「運命の番」が神々の陰謀によるものだったというお話
「『運命の番』が見つかった。人間の平民の娘だ。済まないが……君との婚約は解消させてくれないだろうか?」
伯爵家の典雅な庭園に設えられたガゼボ。一ヶ月ぶりに催された婚約者とのお茶会。そこで告げられたのは、別れの言葉だった。
婚約解消を告げられたのは、子爵令嬢アルクレジア。肩まで届く真っすぐな髪は、鮮やかな翆緑。瞳は深い蒼。落ち着いたその佇まいは、理知的な学者を思わせる。怜悧で可憐な美しい令嬢だった。
婚約解消を告げたのは伯爵子息ペルイード。その髪は燃えるように紅く、それを彩るように黄金の髪が筋のように入っている。瞳の色は美しい碧。その身体はたくましく、身の内からは気品と自信があふれている。高貴さと剛毅さを併せ持つ貴族の青年だった。
二人とも上質な貴族服を纏っており、遠目から見ても高貴な身分の者とわかるだろう。しかし近くで見れば、二人がただの貴族でないことがすぐにわかる。
その肌にはうっすらとした網目模様が浮き出ている。その瞳もよく見れば、瞳孔は細く縦長だ。
二人は人間ではない。竜人と呼ばれる上位種族だ。
その姿だけなら人間とさほど変わらない。竜の名を冠する種族でありながら、角も尾も、牙も爪もない。ただその肌にうっすらと浮かび上がる網目のような模様は、竜鱗と呼ばれる鱗だ。
遠目には普通の人間と変わらないように見える。だが竜人が人間と異なるのはその内に秘めた力だ。
竜人はまず腕力に優れている。オーガすら上回るその膂力は、拳だけで人間の城の城壁を砕くことができるほどだ。
そして全身を覆う竜鱗は、戦闘時に恐るべき防御力を発揮する。人の肌と変わらないしなやかさを見せながら、並の刀剣では傷一つつけることができない。魔法防御力も高く、中級以下のおよそあらゆる魔法を完全に無効化する。上級魔法を受けてもその威力を大幅に減衰する。
その身に宿す魔力も、人間とは比較にならないほど高い。竜人の使う魔法は、ただ一撃で堅固な城を瓦解させる威力があるという。
人間を針に例えるなら、竜人は魔法で強化された両手剣だ。人間とは作りも成り立ちも違う圧倒的に強大な上位種族。それが竜人だ。
竜人は『運命の番』を作るという特殊な習性を持っている。他種族の者を『運命の番』と見初め、深く愛するようになるのだ。『運命の番』に選ばれた他種族の者もまた、その竜人を深く愛するようになる。
他種族と言っても対象となるのは、奉じる神を持ち、知恵と言葉を備えた種族に限られる。人間や獣人族、エルフ、ドワーフなどが対象となる。人型であってもゴブリンやオークといった神を持たない亜人種が対象となることはない。
全ての竜人が『運命の番』を見出すわけではない。幼い頃に『運命の番』を見つける者もいれば、一生出会わない者もいる。
『運命の番』に選ばれる条件もまちまちだ。ただの人間なこともあれば、獣人やエルフといった亜人のこともある。高貴な生まれなこともあれば、ただの平民であることもある。絶世の美形であることもあるし、優れた戦士であることもある。これと言ったとりえのない普通の人間が『運命の番』となることも珍しいことではない。
唯一確定した条件は、「竜人以外の下位種族」ということぐらいだ。
接点も共通点もない竜人と他種族の異性が、ある日突然、出会った瞬間に一生を添い遂げる相手と確信し、ともに愛し合うようになる。それが『運命の番』というものだった。
竜人において『運命の番』は神から授かった祝福とされている。
千年以上昔のこと。竜の神レイドラーネは、三万の竜人を率いて無数の邪神に立ち向かった。戦いが終わり、すべての邪悪が消滅したとき。最後まで戦い抜いた竜人たちは報酬として『運命の番』という祝福を授かった。
竜人はその強さゆえに他種族と交流を持たない孤高の種族だった。だが『運命の番』で他種族と結びつくことで交流ができた。かつて単一種族のみで構成されていた竜人の国は、今ではこの大陸でも有数の多民族国家として栄えている。
俊敏で体力のある獣人無くしては郵便配達は成り立たない。エルフの魔法技術は国の発展を支えている。ドワーフの加工技術は国の重要な基幹産業の一つとなっている。他種族の者は総合的な能力では竜人に大きく劣るものの、それぞれの得意分野で重要な役割を果たしている。
竜人の国は、神の祝福である『運命の番』との婚姻を推奨している。『運命の番』として新たに国民となった他種族の者は、税の優遇措置、王都内の乗合馬車の乗車料金免除、優先的な住居の手配といった手厚い保護を受けることができる。
ひとたび『運命の番』が見つかれば、既に婚約者がいたとしても、原則として婚約は解消となる。それは貴族の婚姻であっても例外ではない。『運命の番』を引き離そうとすれば罪に問われることすらある。
伯爵子息ペルイードのこの婚約解消の申し込みは正当なものだ。まず当人が婚約相手に口頭で告げ、しかる後に両家の当主に話しを通し、正式な手続きを踏むことになる。『運命の番』を優先することは国策であるため、婚約が解消されても両家の関係が悪化することはない。
竜人の貴族の娘として、子爵令嬢アルクレジアも当然そのことをわかっている。それでも言わずにはいられなかった。
「あなたは本当にご納得されているのですか? 神の祝福である『運命の番』とはいえ、もしあなたが不本意なら、力をお貸しします」
『運命の番』は他種族との交流を促す祝福だ。それによって竜人の国は大きく発展してきた。
だが、幸福をもたらすばかりではない。いかに竜人の血が強くても、下位種族と子を成せば力は弱まる。それを何代も重ねてきた竜人は、純血だった頃より力を落としている。
千年前、竜の神と共に邪神たちに挑んだ頃の竜人は、ただの一撃で山を割ったと伝えられている。今でも竜人は強大な種族ではあるが、伝承で伝えられるほどの力はない。
伯爵子息ペルイードはそのことを憂いていた。多民族国家として栄える竜人の国だが、その統治を盤石なものとしているのは竜人の強さだ。『運命の番』という仕組みを認めながらも、貴族はその力を保つためには竜人同士で婚姻を結ぶべきだと言っていた。
ある日、『運命の番』となった竜人と人間の仲睦まじいカップルを見かけた時、ペルイードはこんなことを言っていた。
