プロローグ:橋上にて
ぼくには、もう空を飛ぶ力なんて残ってはいない。
翼を失った鳥は、もう大空を舞うことはできない。
大河に架けられた国道の大橋も、さすがにこの時間ともなると交通量はさしてなく、ましてや歩行者など、いるはずが無かった。歩道と車道を区切る白いガードレールは薄汚く、太い金属組みの欄干には錆が浮き、所々塗料が剥げていた。ぼくはその欄干に手をかけ、その真下を流れる澄んだ水の流れを、緩慢な動作で煙草をふかしながら、ただひたすらに眺めていた。冬の寒空の下、橋の上には強い風が吹きさらし、凍えるほどに冷えるというのに、ぼくはコートのボタンを固く閉ざし、もう小一時間ほどそうしている。
ぼくはゆっくりと、大きなため息とともに紫煙を一つ吐いた。それは風に揺られ、そして四散していった。その煙の行方を追うように、ゆっくりと、緩慢な動作で空を仰いだ。霞がかった空には星も少なく、低い空に随分と欠けた三日月が浮かんでいる。しかし月の光は、次第に潤んで、ぼやけてしまった。ぼくは両目に、溢れんばかりの涙を湛えていた。
月を見ていると、昔の事を思い出す。
そう、遠い昔の事を。今となっては、まるで夢のような時間だった。
けれどその時間には、永久に戻る事はできない。一度過ぎ去ってしまった時間は、二度と取り返すことはできない。
あの頃の事を思い出すと、胸の奥の、深い深いところがチクリ、と痛む。一体何と表現して良いのか分からない、不思議な感情に襲われる。焦りとも、怒りとも、不安とも取れない不思議な感覚に、胸を締め付けられる。
いっその事、このまま橋から飛び降りてしまおうか。それとも、ガードレールを乗り越えて車道に飛び出そうか。どちらが楽に死ねるのかを考え、ぼくには結局どちらかを選択する勇気など持ち合わせてはいなかった。
死ぬ勇気も、生きる勇気も、どちらもどこか遠い時間に、置き忘れてきてしまった。
そもそもぼくに、そんな勇気があったのなら、今ここでそんな事を悩む必要さえ、無かったのかもしれない。つまりはぼくが、死ぬべき場所で死にきれなかった、という事なのだろう。
今の仕事を始めてから、つまり今の生活を始めてから、早いものでもう五年ほどになる。今の仕事にも、生活にも、大した不満は無かった。職場には嫌な上司もいるが、けれど共にそいつの陰口を叩ける、付き合いのいい同僚がいる。大した額ではないが、ちゃんと給料を貰い、毎日三食を食べ、安いアパートを借りて人並みの生活を営む事ができている。けれど、そんな生活に決して満足はしていない自分がいた。どこか満たされないと感じている自分がいた。理由の分からない焦燥感に囚われる自分がいた。怒りとも悲しみとも知れぬ感情に押し潰されそうな自分がいた。そして、いつまで経っても忘れられない人たちがいた。
彼らはもう、ぼくの遠い記憶の中にしかいない。彼らが、共に大空を駆けた彼らが今のぼくを見たら、一体何というだろうか。
大通りであるにも拘らず、随分と交通量の少なくなった道に、たまに走る大型トラックが橋を大きく揺らした。遠くに併走している鉄道橋を、遠く警笛を吹かし、轍を轟かせながら走っていく列車が見えた。はるか大空に、大型の猛禽類が円を描きながら飛んでいるのが見えた。
川岸のすぐ側に、大きな光の塊が見える。そこは海軍の滑走路で、誘導灯が煌々と灯っている。その明かりはまるで空全体を照らさんばかりだ。誘導等は滑走路に沿って建植され、端から端まで順々に明滅していて、まるで生きているかのようだ。その光の生物の中を、四機編隊のジェット戦闘機が、エンジンの爆音を響かせながら、深夜の大空へと舞って行った。
特徴的な、扁平な機体。ひし形の翼形。V字尾翼。米国ノースロップ社製の、ステルス多用途戦術戦闘機、F-23J月光。青の濃淡で塗り分けられた洋上迷彩の中で、主翼両面に施された、白い縁付きの赤丸のマーキングが、帝国海軍の所属である事を表している。
こうして下から見上げていると、数年前には自分自身があれに乗っていた、という実感は、もはやほとんど湧いてはこない。まるで、とても永い夢を見ていたようだ。
ぼくは、編隊飛行をする「月光」を眺めながら、何本目かの煙草に火を付けるため、古いオイルライターを開いた。金属の乾いた音が、辺りに響く。真鍮のケースには、とても懐かしいマークが刻印されている。それはぼくたちが乗っていた「月光」の、尾翼に描かれていたのと同じマークだ。ぼくは煙草に火を灯すたびに、空を仰ぐたびに、大空にこのマークを捜し続けている。けれど、このマークを掲げた飛行機は、もうどこの空にも飛んではいない。
ライターに火を灯し、その炎をじっと眺め、そしてしばらくしてから煙草に火を移した。ゆっくりと肺いっぱいに吸い込んで、そして吐き出した。どうしてだろう、今日はやたらと、煙が目にしみる。結局ほとんど吸わずに灰にしてしまった。その吸殻を足元に投げた。いつの間にかそこには、吸殻の山ができていた。
ぼくには、もう空を飛ぶ力なんて残ってはいない。
翼を失った鳥は、もう大空を舞うことはできない。
遥か上空を飛ぶ、大型の猛禽類が妬ましかった。……ぼくにも、空を行く鳥を見て、羨ましいと思った頃が、自由に空を飛びたいと願った頃が、あったはずだった。国家だとか民族だとか、そんなものに縛られずに、自由に空を飛び回れた頃の、純粋だったぼくの心は、一体どこに消えてしまったのだろう。
ぼくは、ため息と一緒に、紫煙を一つ吐き出した。
ちくしょう、今日はやたらと煙が目に沁みる。