大正三十一年十二月二十三日
この物語はフィクションです。実際の人物、団体などとは一切の関りがありません。
大日本皇国、皇都、御所
至る所に菊や梅が装飾された豪奢な時計が午前七時を告げる。
「いよいよ、か」
漏れた言葉は至尊のお方、この御所の持ち主、天皇陛下のものだった。
日本時間皇紀二千六百一年十二月二十三日午前七時、華府時間西暦千九百四十一年午後六時、大日本皇国は亜米利加合衆国に宣戦を布告。こうなってしまったのには理由があった。日本の(米国大統領FDRの言葉では「異常な」)高度に発達した技術によって米国の産業が破壊され始めたことだった。米国は第一次欧州大戦の際に国内の産業を発達させ、発達させすぎた。国内の需要を遥かに超えた工業生産能力を持ってしまったのだ。その結果は大戦による需要がなくなって暫くした後におこったニューヨークのウォール街で起こった株価の大暴落だろう。国外に輸出しないと、過剰に生産しないと、鮪のように溺れてしまう国になってしまったのだ、米国は。そんな中起こった皇国における第三次産業革命とも呼べる発展は、米国の世界の工場としての地位を大きく損なうものだった。友好国である中華民国のほぼ無限とも呼べる人的資源と、ドイツをも超える技術を手に入れてしまった日本は、米国の資本家たちの目には脅威と映ってしまったのだ。また、米国内に潜むコミンテルンのシンパたちも欧州戦線と極東戦線の二戦線を抱えることを良しとしない鉄の男の指示によって動き出し、国内の日系移民排斥の運動など、様々な活動を行い、国内の戦意を高めていった。皇紀二千六百一年十一月二十七日、西暦1941年11月26日、合衆国及日本国間協定ノ基礎概略が米国側から提示された。内容は、日本の委任統治領南洋諸島を米国の管理下に置くこと、日本側がオランダ政府から正式に許可を貰って統治していた東インドなどの返還、軍事費を国家予算の一パーセント以内に収めるなどを求め、その日本側からすると屈辱的ともいえる内容を受け入れなかった場合、対日輸出を全面的に禁止するといったものだった。日本側はこれを最後通牒と認め、対米戦の開始を覚悟したのだった。米国はその気になれば、週刊空母、月刊戦艦などが可能な化け物だ。天皇陛下は自らの赤子たる臣民が傷つくことを憂いて先ほどのような言葉をこぼされたのだ、畏れ多くも。しかして、日本側も先の基礎概略が出された後も米国と会談の場を持ったわけではない。軍事費を一パーセントまで削れなくとも、二十パーセントまで削っても問題ない程度までならば日本の経済は発展していたのでそれを申し出たり、南洋諸島を米国との共同統治にすると提案したりなどした。しかしながら、米国は先の条件から一歩も譲歩することがなかったので、日本はいよいよ対米戦の決意を固めた。日本産業界を照らす太陽の如し天細グループを始めとして、建築業界を引っ張る飛鳥時代にルーツを持つ仁王組や、新興の電算産業企業の東亜電産会社、飛行機の原島飛行機などを中心として国内の企業は戦時体制へと移行していった。そして、皇紀二千六百一年十二月二十三日。皇太孫誕生日に合わせて、前日に宣戦布告していた大日本皇国は米国の加州、布哇、ありえないと考えられていた紐育、華府までも奇襲を仕掛けた。ありえないと考えられていた奇襲を成功させられたのは、皇国海軍が誇る伊400型潜水艦が大きな功労者と言えるだろう。ヒューイソン効果を利用して作られた発動機を搭載したこの艦は、基準排水量4060トン,全長158m,最大幅18.0mで、飛行も可能という大戦中最も大きく、最も火力があり、最も高性能な潜水艦であった。爆雷は艦にほぼ無限に曳航することも可能で、世界中どこへでも行ける様になっていた。宣戦布告の際には既に大西洋に構え、加州や布哇が攻撃されると同時に海上に浮上、そのまま飛行し、六隻は紐育、四隻は華府の政府中枢や軍関連の施設を破壊した。
米国政府は大混乱した。政府中枢のフランク・D・ローズベルトは運の悪いことに、開戦時からホワイトハウスに居り、皇国空軍の爆撃で死亡、副大統領のハリー・トルーマンは自宅に居り、皇軍の爆撃を免れた。その日の内にトルーマンは大統領となり、生き残った閣僚を集めて、日本に対する徹底抗戦を叫んだ。しかし、民意は既にトルーマンの下に無かった。