「人間にも竜人とは違った美しさがあることも理解できる。だが、かわいいネズミがいたとして、そのネズミと子をなそうと思う獅子がいるだろうか? 竜人と人間とでは、獅子とネズミほどに力の差がある。『運命の番』になったからと言って、人間を深く愛することなど……私にはどうにも可能なことだと思えないんだ」
『運命の番』を推奨する国の方針に逆らう発言だ。それがわかっているのか、ペルイードも他の者には聞かないよう小声でのつぶやきだった。
ペルイードは何も人間を見下しているわけではない。ただ竜人の貴族としての自負が少々強すぎるのだ。
そんなペルイードが『運命の番』を見つけたことで、人間の、それも平民の娘と結婚することになってしまった。自分の考えを曲げることになり、彼は苦しんでいるのかもしれない。それならその苦しみを無くしてあげたいと、アルクレジアは思ったのだ。
『運命の番』は国が推奨している祝福だ。しかしペルイードはまだ周囲に公表してはいないようだ。それならば家の力で『運命の番』を見出したことを無かったことにすることも不可能ではないかもしれない。
だが、ペルイードは首を横に振った。
「君に力を貸してもらう必要はない。もちろん納得していることだ。なぜなら私は心の底から『運命の番』を愛しているのだ」
ペルイードは迷いなく言い切った。
その瞳を見て、彼の言葉が偽りでないことをアルクレジアに確信した。
三年ほど前のある夜のこと。屋敷のテラス。月の光の下、二人で語り合った時。彼は燃えるように熱い瞳ででアルクレジアのことを見つめてくれた。あの時と同じ目をしている。それなのに、そしてその愛情の行き先が自分でないことが、アルクレジアにははっきりとわかってしまったのだ。
「かつての私は考えが足りなかった。あまりにも浅慮が過ぎた。竜人を強くするのは血筋ではない。腕力や魔力ではなく、人を愛する気持ちなんだ。我が国はこんなにも発展しているのは、そうしてできた他種族との絆なのだ」
語るうちにペルイードの言葉にはどんどんと熱が高まっていった。
自分以外の異性に向けられる情熱を目にし、アルクレジアは胸が締めつけられるような痛みを覚えた。
「共に過ごした日々は楽しかった。君への愛はまだこの胸の中にある。だが君は気高く強い竜人だ。私がいなくてもやっていけるだろう。しかし、我が『運命の番』はただの人間なんだ。この世の様々な不幸から守ってやれるのは私だけなんだ。だからどうか、婚約解消を受け入れてはくれないだろうか?」
ペルイードがまっすぐに目を向けてくる。澄んだ碧の瞳が好きだった。この瞳と見つめ合うと、温かな気持ちになって胸がいっぱいになった。
でも今、彼の視線は胸の中にできた穴を広げるばかりだった。アルクレジアの恋は、終わってしまったのだ。
「……はい、承知しました」
アルクレジアは婚約解消の申し出を受け入れた。
ペルイードのことを愛している。だからこそ、愛した人の幸せを願うなら、婚約解消を受け入れる以外の選択肢はなかった。
婚約解消から一か月ほどが過ぎた。婚約解消に関わる手続きは既に終わり、今日は早くもペルイードと『運命の番』との結婚式が執り行われている。婚約解消から結婚式まで一か月と短いが、珍しいことではない。国が推奨している『運命の番』の婚姻の手続きは迅速に処理されるのだ。
アルクレジアは今、子爵邸にある自分用の書斎にいた。結婚式にはアルクレジアの両親が出席している。婚約解消された家の当主が結婚式に出席するのは一般的だ。婚約解消は円満に行われ、両家の縁は保たれていることを周囲に示す必要があるためだ。
アルクレジア自身にも招待状が届いていたが、とても出席する気にはなれなかった。
アルクレジアは一人、書斎机について物思いに耽っている。
机の上には分厚いノートが置かれている。一か月前に行ってきた調査旅行の調査結果をまとめたものだ。
彼女は考古学の研究者だ。千年前、『運命の番』という祝福がもたらされる前の竜人について研究している。
当時の竜人は竜の神に率いられて無数の邪神と戦っていた。千年前の竜人の過去の歴史とは、すなわち戦いの記録だ。
かつての竜人は地を裂き海を割るほどの力を持っていたという。これが誇張ではないことを、考古学を学ぶアルクレジアは知っている。
遺跡からは千年前の竜人たちが使っていた武器が見つかることが多い。大魔力での運用を前提としたその武器を稼働させるには、竜人3人が必要となる。しかし記録によれば、そうした武器は千年前の竜人が一人で扱う『一般兵装』に過ぎないのだ。それだけでも千年前の竜人たちの強さがうかがえる。
ペルイードは幼いころから竜人の強さに誇りを持っていた。千年前の竜人たちの活躍を描いた絵本を目を輝かせて読んでいた。そんな彼に気に入られたくて千年前の竜人たちについて調べるようになった。その過程で考古学の面白さに気づき、専攻するようになった。
前回のお茶会でも、ペルイードに調査結果を報告するつもりだった。いつものように喜んでくれただろう。彼の笑顔を見たかった。
だが、『運命の番』が現れたことにより、その機会は失われてしまった。
『運命の番』は神からもたらされた祝福だ。彼が『運命の番』と出会えたことを受け入れなくてはならない。祝わなければならない。頭ではわかっている。でも気持ちが沈みこんでいくのを止められなかった。
それにしてもペルイードの変わりっぷりには驚かされた。彼は常日頃から竜人は強くあるべきと言っていた。竜人の歴史に興味があったのも、千年前の竜人が今よりはるかに強かったからだ。
ペルイードは理性的な人間だった。彼の「竜人は強くあるべき」という考えは、力ある種族の傲慢さから出たものではない。千年前の竜人の強さを知るからこそ、少しでも力を取り戻すべきだという危機感から生まれたものだ。
しかし『運命の番』を見つけたとたん、「愛する気持ちこそが大事」という精神論に走ってしまった。言っていること自体は間違ってはいない。でも、かつての彼なら決して口にしなかったことだ。アルクレジアは、そこに言い知れない違和感を覚えた。
思い返す度にため息が出る。気分を変えようと紅茶を口にする。上品な香りに落ち着きを覚える。
『運命の番』によって他種族を受け入れてきた竜人は、確かに生物としては弱くなった。だがただ退化したというわけでもない。
