辺境伯執事クロード
辺境伯家に勤めるようになったのは15歳の時だ。
母がメイドをしていた伝手で勤めはじめ、今では執事にまで登り詰めた。
先代辺境伯様は常々「俺には戦うしか脳がないだ。家のことは妻とお前の手腕を信用している」と仰っては細かいことは言わずに一任してくださった。しかし困りごとを相談すればいつでも真剣に取り合ってくださる、何とも懐の深い方だった。
ご子息のハノン様は私より6歳年上で、お若い時より才気溢れる凛々しいお方だった。誰もがハノン様に期待し次期辺境伯としての役割を求めたし、ハノン様もそれをしっかりと受け止める度量をお持ちだった。しかし、ハノン様が歳を重ねるにつれて物憂げな表情が多くなり、とうとう先代辺境伯様との関係もギスギスし出した。
その頃には、私も成人し一通り悩み抜いた後だったので、ハノン様の悩みが手に取る様にわかったし、確信していた。ハノン様は『私と同じ側の人間』だと。
ただ、しがない平民の三男坊で、自覚して早々に諦めることが許された私と違って、ハノン様の状況は深刻だった。思い悩むハノン様を近くで見続けるのは苦しく、すぐにでも早く悩みを解いて差し上げたいと思ったが、先代辺境伯様のことを思うとそれもはばかられた
先代辺境伯様がどれだけハノン様に期待をしているかは痛いほど知っていたから、その先代様の望みを打ち砕くことなどしたくはなかった。だが、生まれもった性質は努力で変えられるものではない事も自分自身痛いほど知っていた。
やがて先代様は出兵し帰らぬ人となってしまった。
今では後悔している。先代様とハノン様がどれだけ傷つこうとも真実を早めに教えるべきではなかったのかと。
「クロード、何を暗い顔をしている」
ハノンに呼びかけられて、クロードははっと顔を上げた。感情を表に出すなど、使用人トップの執事としてあるまじきこと。すぐに穏やかな微笑みの仮面を被る。
「俺の前でその顔はよせ」
ハノンの無骨な手のひらがクロードの頬を撫でると、呆気なく作り物の笑顔は崩れた。
今の自分は困った顔ができているだろうか。それとも喜びが溢れ出しているだろうか。
クロードは、自分の頬を包むハノンの手にそっと自分の手を添える。
「もっと、早くあなたに教えてあげるべきだったのではないかと考えていたのです。世の中には異性ではなく同性にしか惹かれない人間もいるのだと」
「・・・馬鹿を言うな。父を失う前の俺では、例え教えられても認められなかった。怒り出してお前を解雇しかねん。父上とて同じだ。人には正しい正しくないに関わらず、どうしても認められないものがある」
ソファに座り、立っているクロードを見上げるようにしているハノンの眉根がキュッと寄ると、迷子の子どもを彷彿とさせる表情となる。武人として名高いハノンには何とも似つかわしくない表情だが、クロードにとっては愛おしくてたまらない表情だ。クロードは自分の前でだけハノンが弱みを見せてくれている事を知っている。
「それに、お前のおかげで俺は俺自身を許容することができた。割り切ることもできた。お前とケイティには俺は頭が上がらない」
ふっと翳るカルラと同じ灰碧色の瞳に、クロードは元気付けるように微笑み返す。
「ケイティ様は見た目は小柄でもあなたに負けないぐらい強い方ですよ。もちろん私もお守りします」
「ああ、頼む」
ハノンがゆっくりとクロードの頬から手を下ろせば、もうそこにいるのは当主と執事だ。
2人は先程までの空気が嘘だったように淡々と書類の整理を始めた。
午前中のこの時間、ケイティは決まって先代辺境伯夫人を訪ねる。
クロードを連れて夫人の部屋にほど近い応接室を訪ねると、そこには既に夫人がいらっしゃった。
「よく来てくれたわね・・・・ケイティ」
揺れる瞳でケイティを見つめ、違う名前を呼びたい気持ちをグッと堪えて先代辺境伯夫人であるアーラは挨拶をした。ケイティも西の少数民族伝統の礼で応える。
アーラが目配せをすると、クロード以外の使用人たちがさっと退室していく。が、使用人たちがケイティに向ける眼差しは厳しい。大奥様と不気味な少数民族の娘を一緒にするのをよく思っていないのは当然だ。そして、クロードもお茶の用意を済ませると部屋を出て扉の前で待機する。
部屋の中からは微かに話し声が聞こえるが、注意しなければ話しているのも分からないほどその声は小さい。
西の少数民族の娘という設定のケイティにとって、会話できるのは夫ハノンと義母にあたるアーラのみ。それが功を奏して先代辺境伯夫人は娘との時間を取ることができていた。
1年近く前、ハノンに呼び出されたクロードが部屋に入ると、そこにはハノンとなぜかその膝の上で抱きしめられているカルラ、大奥様アーラだけがおり、使用人は自分以外に1人もいなかった。使用人を故意に締め出したことは明らかで、クロードはただならぬ様子に心臓が激しく脈打つ感覚を今でも覚えている。
「自殺しようとしたカルラを止めてきたところだ」
ハノンはそう切り出した。
クロードが弾かれたようにカルラを見ると、カルラは兄にきっちりと抱き込まれた状態で申し訳なさそうに縮こまっている。
クロードにとってカルラは、小さな頃から見守ってきた大事なお嬢様だ。そのカルラをそんなに追い詰めてしまったなんて。クロードは自らの至らなさを後悔した。
「カルラは死んだことにする。カルラには別の人間として生きてもらう」
