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第1話〈お初にお目にかかります、仮想現実様〉

 

 日曜の午後、私の部屋には静謐せいひつなティーセットの音だけが響いていた。

 銀のポットから注がれる紅茶こうちゃは春摘みダージリン。煮詰まりすぎないよう温度管理にも気を配っている。白磁のカップ、レースのテーブルクロス、アンティークの砂糖壺――すべてが完璧に整えられた、私だけのささやかなサロンだった。


「お姉さま、本当にやってくれるのですのね!」


 妹の可憐かれんが、目を輝かせながら言った。その手には最新型のVRヘッドセット――銀色に光る、近未来的な装置が握られている。

 私、桜ノさくらのみやミレイは、正直なところ困惑していた。


「ええ……そうですわね。せっかく勧めていただきましたもの、仮想現実というものを試してみるのも悪くありませんわ」


 本音を申し上げれば、あまり乗り気ではなかった。ゲームなどというもの、今まで一度たりとも触れたことがない。私の世界には、乗馬にテニス、バレエにピアノ、そして何より――お菓子作りがあった。それで十分だったのだ。


 けれど、昨日の夜、可憐がプレイしていた『アルネシア・オンライン』の紹介動画を目にしたとき――私の中で何かが変わった。


 画面には、討伐されたモンスターがポリゴンの破片となって霧散していく光景が映っていた。その瞬間、私は息を呑んだ。


「まぁ……なんとはかない。あの質感、あのつや……もしや、素材としては相当なものなのではございませんの?」


 さらに動画は続いた。プレイヤーが魚を釣り上げ、野菜を採取し、それらを調理する場面。リアルな食材の描写、湯気の立ち方、焼き色のつき具合――すべてが現実と見紛うほど精巧だった。


「スイーツ素材を、自ら調達できるのですのね……しかも、その場で調理まで可能……」


 もはや、我慢ならなかった。


 ――というわけで、人生初のVRMMOログインと相成ったのである。


 私は深呼吸を一つして、可憐に頷いた。


「それでは、参りましょうか。仮想現実とやらに、ご挨拶に」


「やったぁ! お姉さま、きっと気に入ってくださいますわ! この世界、本当に美しいんですのよ」


 可憐が手慣れた様子でVRヘッドセットを調整し、私の頭にそっとかぶせてくれる。重量は思ったより軽く、フィット感も申し分ない。


「電源を入れますわね。最初は少し眩しく感じるかもしれませんが、すぐに慣れますから」


「ええ、お願いいたします」


 可憐の指がスイッチに触れた瞬間――


 世界が、光に包まれた。


 視界に淡い白光が満ち、ゆっくりと仮想世界が形作られていく。五感が新しい情報で満たされていくような、奇妙に心地よい感覚。現実の部屋の匂いや音が消え、代わりに潮風の香りと波の音が耳に届いてくる。


「……これは……まるで夢の中のようですわね」


 完全に視界が安定すると、目の前には荘厳な光景が広がっていた。


 青い海。白い雲。陽光に煌めく波頭。そして、中世ヨーロッパを思わせる美しい港町が、まるで絵画のように佇んでいる。赤い瓦屋根の建物群、石造りの桟橋、空を舞うカモメたち――すべてが、現実を超えた美しさで輝いていた。


 そして、始まったのは"キャラクターメイキング"なるもの。


 『ようこそ、『アルネシア・オンライン』へ。まずは、あなたの分身となるキャラクターを作成いたします』


 上品な女性の声が、どこからともなく響いた。


「ごきげんよう……」


 私は思わず、空中に向かって軽く会釈をした。


「ずいぶんと、幻想的な種族構成ですのね」


 画面の中央には、見本として表示されるモデルたちが整列していた。これがこの世界での"選択肢"というものらしい。


 最初に現れたのは種族選択画面。ヒューマン、エルフ、ドワーフ、フェルーナ、ノクターン――それぞれに特徴的な外見と能力が表示されている。


「まずは、わたくしの分身を仕立てなくてはなりませんわね」


 操作パネルを指先で撫でるように動かすと、次々と詳細情報が表示されていく。エルフは耳が長すぎて帽子に困りそう。フェルーナは尻尾の手入れが大変そう。ノクターンは夜行性で生活リズムが合わなそう。ドワーフは……少々、体格が私の美意識に合わない。