例えばこの紅茶も他種族からもたらされた物の一つだ。かつての竜人の一般的な飲み物は『ブルージール』と呼ばれる薬草茶だった。どろりとした舌触りにひどく青臭い匂いの、嗜好品というより薬と言った方が適切な代物だ。実際、極めて高い滋養強壮の効能がある。
竜人は長らく戦争をしておらず、紅茶が広まったことにより『ブルージール』を飲む機会はほとんどなくなった。今では成人の儀など、特定の儀礼で口にさせられるような飲み物だ。
かつての竜人は戦闘に特化していた。過去の記録は戦闘の記録ばかり。遺跡から出土されるのは武器や防具と言った戦闘に関する物ばかりだ。いくら旧跡を調べようと、彫刻も絵画も音楽も出てこない。壁画が見つかることもあるが、描かれているのは戦略を練るための周辺地域の地図か、竜の神を奉じる宗教画くらいなものだ。
かつての竜人は完全な狩猟民族で、食料は全て狩りで調達していたようだ。農耕はまったくしてなかったらしく、その痕跡すら見つかったことはない。
今では画家や音楽家の竜人も珍しくない。多くの種族を受けれてきた竜人の文化は実に多様にして質が高く、周辺諸国からも認められつつある。
確かに竜人は生き物としては弱くなった。しかし国は発展し、その文化はかつてない高みにある。竜人と言う種族は、総合的に考えれば強くなったと言えるだろう。
神の祝福によってもたらされた『運命の番』という転換点。それが考古学を研究する上で常に重要なことだった。学会では日々様々な議論がなされている。
これまでアルクレジアは、婚約者ペルイードに喜んでほしくて戦いの歴史ばかりを調べてきた。だが婚約解消によって、その目的を失ってしまった。
それなら別な視点で研究をしてみるのもいいかもしれない。書斎に閉じこもって考え事をするばかりでは気が滅入るばかりだ。一度きちんと『運命の番』について見つめ直せば、気持ちに区切りがつけられるかもしれない。
アルクレジアはそう考えると、『運命の番』の研究に乗り出した。
竜人の国ドゥールガノアで『運命の番』について調べるときに注意しなければならないのは、その原理を魔法的に解析することは固く禁じられているということだ。神の祝福を解明するのは大変な冒涜行為となる。この禁忌を犯した者は厳罰を科されることもあるのだ。
だがそこに気をつけさえすれば、『運命の番』について調べるのは、実に簡単なことだ。
竜人の国ドゥールガノアは『運命の番』に関しての教育を勧めている。竜人は幼いころから『運命の番』については教わり、まだ見ぬ生涯の伴侶を夢見るものなのだ。
『運命の番』を見つけた者は特別な事情がない限り広報誌に名前が公表され、周囲から祝福される。『運命の番』と結びついた者たちについて知りたいのなら、王都の図書館にでも行けばいくらでも情報を集められる。
アルクレジアはこうした簡単に調べられる情報ではなく、少し視点を変えた調査を考えた。『運命の番』で結びついた当人の情報を集めるのではなく、周囲の人間がどう受け取ったかということを調べようと思ったのだ。
元婚約者ペルイードの変わりぶりには驚かされた。同じような経験をした人間はどのようにしているのか知れば、自分の中でわだかまる悲しみをどうにかできるのではないかと考えたのだ。
伝手を頼り、あるいは自分で実際に聞きに行き、様々な情報を集めた。
予想より苦労はしなかった。竜人の国ドゥールガノアでは『運命の番』による幸せは皆で分かち合うべきだという考えが浸透している。研究のためと言えば誰もが簡単に話を聞かせてくれた。短期間で傾向を探るのに十分な情報が集まった。
『運命の番』で結びついた当人は、誰を調べても結論は一つ。「二人は幸せになりました」、だ。深く愛し合う二人が国の優遇政策を受けて安定した生活を送るのだからそれも当然のことではある。
周囲の人間の反応を調べると、何かしら違いがあるのではないかと思った。
様々な意見が集まったが、結局のところ一つの結論にまとまった。
――『運命の番』を見つけた竜人は、以前とは人が変わったかのようだ。
内向的な性格だった男が社交的になった。強気な性格の女性が丸くなった。女遊びに現を抜かしていた男が夜の外出を控えるようになった。たった一人の婚約者にしか笑顔見せなかった女性が誰にでも微笑みかけるようになった。肉料理を好んでいた美食家が野菜料理ばかり食べるようになった。婚約者の人物画ばかり書いていた画家が風景画に転向した。略奪愛ものを得意としていた小説家が純愛ものばかりを書くようになった、などなど。
『運命の番』を見つけた竜人の変化の内容は様々だったが、最後にはみな、「以前とは人が変わったかのようだ」という言葉が付け加えられた。
好きな人ができれば人は変わるものだ。服装を相手の好みに合わせたり、相手の趣味を自分も始めたりする。そうすれば「人が変わった」という評価を受けることになる。
アルクレジア自身も、婚約者に喜んでほしくて考古学の道を歩んだ。
それを踏まえて考えても、『運命の番』を見つけた者の変化は実に急激かつ極端なものだった。だからみな、「人が変わったようだ」という印象を抱くのだ。
だが、それも当然なのかもしれない。神の祝福によって選ばれた『運命の番』が現れたのなら、相手のために熱心になることだろう。周囲からは人が変わったように見えるに違いない。
アルクレジアはの胸の中にはまだ元婚約者ペルイードへの想いが残っている。彼があんなにも変わってしまったことに何か特別な理由があるのなら、何かしたいと思っていた。
だが、その必要はなかった。ペルイードがあんなにも変わってしまったのは、別に異常なことではなく、誰にでも起こりうる当たり前のことだったのだ。
だから、もう思い悩む必要はない。アルクレジアは自分の中でそう結論づけた。
そうしてアルクレジアは再び千年前の竜人の歴史に関する研究に戻った。元婚約者ペルイードに喜んでもらうきっかけで始めた研究だが、これまで続けられたのはそれだけではない。積み重ねた実績も、過去を知る楽しさも、かけがえのないものだった。
研究に没頭し、失恋の痛みも少しは癒えた頃。アルクレジアの元に学生時代の恩師の訃報が届いた。
アルクレジアの恩師、デューブラルト教授は考古学の権威だった。その名は国内にとどまらず、他国でも名を知られる優秀な学者だった。落ち着いた物腰に謹厳実直な人柄でありながら、年齢に見合わぬ若々しい奇抜な発想で様々な発見をしてきた。
