夏の海に入るな
夏の終わりが近づき、海の色は深い青から灰色へと変わり始めていた。波の音も少しずつ重くなり、夏休みの最後の週に二人の高校生、タケシとユウタは、最後の海の思い出を作るために浜辺へと向かっていた。
「おい、もう少しで夏休みも終わりだな。」タケシが笑顔で言った。
「ほんとだね。あっという間だったな。」ユウタが同意しながら、目の前の広い海を見つめた。海の青さが彼らにとって、終わりを迎えるには少し寂しさを感じさせた。
二人は波打ち際で遊び始めた。海の水は冷たく、手足を浸すとヒヤリとする。その冷たさが、暑さを和らげてくれるようだった。しかし、波が強くなり、彼らは徐々に海の深い部分に近づいていった。タケシは楽しげに波に足を取られながらも平気そうにしていたが、ユウタの顔には不安が浮かんでいた。
「ここまでだと、結構深いな。」ユウタがつぶやいた。
「大丈夫だって。」タケシは無理に笑顔を作りながら言ったが、その言葉には自信がなかった。
ふと、ユウタが砂に足を取られた。最初は気づかずにいたが、波が引いた瞬間、ユウタの足が砂にしっかりと埋まっているのが見えた。タケシはその光景に驚き、ユウタに声をかけた。「おい、どうしたんだ?」
ユウタは慌てて足を引き抜こうとするが、砂がまるで彼を捕らえようとするかのように固まっている。その瞬間、さらに強い波が襲いかかり、ユウタの足をしっかりと固定した。
「動けない…」ユウタは恐怖に満ちた目でタケシを見た。
タケシは必死にユウタの足を引き抜こうとしたが、砂は徐々に水分を吸い込み、ますます固くなっていく。波が繰り返し押し寄せ、ユウタの足がさらに深く埋まっていくのが見えた。
「逃げろ!」ユウタが叫ぶ。
タケシはその言葉を聞いた途端、恐怖で体が硬直した。周りの状況が悪化していく中で、ユウタがもう一度「逃げろ!」と叫ぶ。タケシはついに我に返り、恐怖と後悔の中で自分を奮い立たせ、砂浜に向かって全力で走り出した。
振り返ると、波がユウタを飲み込みつつあるのが見えた。ユウタは必死に手を伸ばし、助けを求めるが、波に呑まれていく姿が見えた。タケシはその光景に恐怖を覚え、足を止めることなく、ただひたすらに砂浜へと駆け続けた。
ようやく砂浜に到達したタケシは、自転車のところに急いで戻り、自転車を引きずるようにして家へと逃げ帰った。心臓が激しく打ち、体は震えていた。家に到着するやいなや、ドアを閉め、自分の部屋に閉じ込めた。
翌日、タケシはニュースでユウタの失踪を知った。ユウタの両親が行方不明として捜索願いを出し、海辺やその周辺で広範囲にわたる捜索が行われたが、ユウタの姿はどこにも見つからなかった。地元のニュースは、ユウタが海に引き込まれた可能性が高いと報じていたが、遺体や手がかりは一切発見されなかった。
タケシはそのニュースを見て、言いようのない恐怖と罪悪感に苛まれた。ユウタの両親がテレビ画面で涙を流しながら捜索の呼びかけをする姿を見て、タケシは自分の無力さと無知がどれほどの悲劇を引き起こしたのかを痛感した。
タケシは誰にもこの出来事を話さなかったが、心の中ではいつも夏の終わりに、あの恐怖の波の音が鳴り響いていた。ユウタの名前がどこかで呼ばれるたびに、タケシは胸を締め付けられるような思いをし、彼の無事を祈り続けるしかなかった。
「夏の海には入るな。」という言葉の意味を、タケシは深く、痛いほど理解していた。
大学を卒業し、タケシは地元に戻った。懐かしさと不安が入り混じる中、かつての海岸に足を踏み入れた。波は穏やかで、青い空と静かな海が広がっていたが、タケシの心にはあの日の恐怖が深く刻まれていた。家族や友人に会いながらも、海辺に近づくと、過去の記憶がフラッシュバックし、ユウタのことを思い出さずにはいられなかった。タケシは海に背を向け、黙って歩き続けた。海は変わらず美しかったが、タケシにとってそれは永遠に恐怖と後悔の象徴だった。