり。ナイフは対象を"断つ"もの。そして今、それは命の線に触れる行為でもある。
覚悟が、必要だった。
「……まずは、お勉強通りに」
私は刃をスライムの表面に当てた。図書館で学んだ理論通り、表皮の一番薄い部分から切開を始める。
しかし――
手が、震えた。
刃が浅すぎて、表皮を切り開くことができない。
『失敗:分離不完全。素材破損率=3%、時間経過=45秒』
「あら……これは、少々緊張しすぎましたわね」
黒フードのNPCが無言で二体目のスライムを用意してくれる。やり直しのチャンスをいただいたのだ。
「今度は、もう少し……大胆に」
二回目の挑戦。今度は刃をしっかりと押し当て、膜を切開する。しかし今度は逆に深く切りすぎてしまい、内層を傷つけてしまった。
『失敗:内層損傷。素材破損率=28%、時間経過=1分20秒』
「うーん……力加減が難しいですわね」
これで失敗は二回。次が最後のチャンス。私は一度ナイフを置き、手のひらを合わせて小さく祈った。
「お菓子作りと同じ、お菓子作りと同じ……」
そう自分に言い聞かせながら、再びナイフを手に取る。
お菓子作りでも、繊細な作業は数多くある。チョコレートテンパリングの温度管理、マカロンの泡立て具合、パイ生地の層作り。どれも、一瞬の油断が失敗につながる。
「これは、踊りですわ」
私は姿勢を正し、バレエのアラベスクのように腕を優雅に伸ばした。
切るのではなく、"触れる"ように。
線を引くのではなく、"なぞる"ように。
ナイフを右手に持ち、左手でスライムを優しく支える。まるでパートナーと踊るような、滑らかで丁寧な動作。
表皮に刃を当て、膜の流れに沿って静かに滑らせる――
その瞬間、不思議な感覚があった。ナイフが、まるで生きているかのように、最適な軌道を教えてくれる。素材の構造が手に伝わってきて、どこをどう切れば良いのかが直感的に分かった。
『……成功:分離率98%、構造保存良好、時間経過=2分15秒。適性認定』
光が弾け、荘厳な音楽と共に通知が現れる。
『スキル「解体Lv.1」習得完了』
その瞬間、世界の見え方が変わった。
周囲の素材――NPCが作業している肉片、街で見かけるモンスター素材、そして私が持っているスライムゼリーまで――すべてが、淡い光を放って見えるようになった。
そして、それぞれの内部構造が透けて見える。どこをどう処理すれば最高品質の素材が得られるのか、まるで設計図のように理解できるようになっていた。
「……これは、まさに芸術の境地ですわ」
私は感動に震えながら、解体したスライムの核を手に取った。未処理の状態では濁っていたゼリーが、今は水晶のように透明で美しい。
『高品質スライム核:調理適性=優良、鮮度=最高、風味=上品な甘み』
味覚判定スキルの表示も、以前とは比べ物にならないほど詳細になっている。
「素晴らしい……これが、本当の"素材"ですのね」
黒フードのNPCが、初めて口を開いた。
『よくやった。君には確かに、この技術を継承する資格がある。だが、これはまだ始まりに過ぎない』
「始まり……ですの?」
『解体技術には、さらなる深奥がある。より高位の素材、より複雑な構造のモンスター、そして――古代の技法まで。君がその道を歩むなら、いつでも指導しよう』
私は深々と頭を下げた。
「ありがとうございます。必ずや、この技術を極めて見せますわ」
それから私は、早速新たに習得した解体スキルを試すため、街の外れの狩場へ向かった。
グリーンスライムを一体だけ慎重に倒し、その場で解体を実行する。
今度は、迷いがなかった。
刃の入れどころが手に取るように分かる。膜の繊維が、まるで道案内をするようにほどけていく。そして現れた内部組織――透明で美しく、まるで宝石のような輝きを放つスライムの核。
「これが……わたくしの、本当の素材」
手のひらの上で光る半透明の組織。その構造美は、まさに自然が作り出した芸術品だった。
そして私は、その中に無限の可能性を見た。
「この透明感……この柔らかさ……適切に加熱すれば崩れることなく、冷却によって形状を保持し……」
頭の中で、様々なレシピが浮かんでは消えていく。
ゼリー、プリン、ムース、テリーヌ……どれも、この素材なら最高級の仕上がりになるはずだ。
「まあ……なんてエキサイティングな展開でしょう」
私は解体した素材を丁寧に保存袋に収め、小さな籠に入れた。明日は、この【アルネペディア】
・解体スキルLv.1:モンスターを倒した後、素材を適切に処理するための基本技能。習得により、未処理素材を調理可能な状態に加工できるようになる。上位レベルでは、より複雑な素材や希少部位の抽出が可能。
・高品質スライム核:解体スキルを用いて適切に抽出されたスライムの中核部位。透明度が高く、上品な甘みを持つ。通常のスライムゼリーよりも調理適性が大幅に向上している。
・技術依存スキル:プレイヤーの実際の技術や理解度が習得・使用に影響するスキル系統。単純なレベルアップでは習得できず、実技試験や師匠の認定が必要となる場合が多い。を使って本格的な料理に挑戦してみよう。
どんな味になるのか、どんな香りを放つのか――それを確かめるのが、今から楽しみで仕方がなかった。
夕陽が海に沈み始める頃、私は満足そうな笑みを浮かべながら街へと戻った。
新たな技術を身につけた今、この仮想世界での料理の可能性は、無限に広がっていくのだった。
【アルネペディア】
・解体スキルLv.1:モンスターを倒した後、素材を適切に処理するための基本技能。習得により、未処理素材を調理可能な状態に加工できるようになる。上位レベルでは、より複雑な素材や希少部位の抽出が可能。
・高品質スライム核:解体スキルを用いて適切に抽出されたスライムの中核部位。透明度が高く、上品な甘みを持つ。通常のスライムゼリーよりも調理適性が大幅に向上している。
・技術依存スキル:プレイヤーの実際の技術や理解度が習得・使用に影響するスキル系統。単純なレベルアップでは習得できず、実技試験や師匠の認定が必要となる場合が多い。