葬式は高位貴族や各界の著名人が参席する盛大なものだった。
死因は心臓発作だそうだ。竜人は強靭な種族だが、それでも病気で命を落とすことはある。心臓が止まれば、いくら強くても死は免れない。
葬式を終えた後、アルクレジアは遺産の形見分けを手伝った。教授の所有する資料は膨大であり、価値の高い物も多い。教授は生前、自分の所有する物が学問の発展の助けとなることを望んでいた。そのためには専門の研究者による検分が必要だった。アルクレジアも教授に師事していた関係でそれに参加させてもらった。
アルクレジアは遺族から許可を取り、自宅に二十冊に及ぶ本を持ち帰った。教授の書斎の奥に隠されていたこの本は、デューブラルト教授の極めて個人的な研究な記録であり、生前からアルクレジアに任されたものだ。記録と言うが、これは実は交換日記だ。
デューブラルト教授と、彼の中にいるもう一つの人格との交換日記なのだ。
デューブラルト教授は一つの身体に二つの魂を宿す稀有な竜人だった。もう一つの人格の名はパルメナート。パルメナートは時折、デューブラルト教授の身体を借りて行動した。彼が表に現れるのは一か月に二~三日程度の時間だったらしい。
活動期間が少ないためか、パルメナートはいつまでも若々しかった。デューブラルト教授が若者のような斬新奇抜な発想でいくつも発見をしてきたのは、実はパルメナートの協力によるものなのだ。デューブラルト教授の研究者としての立場は、二つの人格によって築き上げられたものだった。
このことを知る者はデューブラルト教授の家族や特定の人物に限られている。この竜人の国ドゥールガノアの国教は一つの身体に二つの魂が宿ることは認めていない。もし知られれば、教会はパルメナートの魂を天に送ろうとするだろう。デューブラルト教授はパルメナートのことを大切に思っており、だから秘密にしていたのだ。
どうしてパルメナートのことを知ったかと言えば、彼の方から話しかけてきたのだ。当時のアルクレジアは学生の身でありながら積極的に千年前の竜人の旧跡に赴き精力的な活動をしていた。それに興味を持ったパルメナートが声をかけてきたのである。
謹厳実直で知られる教授から気さくな態度で声をかけられて、アルクレジアは面食らったものである。
後日、デューブラルト教授から事情を聞いた。パルメナートはアルクレジアの熱心な姿勢を気に入り、これからも考古学について語り合うことを望んでいるらしい。だからアルクレジアに秘密を明かしたのだ。アルクレジアとしても恩師からの頼みであるし、奇抜な発想を持つパルメナートとの会話はいい刺激になったので、喜んで受け入れた。
デューブラルト教授は生前から自分の死後のことを心配していた。教授は死んだら墓が残る。その死を悼む人は多いだろう。だが、存在を秘されたパルメナートの名は墓碑に刻むのも難しい。
自分の命が尽きればパルメナートの存在した証は何一つ残らない。それが不憫でならない。だから、彼との研究を記録した交換日記を残して欲しい。できれば、何らかの形で世に出して欲しい――教授からそう頼まれていたのである。
アルクレジアさっそく交換日記に目を通し始めた。読み始めると実に興味深い研究資料であることが分かった。
パルメナートが奇抜な発想を提案し、デューブラルト教授が堅実かつ丁寧にその発想の実現性を調査・検討して報告する。パルメナートの奇抜な発想力もデューブラルト教授の堅実な研究も、どちらも卓越している。時に挫折することもある。しかしお互いに励まし合って研究を続けていく。二人は対等の研究者だった。互いに深く信頼し合っていることが伝わった。
アルクレジアとしては専用の書庫を建てて交換日記を保管し、それをパルメナートの墓とするつもりだった。しかしこれほど興味深い研究記録を死蔵するなんて許されないと思った。この交換日記は出版に値する貴重な研究資料だった。
パルメナートの存在を明かすわけにはいかないが、それでもやりようはある。例えば、デューブラルト教授の研究には匿名希望の協力者がいたということにすればいい。この交換日記を世に出すことは教授も望んでいた。パルメナートの存在した証が多くの研究者に希望を与えるのなら、教授も喜んでくれるに違いない。もちろん遺族の意志をきちんと確認しなければならない。
アルクレジアはそんなことを考えながら交換日記を読み進めた。
そして最後の一冊で、思いもかけない一文を目にした。パルメナートの書いたものだ。
「ああ、なんて素晴らしい! これまでの研究が色あせるほどの大発見だ! 僕は『運命の番』を見つけた!」
一瞬、理解できなかった。まずこれは研究の意見交換のための交換日記だ。これまでは専門用語を交えた固い文章が綴られていた。そこで『運命の番』を見つけたなどと、感情むき出しの言葉が出てくるなんて予想していなかったのだ。
それに『運命の番』を見つけるのは原則として若いうちだけだ。既に老境の域にあったデューブラルト教授が『運命の番』を見つけるなど、通常は起こり得ないはずだった。
しかし、アルクレジアは気づいた。教授のもう一つの人格パルメナートは月に2~3日しか活動しない。いつまでも若い青年のままだったのだ。
そこから先は研究記録ではなくなってしまった。『運命の番』と添い遂げることを熱望するパルメナートと、それをなだめるデューブラルト教授のやりとりとなった。
教授は相当困っているようだった。それも当然だ。デューブラルト教授は既に孫を持つ老人だ。他国にも名を知られるほど有名な研究者でもある。それが若い異種族の娘を『運命の番』として迎え入れるなど許されることでない。
アルクレジアの知るパルメナートは、その発想こそ奇抜だったが、理性的な現実主義者だった。しかし『運命の番』を見つけた以降は情熱的な理想主義者だった。教授の理論立った説得に対し、ただ感情ばかりをぶつける様は、とても同じ竜人とは思えない。まるで人が変わってしまったかのようだった。
そしてついに、二人は致命的な決裂を迎えた。
交換日記の最後のページは、デューブラルト教授の言葉で終わっていた。
ああ、なんてことだ! 『運命の番』というのは、ここまで人を愚かにするものなのか!