「消去法でヒューマンを選択いたしますわ」


 すると次に、初期職業の選択画面が現れた。戦士、盗賊、魔術師、僧侶、狩人、拳闘士、召喚士、鍛冶師、そして――


「料理人?」


 私の視線が、一つの職業に吸い寄せられた。


 他の職業がいかにも"冒険者"らしい名前ばかりの中で、唯一、私の心に響く言葉があった。


「まあ……こちらには"パティシエ"や"スイーツ専門職"はございませんの?」


 少々残念に思いながらも、迷うことなく"料理人"を選択する。すると、確認の表示が現れた。


 《初期職:料理人 この職業は戦闘能力が非常に低く、序盤の冒険に制限があります。また、習得可能スキルにも制限があります。それでもよろしいですか?》


「ええ、まったく問題ございませんわ」


 私は迷わず「はい」を選択した。


「わたくし、戦うつもりはございませんので。求めるのは、極上の素材と、極上の味――それだけですの」


 名前入力画面では、迷うことなくこう記した。


 《プレイヤー名:ミレイ=サクラノミヤ》


 続いて外見カスタマイズ。現実の自分と同じ顔立ちを基本とし、髪はやや長めの上品なウェーブに調整。瞳の色は紫水晶アメジストのような、澄んだ紫に設定した。服装は、シンプルながらも品のある白いワンピース。


「なるほど……少々、現実離れした美しさになりましたが、まぁ及第点でございましょう」


 すべての設定を完了すると、最後の確認画面が表示された。


 《設定完了。『アルネシア・オンライン』の世界へ転送いたします》


「では、参りましょうか――新しい世界へ」


 私が「開始」ボタンに触れた瞬間――


 画面が真っ白に染まり、次の瞬間、まばゆい陽光の中、美しい港町に降り立っていた。


「まぁ……なんと美しい……」


 潮風が頬を撫で、海鳥の鳴き声が空に響く。木造の港町は中世の面影を残しつつ、どこか温かみのある雰囲気を醸し出していた。石畳の道、色とりどりの看板、行き交う人々――すべてが現実と見紛うほどリアルで、かつ、現実を超えた美しさを持っていた。


 そして、すぐに気づいた。


 周囲の視線が、私に集中していることを。


「え、なんか新しいプレイヤー降りてきた」

「うわ、めっちゃお嬢様っぽい」

「あの人、絶対『ごきげんよう』って言いそう」

「マジで歩き方が違う。走らない。優雅に歩く」


 当然のことである。私は走らない。それは淑女のたしなみというものだから。


 背筋を自然に伸ばし、スカートの裾を軽く押さえながら、一歩一歩確実に石畳を踏みしめる。その歩みは、まるで舞台の上を歩いているかのよう。


「……さて、まずは情報収集から始めましょう。喫茶店のような、落ち着いて話のできる施設は――」


 私がきょろきょろと辺りを見回していると、 一人のNPCが近づいてきた。


「お嬢様、初めてセラフィア港にいらしたのですね。もしよろしければ、街の案内をいたしましょうか?」


「まあ、ご親切にありがとうございます。それでは、お言葉に甘えさせていただきますわ」


 こうして、私のVRMMO生活が、いささか騒がしく、けれど華やかに始まったのであった。


 遠くから聞こえてくる「本物のお嬢様だ」「RPじゃなくて素じゃね?」という囁き声に、私は小さく微笑んだ。


 ――この世界の"味"を、とくとご賞味させていただきましょう。

【アルネペディア】

・セラフィアせらふぃあこう:ゲーム開始時の拠点となる港町。多くの冒険者が旅立つ場所として知られ、基本的な施設や初心者向けのクエストが充実している。


・料理人:戦闘職ではなく生産系に分類される職業。ゲーム序盤では不遇扱いされがちだが、料理によるステータス強化や状態異常対策など支援性能は高い。素材の入手ルートが限られるため、運用には工夫が必要。

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