05.救いの女神
扉をノックする音が響いた。
塩素の匂い……?
ま、まさか、また――!?
「おい、扉の近くにいるやつ、応対に出ろ。」
先輩文官の声に押され、イチが立ち上がっておそるおそる扉を開けた。
そこに立っていたのは――
「ナナ姉……?」
「あら、イチ。あなた、文官の試験に受かったのね。立派になったわぁ。」
「なんでナナ姉がここに?」
「陛下からの差し入れよ。お疲れの皆さんに、ってね。」
ナナ姉の押すワゴンの上には、どっさりとサンドイッチが山積みになっていた。
その香ばしい匂いに、文官室の空気が一瞬だけ和らぐ。
「みなさん、お好きなのを召し上がってくださいね~。」
そう言ってにっこり微笑むナナ姉の視線は、なぜかイチとニーにだけ、ほんの少し長く注がれていた。
「……ナナ姉、ありがとう。」
イチがそう言うと、ナナ姉はふふっと笑って、彼の頭をぽんぽんと軽く撫でた。
「昔はよく、こうしておやつ作ってあげたわよね。あの頃は二人とも、私の後ろをちょこちょこついてきて……かわいかったわぁ。」
「な、なんか恥ずかしいな……。」
「ふふ、でも今も十分かわいいわよ? 大きくなったけど、好みは変わらないの。」
「えっ?」
「なーんでもない♡」
ナナ姉はくるりと踵を返すと、ワゴンを押して去っていった。
その背中を見送りながら、イチとニーは顔を見合わせ、なんとも言えない表情を浮かべた。
「……うまっ。」
イチが一口かじったサンドイッチは、外はカリッと香ばしく、中はふんわり。
具材のバランスも絶妙で、塩気と甘みが口の中でほどけていく。
「この味、昔と変わらないな……。」
イチはしんみりしながらサンドイッチを頬張った。
「うん。ナナ姉のサンドイッチ、やっぱ最高だよな。」
ニーも頷きながら、もう一つ手に取る。
「覚えてる? あの下町でアルバイトしてると、ナナ姉が作ってきてくれたやつ。」
「覚えてるさ。あのとき、俺がお客さんから文句を言われて落ち込んでいたら、ナナ姉がやさいく頭をなでてくれて、慰めてくれたんだ……」
「うらやましかったぞ、あれ。俺もわざと失敗して文句言われようかとちょっと思ったくらいだから。」
「ははっ、バカだな、お前。」
二人は顔を見合わせて笑った。
その笑顔は、文官室の空気を一瞬だけ柔らかくした。
「……ナナ姉、今でも変わらないよな。」
「うん。なんていうか、昔からずっと憧れの人って感じ。」
「わかる。あの余裕のある感じ、優しくて、でも芯が強くて……」
「しかも、あの笑顔。あれは反則だろ。」
「なあ、もし俺たちがもうちょっと大人だったら――」
「お前、何言ってんだよ。俺のほうが先に惚れてたんだからな?」
「は? いやいや、俺のほうが先だって!」
「はぁ? お前、あのとき“姉ちゃんみたい”って言ってただろ!」
「それは照れ隠しだよ!」
そんな不毛な言い合いをしている二人を、周囲の先輩文官たちは横目で見ていた。
「……あの二人、なんであんなに和んでるんだ?」
「さっきまで“地獄の漂白魔法”の話してたよな?」
「ていうか、あの差し入れの人、なんか只者じゃない雰囲気がなかったか?」
「お前も感じたか。あの目……完全に“狩人”の目だったぞ。」
「……あの二人、狙われてるよな、絶対。」
「でも、気づいてないな、あれ。」
「……合掌。」
一人の先輩がサンドイッチを頬張りながら、手を動かした。
「いや、むしろ気づいてないのがすごいよ。あれだけ分かりやすいのに。」
もう一人の先輩もひたすら文字を書きながら横目でチラリと二人を見た。
「ナナ姉が“かわいいわね”って言ったときの目、見たか? あれはもう、完全にロックオンだぞ。」
斜め前で二枚目の書類にペンを走らせていた文官がブルリと震えた。
「しかも、あのサンドイッチの量。あれ、二人分だけ明らかに多かったよな?」
サンドイッチの皿をいつのまにか平らげたちょっと小太りの文官が二人の皿に目を向けた。
あふれんばかりにサンドイッチが盛られていた。
「うん。あれは“胃袋を掴む”ってやつだ。古典的だけど、効果は抜群だ。」
「……それにしても、あの二人、まさか“憧れのお姉さん”で止まってるとはなぁ。」
「純粋すぎて逆に心配になるわ……」
「いや、むしろ羨ましい。あんなふうに好かれてるのに、気づかずにいられるって、ある意味才能だぞ。」
「でも、あのまま気づかずにいったら、ある日突然“褒美に二人とももらうわ”って言われて、目が点になるんだろうな……」
「……それはそれで見てみたい。」
「うん。絶対おもしろい。」
「よし、今度から“ナナ姉観察日誌”でもつけようぜ。」
「タイトルは『狩人と子ウサギたち』でどうだ?」
「採用。」
先輩文官たちは、ひそひそと盛り上がりながら、静かに手を合わせた。
一方で、イチとニーはというと――
「なあ、ニー。ナナ姉、今でも俺たちのこと“かわいい”って言ってたよな?」
「うん。でも、あれは昔からのノリだろ。弟扱いってやつ?」
「……だよな。はは、まさかね。」
「まさかね。」
二人は照れ隠しのように笑いながら、サンドイッチをもぐもぐと噛みしめた。
その味は、どこか懐かしくて、でもほんの少しだけ胸がざわつくような、そんな味だった。