パルメナートはもう研究者ではなくなってしまった。愛に溺れた愚か者となってしまった。
彼がとりよせた研究資材を、私が把握しないとでも思ったのか? その中の薬剤のいくつかを組み合わせれば、竜人の心臓を止める毒薬ができることを、この私が気づかないわけがない。あんなにも聡明だった彼が、こんなミスを犯すなんて信じられない。
妻も子供も、孫までいるのに『運命の番』と添い遂げられるわけがない……そういい聞かせてきたのがいけなかったのか。だからと言って、まさか殺して排除しようとするなんて……! かつての彼なら、そんな短絡的な考えに至ることなどなかったはずだ。
誰よりも信頼していた共同研究者はいなくなってしまった。自分の中にいるのはパルメナートじゃない。おぞましい異物だ。
もうこんなことには耐えられない。終わりにしよう。さようなら、パルメナート。君のことを愛していた。だが、今の君を愛することなど……到底できない。
交換日記はそこで終わっていた。
心臓を止める毒薬。デューブラルト教授の死因は心臓麻痺だった。
そこから導き出される結論は明白だ。デューブラルト教授は、『運命の番』を見つけて恋に狂ったパルメナートを止めるために、自ら命を断ったのだ。それも、パルメナートが用意した毒物を使って。
「こんな、こんなことって……!」
アルクレジアは吐き気を覚え、口元を押さえた。全身から汗が噴き出た。身体の震えが止まらなかった。
『運命の番』が見つかり、「人が変わってしまったようだ」と言われるほどの変化があるのは知っていた。恋をしたから変わるのかと思った。
だが、これは違う。違いすぎる。
婚約者だった頃のペルイードの言葉が思い起こされる。
「かわいいネズミがいたとして、そのネズミと子をなそうと思う獅子がいるだろうか?」
そんな獅子はいない。それでも無理矢理実現しようというのなら……獅子をそういうふうに作り替えてしまうしかない。
そんなことは竜人の魔法でも無理だろう。だが神の奇跡ならなせるはずだ。獅子の意識をネズミを愛するように作り替える。
恋をして変わるのではない。変わることで愛するようになる。『運命の番』を見つけるとは、そういうことなのだ。
「これが……こんなものが、祝福だと言うのですか……!?」
天井を見上げて思わず問いかけた。
天におわずはずの神は、この問いに答えてくれはしなかった。
あれからしばらく時間が過ぎた。
書斎の机に着き、ようやく少しは落ち着きを取り戻したアルクレジアは、これからどうするべきかを考えた。
研究者としての理性は、この交換日記を世に出すべきだと主張している。最後の一冊を除けば素晴らしい研究記録だ。文化の発展に寄与する極めて価値の高い資料だ。
最後の一冊は封印して永久に読めなくするか……あるいはいっそ、燃やしてしまった方がいいかもしれない。
遺族にも知らせない方がいいだろう。デューブラルト教授の苦悩に満ちた最後については胸にしまっておけばいい。
結論は出たが、それでも気持ちの整理が上手くできなかった。
ふと窓の外を見れば、夜もだいぶ更けてきた。ここ数日は交換日記の精査に没頭するあまり、昼夜の感覚が狂っていたせいか、気づかなかった。ひどく疲れていたが、眠気はまるでない。
それでも睡眠をとるべきだと思った。疲弊した状態ではろくな考えが浮かばない。研究のために徹夜を続けてしまい、つまらない失敗したことはこれまで何度もあった。
そういう時のために、睡眠薬を常備してある。アルクレジアは寝間着に着替え、睡眠薬を飲むとベッドに入った。
こういう時は薬が効き始めるまでなかなか眠れないものだが、この日はさいわい、すぐに意識が遠のいた。
気が付くとアルクレジアは見知らぬ場所にいた。
どこまでも続く石畳。周囲は薄暗く、遠くは見通せないが、周囲には石畳以外何も見えない。
暑くも寒くもない。ただ静かで、ひたすらに寂しさを感じさせる場所だった。
確かに自室のベッドで眠りについたはずだ。睡眠薬を服用したこともはっきりと覚えている。だとすると、夢を見ているのだろうか。それにしては妙に頭がはっきりしているし、夢とは思えない現実感があった。
「よく来てくれた」
突然、後ろから澄んだ声がした。
振り返ると数十メートル離れた先に竜人がいた。二本の角が生えている。プラチナブロンドの美しい髪。首から下は銀色のゆったりしたローブに包まれて、裾から出ているのは右手首だけだ。腰のあたりから伸びているのはどうやら尾のようだ。
角も尾も今の竜人にはないものだ。それらが千年前の竜人が備えていたものだと、考古学を学ぶアルクレジアはよく知っていた。
「もう少し近くに来てくれまいか?」
見知らぬ場所。千年前の姿かたちをした竜人。近づいていいのかも判断がつかない。
そう考えながらも、気がつくとその竜人に向かって歩き出していた。なぜかその言葉に「従わなくてはならない」と思った。
近づくにつれ、アルクレジアは自分の抱いていた印象が間違っていることに気づいた。
その竜人が纏っていたのはローブではない。銀色の鎖だった。
糸のように細い鎖。縄のように太い鎖。様々な鎖が執拗なまでにその竜人の身体に巻き付き垂れ下がっていた。それなのに、その竜人は鎖の重さなど感じないかのように凛として立っている。その姿があまりに堂々としているので、ローブを着ているのだと錯覚したのだ。
近づくとその竜人の姿がよく分かった。その顔立ちは一流の芸術家が命を削り彫り上げた彫刻のように整っている。凛と輝く金色の瞳はまるで太陽のように眩い。額から伸びる角は、長い年月を重ねた古木のような威厳と、名工の手掛けた装飾品のような繊細な美しさを合わせ持っていた。
例えようもないほど美しい、女性の竜人だった。
千年前の竜人。それも、ただの竜人ではない。そう思った瞬間、アルクレジアは跪いていた。そうすることが何よりも正しいことだと、心の奥底が叫んでいた。
目の前の竜人は、鷹揚な笑みを浮かべながら声を発した。
「このような縛られた姿を前に、そうかしこまることはない」
「あ、あなた様はいったい……?」
「我は竜の神レイドラーネだ」
その言葉にアルクレジアは驚愕すると同時に納得した。
竜の神レイドラーネ。千年以上昔、三万の竜人を率いて無数の邪神を打ち倒した神だ。竜人すべてが奉じる最高神だ。
この美しさ、この神々しさ、この威厳。いずれをとっても竜の神が備えるにふさわしいものだった。
その姿を直視することすら畏れ多くて、アルクレジアは首を垂れた。
「だからそうかしこまることはない。面を上げよ」
そう言われては顔を伏せているわけにもいかない。アルクレジアはおそるおそる顔を上げた。
