第一章:11
およそ一年半後、ぼくは学校の裏庭にいた。
胸にはリボンの花飾りをつけ、芝生に仰向けになって空を眺めていた。すぐ脇には、受け取ったばかりの卒業証書が転がっている。
流れていく雲を眺め見ながら、これから先の日々を考える。
「こんな所にいたんだ……」
声がした方を見れば、そこには三年間、クラス委員を務めあげた牧村菖蒲が立っていた。
「ああ」
気もなく返事をすると、牧村はぼくの隣に腰かける。
「何、考えてたの?」
「別に。ただ、明日から大変だな、って」
「訓練が?」
「そう。実際にどんなもんか、やってみないと分からないけどね。並大抵の努力じゃ、空は飛べないよ」
ゆっくりとした風が、芝の葉を揺らす。
「卒業、しちゃったね」
「そうだな」
「もう、今までみたいに、みんなで遊んだり、できないのかな」
「そんな事ないだろ、別に。その気になれば、いつだって集まれるさ」
「でも……」
でも、の後は、言われなくても自分で十分に理解していた。
残念ながら、ぼくと瀬川だけは、いつだって集まれる、そんな事はなかった。
しばらくの沈黙。
「牧村、高校どこになったんだっけ」
牧村が告げた名前は、近隣でも有名な進学校だ。
「さすがは委員長、すげーや」
「ううん、そんな事ない」
また沈黙。しかし、今日は不思議と、この沈黙が心地いい。
「……やっぱり、行っちゃうの?」
「まあね、……昔からの夢だからさ」
あの日、初めて空に飛んだあの日から、ぼくは子供のころからの夢を叶えることを現実に見据えていた。
ぼくは明日、戦闘機パイロットになるため、帝国海軍航空隊に入隊する。
ぼくと瀬川は、子供のころからの夢を、捨てきれなかった。
明日からの三年間は、戦闘機パイロットになるための辛い訓練の日々に明け暮れるだろう。いや、一人前になってからだって、毎日が自己鍛錬の繰り返しだし、実戦に入ってからが本当の地獄だろう。それでも、空を飛びたい、その思いが褪せることはなかった。
もちろん今の日本を取り巻く世界情勢は、十分理解していたし、それに伴う危険性も承知の上だ。
いつか、ガレージで人力飛行機を作っていた時に聞いたニュースを思い出す。あれが、東ヨーロッパで起こり、アジアまで巻き込んだ、大規模な戦争の始まりだった。
ロシアの軍事基地で起こったクーデターがロシア全土に飛び火し、隣国を巻き込んで泥沼化した。今や、旧政権を倒した東ユーラシア共和国連邦は、その名の通り、ユーラシア大陸の東側をほぼ制圧し、一大軍事国家まで成長している。アメリカとの国交も断絶状態になり、冷戦時代に逆戻りしたも同然だ。
そうなれば、東ユーラシア社会主義共和国連邦からすれば、アメリカと友好関係にあるこの日本帝国は喉元に突き付けられた刃だ。もちろん日本にしても同じことで、いつ戦争に突入してもおかしくない。
「でも、どうして戦闘機なの? 空を飛ぶにしたって、民間の航空会社じゃだめだったの?」
「その方が、早く飛べるんだよ。民間だと、どうしても就職するまで時間が掛かるし。戦闘機なら、十五で軍に志願すれば、高校を卒業する年には空を飛べるからね」
別に僕には、国を守る、なんてそんな大それた思いなんてなかった。ただ、空を飛べればよかった。
それに、民間のエアラインでは、自由に空を飛ぶことはできない。決められた高度で、決められた進路を自動操縦に任せて飛ぶしかない。だったら、たとえ命の危険に曝されたとしても、戦闘機で自由に空を駆った方がいい。
そんな一通りの建前を説明すると、牧村は「ふうん、そっか」と息をつき、わずかにほほ笑んだ。
正直に言おう。
ぼくが戦闘機のパイロットになろうと思った、本当の理由を。
ぼくは、この笑顔を守りたかった。
たとえ命に代えたとしても、隣に座る少女の、この何気ない笑顔を、守っていたかった。
そのためには、一度この少女の隣から、離れなければならなかった。もう二度と、少女の隣に立つことはできないかもしれなかった。
それでもぼくは、構わない。
実際の戦争がどんなものなのか、今のぼくにはわからない。けれど、この少女が戦火の中を逃げ惑うようなことだけは、させたくなかった。
国を守る、なんてつもりはない。
けれど、この少女だけは、守りたい。
生まれて初めて、好きだと思えた人を。
そんな生ぬるい考えだけで軍に入ったと知れたら、笑われるだろうか。
いや、笑われたって構わないさ。
それでもぼくは、この笑顔のために、空を飛び続けていたい。
終戦を迎え、凱旋したぼくを、自宅で牧村菖蒲が待っている、なんて、そんな贅沢は望まない。
ただ、この牧村菖蒲という少女が、誰かと結婚して、家庭を持って、幸せに暮らす日常が絶え間なく続く未来のために、ぼくは戦闘機に乗ろうと決心したんだ。
「ねえ、守屋。どうして今まで、海軍に行くって言ってくれなかったの?」
「…………」
牧村のことだから、志願することが知れたら、海軍までついてくると言い出すんじゃないか、と思ったから、なんて言えるわけがなかった。
牧村には、普通の生活を送ってほしい。
人並みでいいから、幸せな人生を歩んでほしかった。
それはきっと、ぼくや瀬川が失ってしまうものだから。
「あの……、守屋。私ね……」
牧村は何かを言いたそうに、顔を赤らめている。ぼくは思わずはっとして、顔をそむけた。
「悪い牧村。俺もう行かなきゃ。明日の朝には発たなきゃならないから、帰って支度しないと」
そう言いながら、ぼくは走り出した。この後に続く言葉を、聞いてはならない気がした。聞いてしまったら、もう旅立てなくなる気がした。
「元気でな!」
振り返って、大きく手を振る。
そのまま向き直って、校舎の裏まで走った。そこで瀬川が、腕を組みながら、校舎にもたれて待っていた。
「もう話は済んだのか? まだ時間はあるんだから、もっとゆっくり話してればよかったのに」
ぶっきらぼうに聞いてくる瀬川。
「ああ、まあね。お前こそ、最後に話しておかなくていいのか? もう、会えないかもしれないんだぞ」
瀬川はシニカルに笑って見せた。
「ここで顔を見たら、別れがつらくなると思ってさ。黙って消えた方がいい」
「へっ、お前らしいよ」
そうやってどつき合いながら、ぼく達は二人並んで、校門をくぐった。
たぶんぼくたちは、これから先も、こうやって二人で並んで歩んでいくんだろう。
そして、牧村や安藤や藤原は、ぼく達とは違う、普通の生活を送っていくんだ。
それでいいと思う。
たとえみんなと一緒に歩けなくなったとしても、ぼくは、あの夏を忘れない。
あの夏、みんなと一緒に過ごした夏の事を。