改めて、竜の神レイドラーネは神々しい姿をしていた。
だが違和感があった。なぜこんなにも大量の鎖を巻き付けているのだろう。
千年前の竜人に関する調査で竜の神レイドラーネを描いた壁画を見てきた。壁画には勇壮な鎧をまとった戦に赴く姿が描かれることが多かった。
鎖を服として纏うなどという伝承なんて聞いたこともない。石畳しか見えないこの場所。鎖に巻きつかれた姿。凛とした立ち姿のせいで思いつかなかったが、状況だけを見ればまるで収監された囚人のようだ。
「なぜあなた様がそのようなお姿に……あなた様は、邪神を打ち倒した後は、天上の世界からわたしたち竜人を見守っているはずでは?」
思わず口からこぼれた問いに対し、竜の神レイドラーネはゆっくりと首を横に振ると、きっぱりと言った。
「それは『百神連合』の欺瞞だ。真実ではない」
『百神連合』。千年前の竜人について研究してきたアルクレジアだが、初めて聞く呼称だった。竜の神レイドラーネが敵対したという邪神のことだろうか。それならばなぜ、現在その名が伝わっていないのか。アルクレジアは困惑に頭を悩ませた。
「そなたは『運命の番』に疑問を抱いたな?」
突然そんなことを問いかけられた。
確かにアルクレジアは『運命の番』に疑問を抱いた。婚約者を失い、デューブラルト教授の最後を知り、祝福ではないと疑問を抱いた。
『運命の番』に疑いを抱くなど、竜人の国ドゥールガノアにおける禁忌だ。竜の神がそれを許すはずもない。そんなことに今さら気づいた。
「も、申し訳ありません!」
「謝ることはない。そなたを責めるつもりはないのだ。むしろ称賛を贈りたい」
「しょ、賞賛ですって……?」
「ああそうだ。我はそなたのように、『運命の番』に疑問を抱く者の夢に現れ、真実を伝えることにしているのだ。竜人の歪んだ現状を正し、あるべき世界に戻すために。そのために、そなたには真実の神話を教えてやろう」
どうやらこの状況は夢の中で、竜の神レイドラーネは、その神力で現れたらしい。
そうして、竜の神レイドラーネは、この世界の成り立ちについて語り始めた。
まだこの世界に大地の一つもなく、海しかなかった遠い昔。この世界は『千神世界』と呼ばれていた。この世界には千柱もの神がいたため、そう呼ばれたのだ。
神は自らの力で大地を作り、眷族を生み出し、世界を少しずつ作り上げていった。
この世界にはひとつの伝説があった。千の神が死に絶え、最後の一柱となったとき。最後の神は、あらゆることをかなえる万能の力をだた一度だけ使える。最後の神が世界の形を決めることで、この世界は完成するというものだ。
しかし、神々が争うことはなかった。どの神も自分の大地を作り眷族を育てるのに忙しかった。またこの世界にはあまりにも神が多すぎる。下手に争いを起こせば他の多くの神を敵に回すこともありうる。神の強さは様々だった。だが、いかに強大な神であろうと、千もの神々全てを相手取ることなど不可能だった。
危うい均衡の元、『千神世界』の平和は保たれていた。
竜の神レイドラーネは千の神々の中でも最強の一角と目されていた。彼女は最も強き種であるドラゴンを生み出し、広い大地を支配していた。
そんな竜の神レイドラーネが、人の神アルアフォートと通じ合うようになった。
人の神アルアフォートは力は弱く治める大地もさほど広くはなかった。しかし賢く、柔軟に物事を考えることができた。千の神々の中でもっとも感情豊かで、誰よりも深い愛情を持っていた。
竜の神レイドラーネは女神。人の神アルアフォートは男神だった。二柱の神はお互いに愛し合うようになった。そして力を合わせて大地を作り上げることにした。
周囲の神はこれを脅威ととらえた。竜の神レイドラーネは極めて強力な神だ。これに人の神の知恵が加えれば、もはやどの神も対抗できなくなる。
竜の神レイドラーネは容易に倒すことはできない。だから人の神アルアフォートが狙われた。複数の神々からの巧みな奸計に翻弄され、人の神アルアフォートは滅ぼされた。
竜の神レイドラーネは激怒した。彼女は人の神アルアフォートから神力の一部を受け継ぐと、新たな種族「竜人」を作り出した。竜人はドラゴンと同等以上の力を持ちながら、人間の賢さでより巧みに力を使いこなす。竜人一人一人の力は神に遠く及ばない。それでも神に傷を与えるだけの力はあった。また、ドラゴンは寿命が長く子供も少ないが、竜人は人間並の寿命の短さの代わりに人間と同等の繁殖力を有していた。
竜の神レイドラーネは竜人三万人を配下とした。更に権能『原点たる者の絶対指揮』を発現した。それは竜人を意のままに支配し自在に指揮するという権能だった。
そして、竜の神レイドラーネは復讐の戦いを仕掛けた。
最強の竜の神が、一糸乱れることなく手足のように自在に動く三万の竜人を率いて戦う。それはあまりに圧倒的だった。復讐の対象となった神々は、ろくな抵抗もできぬままあっという間に攻め滅ぼされた。
しかし戦いはそこで終わりではなかった。『千神世界』はぎりぎりのところで平穏を保っていた。竜の神レイドラーネの戦いをきっかけに、その均衡は破られた。
最後の一柱になる野望のため。あるいは自らの眷族を守るため。ただ力を示すため。あるいはただの好き嫌いや、眷族の相性の良し悪しまでもが争いの理由となった。
もともと火種は無数にあった。一度燃え始めた火はとどまることなく広がり、世界を焼き尽くすほどの業火と化した。
世界全土でいつ終わるとも知れない大戦争が始まったのだ。
そんな中、竜の神レイドラーネは常に最強だった。神々の戦いで命を落とす竜人は少なくなかったが、配下の竜人は常に三万を保っていた。竜人は人間と同等の繁殖力を持っている。それによって竜人レイドラーネは戦力を保つことができたのである。
竜の神レイドラーネは人間だけは争いに参加させず、ドラゴンと竜人に守らせた。戦乱の中、それができるだけの余裕すらあったのだ。
神々のいつ果てるともしれない戦いは、しかし、数千年の時を経てついに最終局面を迎えた。
残った勢力は2つ。
一つは三万の竜人を率いる竜の神レイドラーネ。
もう一つは『百神連合』。
『百神連合』は戦う力はさほどではないが、智謀に長けた百の神々が秘密裏に結成した連合だ。彼らはその存在をほとんど知られることなく、戦乱吹き荒れる『千神世界』でなんとか生き延びてきた。
だがそれも終わりの時が来た。主要な勢力は竜の神レイドラーネに攻め滅ぼされ、『百神連合』は身を隠す術を失った。
『百神連合』に対し、竜の神レイドラーネは正面からの決戦を挑んだ。『百神連合』はいくつもの罠を仕掛けその進行を阻もうとしたが、最強の神の軍勢を止めることはできなかった。たちまち深く攻め入られ、半数近くの神が討ち取られた。
もはや勝敗が決したと思われたとき。『百神連合』の最後の罠が発動した。
討ち取られた神の命を贄として、残った神が持てる神力を注ぎこんだ封印の術。最強の神と言えど、ここまでの神力を注ぎこまれた封印の術に抗うことはできなかった。
こうして竜の神レイドラーネは封印され、長きに渡る神々の戦いはひとまず終わったのである。
「そんなことがあったのですか……」
竜の神レイドラーネの語るかつてのこの世界のあらましを聞き、アルクレジアは感嘆の息を吐いた。考古学に詳しいアルクレジアであっても知らない事ばかりだった。
だがそれはこれまでの研究を裏付ける物でもあった。千年前の竜人に関して戦いの記録しか見つからなかったのは、彼らが長きに渡る戦乱に身を置いていたからなのだ。
「では……過去の文献であなた様が倒した邪神と言うのは、千の神々だったのですか?」
「ああそうだ。我からすれば敵対した神は、邪神でしかない」
戦いに勝った神が、敵対した神をその善悪に関わらず邪神と定めるのは珍しいことではない。それ自体は不思議なことではない。
不思議なのは、竜の神レイドラーネが語って聞かせた最後の戦いについての記述は見つかってないことだ。その戦いの終焉については様々な学説が提唱されていたが、決定的なものはなかった。
そもそも今の竜人には『百神連合』の名前すら伝わっていない。千年以上前のこととは言え、これは奇妙なことだった。
「そなたが疑問に思うのも無理はない。今の世に知られる歴史は『百神連合』の作り上げた欺瞞なのだ」
竜の神レイドラーネはアルクレジアの疑問を読み取ったかのように言った。その表情を陰りがある。瞳の奥に恨みの炎が燃えていた。
「やつらは死力を振り絞り、我を封印した。だが最後の決戦で多くの同胞を失い、生き残った神も封印にほとんどの力を使い果たした。竜人たちを滅ぼすだけの力はなかった。本来なら『百神連合』の残党ごとき、我が竜人の精兵たちなら攻め滅ぼすこともできだろう」
アルクレジアはこれまで千年前の竜人について研究してきた。その力のすさまじさもよく知っている。たとえ相手が神だろうと、疲弊した状態だと言うのなら、攻め滅ぼすこともできたのだろう。
しかしそうはならなかった。竜人が勝っていたのなら、竜の神レイドラーネが封印されたままであるはずがない。
「だから『百神連合』は竜人を時間をかけて滅ぼすことにしたのだ。我が権能『原点たる者の絶対指揮』を悪用し、竜人たちに誤った歴史を植え付け、『運命の番』という呪いをかけたのだ」
「呪い……あれはやはり、呪いだったのですね……」
アルクレジアの脳裏にデューブラルト教授の交換日記の言葉がよぎった。
――『運命の番』というのは、ここまで人を愚かにするものなのか!
呪いだと言うのなら、むしろ納得がいくことだった。
「ああ、呪いだ。やつらは竜人を滅ぼす力は残っていなかった。だから種族自体を弱体化させるために、他種族と交わらせる呪いをかけたのだ」
「弱体化、ですって?」
「神に対抗すべく作り上げられた竜人と言えど、下賤な他種族の血と交われば力を失うことは免れない。そなたたちはもう角も尾も失った。膂力も魔力も我の配下であった頃より相当弱まったことだろう。それこそが、やつらの狙いだったのだ」
告げられた真実の無惨さにアルクレジアは言葉を失った。しかしこのことは薄々はわかっていたことではあった。
竜人は『運命の番』という仕組みによって他種族と交わるようになった。他国との交流は盛んになり、文明的には発展してきた。だがその成長と反比例するように戦う強さを失っていった。
『運命の番』は、戦いに明け暮れた竜人に対し、平和な世界で安心して暮らせるように神が与えた祝福と解釈する者もいる。しかし実際には、敵対勢力が戦力を削ぐために仕込んだ遅効性の毒。『百神連合』の陰謀だったのだ。
「あの時より千年以上の時が過ぎ、我も右手首だけは自由を取り戻した。こうして夢を通して干渉するくらいはできるようになった。封印はいずれ破れるだろう。だがその前に、百神連合もまた力を取り戻し、封印を維持するよう力を尽くすに違いない。だから我はこうして夢を通して見込みのある竜人に呼びかけておるのだ」
「見込みのある竜人……『運命の番』に疑問を持つことが条件なのですか?」
「ああそうだ。神の与えた祝福に疑問を持つ探求心。それこそが戦う力となる。そなたには我の封印解除を早める手伝いをしてほしい。我が自由になれば『運命の番』などという歪な仕組みは消し去り、竜人が世界の主となることを約束しよう」
それは魅力的な提案だった。
『運命の番』によって愛する婚約者を失った。デューブラルト教授は、彼の大切なもう一つの人格パルメナートを歪められ、自殺することになった。アルクレジアは『運命の番』をおぞましく思っている。
「さあ我が右手を取れ! そうすれば我とそなたはつながることができる。我が権能『原点たる者の絶対指揮』でそなたを導いてやろう!」
『運命の番』を無くすためなら手伝いたいと思う。そうでなくても竜の神レイドラーネの言葉は胸を打つものがある。何もせずに従いたくなる気持ちになってくる。
だが、それでもアルクレジアは研究者だった。感情ではなく理性で判断した。これまでの話の中で、どうしても確かめなくてはならないことがあったのだ。
「……教えてください。封印が解除されたら、あなた様は何をなさるおつもりですか?」
「これまで話した通りだ。憎き『百神連合』を滅ぼし、最後の神となる。万能の力でもって、竜人は未来永劫栄えることとなるだろう!」
やはり、そうなのだ。
竜の神レイドラーネは最後の神になるまで戦うつもりなのだ。
彼女の手を取ることは、果てしない闘争に従事することを意味する。そんなことに与するなど、簡単に決められることではない。
だが何より知らねばならないことは……その戦いが『何を滅ぼすことになるか』ということだ。
「竜人と関係を持つ獣人やエルフやドワーフ……彼らの奉ずる神は、『百神連合』に属しているのではありませんか?」
「ああそうだ」
その意味することに、アルクレジアは顔を青ざめた。
「奉ずる神が滅ぼされたら、他種族の人々はどうなるのですか?」
「奴らの眷族の大半は戦いの過程で命を落とすことになるだろう。たとえ生き残ったとしても、ゴブリンやオークと言った神を持たない亜人と同じところに落ちることになる」
竜の神レイドラーネはさも当然のように言った。
竜人の国ドゥールガノアは多民族国家として既に長い歴史を重ねている。獣人は街の様々な場所で働いている。エルフの魔法技術は国を支える重要なものだ。ドワーフの金属加工は国の基幹産業の一つだ。
アルクレジア自身も様々な種族の知り合いがいる。研究調査に同行してくれる陽気な獣人に何度も助けられた。同級生だったエルフとは、機会があれば今でも魔法について語り合うことがある。遺跡調査のとき、ドワーフの職人の整備してくれた道具に何度命を救われたかわからない。
竜の神レイドラーネの手を取るということは、彼らを皆殺しにする道を選ぶということだ。
「レイドラーネ様! 竜人は様々な種族と共に歩んできました! 彼らは大切な友人です! あなた様の戦いは、それをすべて壊してしまうことになります! どうか思いとどまってください……『運命の番』という歪な仕組みを取り除くだけでいいではありませんか!」
「その願いは聞き入れられない。我は最後の神になる。そのために戦い続けてきた。途中でやめるつもりはない」
竜の神レイドラーネの意志は強かった。自分を封印した『百神連合』への恨みもあるのかもしれない。だがそれだけではないと思った。その瞳の奥で燃える炎が、ただの恨みによるものではないと思えた。
アルクレジアは『運命の番』によって婚約者を失い、そして諦めた。だからこそ、竜の神レイドラーネが「何を諦めなかったのか」が、わかってしまった。
わかってしまえば、選ぶべきことは明白だった。
「申し訳ありません。わたしはその手を取ることはできません……」
深々と頭を下げて拒絶の言葉を述べた。
決心に後悔はない。しかし、竜の神レイドラーネの怒りを受けることになると思い、恐ろしくて身を縮こまらせた。
「……そうか。見込み違いであったか」
竜の神レイドラーネはわずかな怒りも見せなかった。その声にはわずかな失望がにじんでいた。
「実はそなたのように断る者は少なくない。竜人の誇りより、今の暮らしを大切に思うのも、わからないでもない。いずれにせよ、我はいずれ必ず復活する。そなたの生きているうちには叶わぬかもしれない。だが復活の時は確実に来る」
頼みを断られても、竜の神レイドラーネはわずかにも揺らいでいない。
きっとこの神は何があろうと諦めない。たとえ協力する竜人が誰一人いなかったとしても、きっとやり遂げるのだろう。アルクレジアはそう確信した。
「そなたに協力を強制しない。今日のことは忘れ、平穏に暮らすのもいいだろう。我は竜の神。愛しい我が子孫が自分の幸せを大事にすることを妨げるようなことはしない。では、さらばだ」
そう告げられると、急に視界が暗転した。落ちていくような感覚。これは知っている。夢が終わり、目が覚める時が来たのだ。
目が覚めると同時に身体を起こした。身体が重く、濡れた感触がある。汗をぐっしょりとかいていた。
周囲を見回す。見慣れた子爵家の自分の部屋。そのベッドの中にいた。
窓から青空が見える。日は高く、既に昼過ぎになっているようだ。
竜の神レイドラーネとの邂逅はただの夢だったのだろうか。本当は竜の神は天の世界にいて、封印されたというのは妄想に過ぎないのか。
だが、アルクレジアはただの夢と切り捨てることはできなかった。
『百神連合』など過去の記録にはない。妄想で片付けるには真に迫りすぎている。
何より、神の力の一端に触れたという実感がある。
今からでも神に従いたいと思ってしまう。権能『原点たる者の絶対指揮』とはそういった力だったのだろう。千年前の竜人は、竜の神に心から敬服し共に戦っていたに違いない。
だが、アルクレジアはその衝動に耐えることができる。できてしまう。だからわかってしまった。
「竜人の国ドゥールガノアはこのために『運命の番』を推奨しているのですね……」
もし権能『原点たる者の絶対指揮』が健在なら、逆らうこと自体できなかったかもしれない。
だが竜の神レイドラーネは協力を強制しなかった。いや、できなかったのだ。
今の竜人は千年前の竜人とはすっかり変わってしまった。だから竜の神レイドラーネの権能『原点たる者の絶対指揮』が完全には作用しないのだ。
竜の神レイドラーネは他の者にも声をかけていると言った。アルクレジア以外にも、夢を通して接触された者はいるのだろう。
王家はおそらくこのことを知っている。だからこそ『運命の番』を手厚く優遇している。竜人としての血を薄め、神の呪縛から逃れるために。
竜の神に従うということは、エルフも、獣人も、その他さまざまな亜人を殺戮するということだ。人の心があるのなら、そんな選択などできるはずがなかった。
アルクレジアも他種族の人々を大切に思っている。だが、竜の神の手を取らなかった理由はそれだけではなかった。
「あの方は、諦めないのですね……」
アルクレジアは、愛する者を失い諦めたからこそ、竜の神レイドラーネの本当の目的がわかった。最後の神が一度だけ使えるという万能の力。それを使って彼女が何をするか、あの時わかってしまった。
竜の神レイドラーネは、人の神アルアフォートを生き返らせるつもりなのだ。
『百神連合』を滅ぼし、他種族の死体を積み上げて、そして愛する人を取り戻す。
それは美しいことなのかもしれない。尊いことであるのかもしれない。素晴らしいことであるのかも、しれない。
だが、アルクレジアにはその道を選ぶことはできなかった。愛する人を失うことを受け入れてしまった自分では、竜の神レイドラーネの示す壮絶な道を行くことなどできなかったのだ。
アルクレジアは泣いた。愛する者のために決して屈しない竜の神レイドラーネがあまりに美しくて、悲しくて、切なくて……そして、うらやましくて。彼女のことを想うと、涙が止まらなかった。
終わり
※本作の『運命の番』に関することは、本作の中だけで通用する設定です。
大丈夫とは思いますが念のため。
「神様が『運命の番』という仕組みを作ったのは、強すぎる竜人を弱体化させるため」なんていうネタを思いつきました。
それが成立するようあれこれ設定を詰めていったらこういう話になりました。
まさか神話みたいなものまで作ることになるとは思いませんでした。
それなりに理由付けはできましたが、この設定だと竜人同士の『運命の番』は存在しません。まだ工夫の余地はあるような気もしますが、自分の能力ではこれが精一杯という感じです。
『運命の番』は自分の中では扱いづらい設定でした。
そこでどうやって成立したのかと考えるようになり、3作品書いて胸の中でモヤモヤしていたものをようやく出し切ったような気がします。
2025/2/10 21:30頃
誤字指摘ありがとうございました! 読み返して気になった細かなところもあちこち修正しました。
2025/5/7
誤字指摘ありがとうございました! 修正しました!
2025/8/24
読み返して気になった細かなところもあちこち修正しました。