ハノンがそう言った時、母親であるアーラは反対した。もう親子として接することも願いを込めてつけた名前を呼ぶこともできないなんて、娘の人生が狂わされるなんて、アーラからすれば身を切られる思いだっただろう。
しかし結局はアーラも折れた。他に方法が思いつかなかったのもあるし、何よりカルラ本人の意思が固かったからだ。
「カルラという人間は死んだ方がいいわ。私の存在が誰かを苦しめるなんて私には耐えられないの。お母さま、わかってくださるでしょう」
アーラは、ハノンの膝の上から娘を奪い取ると力一杯抱きしめて涙した。親子として抱きしめることができるのはこれが最後なのだと覚悟しながら。
「あなたの名前が変わろうが何者になろうが、あなたが私の愛しい娘である事に変わりはありませんからね」
アーラの言葉にカルラは頷くと素直に体を預けた。母親に体を擦り寄せ、甘えるようにぎゅっと抱きしめ返すその様子にクロードはやるせない気持ちだった。
その後、ハノンとクロードでカルラの第2の人生の設定を作っていった。ハノンの愛人として側に置いておきながらも、周りに正体がバレないようにするにはどうしたらいいか。そして決まったのが西の少数民族の娘という設定だ。
そこからは素早く行動した。まずはアーラの兄にあたるコルトにハノンが直々に手紙を届け、その上で計画の説明とカルラの保護をお願いした。流石に妹が死んですぐに愛人を囲うわけには行かず時間稼ぎが必要だった。
世俗を疎んじて自給自足の生活をしている変わり者のコルトの耳にも今回の騒動の話は届いていたらしく、カルラの保護を二つ返事で了承してくれた。曰く「いらん肩書きは捨ててしまえばいいのだよ」と何とも人里離れて暮らすコルトらしいものだった。
そして、ハノンとクロードで細工をしたり事故現場を決めたりと、カルラ事故死の状況を固めていった。
カルラ自殺未遂から5日後、強い雨風の日を選んで偽装事故の計画は決行された。そしてその2日後にはカルラはコルトのところへと秘密裏に送り届けられた。
カルラが出発する前に切った髪の毛で三つ編みをいくつも作りながら、クロードはまるでお嬢様が本当に死んでしまったような気がしてきてしまい、小さく嗚咽を上げながらその髪を編んだ。
カルラの遺体は損傷が激しいと理由をつけて誰にも見せないつもりだが、縁が深かった人に譲る遺髪はどうしても必要だ。当の本人はいたってさっぱりした様子で、顎下程度の長さになった髪の毛に「軽くていいわね」などと言っていたが、その様子さえ強がりに見えて不憫だった。
そしてまた、カルラの死を聞いてやって来たシーズクリフが、その遺髪を受け取りながら痛みに必死に耐える様子を見るのも不憫だった。
カルラとシーズクリフが小さな体でぽてぽて歩いて笑い転げていた頃から見てきたクロードとて、2人が結婚して一緒になると信じて疑っていなかった。
お互いが大切で大好きで、だからこそ離れる2人を思うと表情を保つのに苦労した。
いつだったか小さなシーズクリフが誤って茶器を割ってしまったことがあった。当時まだフットマンだったクロードはたまたま居合わせて執事へ報告した。たいして高価な茶器ではなかったし、子どものした事だ。シーズクリフも心から謝っていたし当時の執事とて叱る気は毛頭なかったと思うが、それを聞きつけたカルラがすっ飛んできて涙ながらに訴えた。
「ごめんなさい。私がその茶器がいいって駄々こねたの!私が我儘言ったのが悪かったから、シーズクリフを叱らないで!」
言っているうち興奮してしまったらしいカルラは、そのままわんわん泣き出してしまった。すると、隣のシーズクリフもどうしていいか分からずに一緒に泣き出してしまい、まだ若かったクロードは狼狽えるばかりで自分も泣きたい気分だった。
やがて騒ぎを聞きつけた先代辺境伯が駆けつけると、片腕に1人ずつ抱きかかえ何とも豪快に笑った。
「ほんに反省したなら2人には罰をやろうぞ。さあ、どうだ?やれるかな?」
ガッハッハッハと廊下中に響き渡る辺境伯の豪快な笑い声にびっくりして涙が止まった2人を、辺境伯はなおも笑いながら連れていってしまった。後日、2人に罰として水汲みを命じた辺境伯は、小さなカップで甕に水を懸命に移す様子が実に可愛かったとデレデレした様子で言っていたのが懐かしい。
2人の道は別れてしまったけれども、それぞれの道で幸せに暮らしてほしい。限られた幸せではあったとしても。クロードはそう願ってやまなかったのだが・・・。
いつものようにハノンが部屋を訪れるのを迎えたケイティは、兄の顔から何か悪い話があるのだとすぐに悟ったようだった。
席につき茶を口に含んでも、まだハノンは話し出そうとしない。ケイティは頭からスカーフを脱いで、じっと言葉を待っている。
ついには、この部屋では今まで決して飲まなかった酒を所望したところで、クロードが見かねて口を挟んだ。
「ハノン様、私から話しましょう」
ハノンは抵抗の表情を見せたものの、顔を手で覆うと俯き微かに頷いた。
執事としては無礼な行為であることを承知の上で、クロードはケイティの傍に跪きその手を取った。戸惑うケイティの瞳をしっかりと捉えると一気に告げた。
「ハイアード帝国にてシーズクリフ様が死亡されました」
妙な呪文でも告げられたような表情で、ケイティはきょとんと首を傾げる。
クロードはケイティの瞳から目を逸らさぬように意識しながら、言葉を重ねた。
「ハイアード帝国にて政変が起こり、それに巻き込まれたようです。帝国は未だ政変で乱れている状態なので情報も錯乱しているのですが、シーズクリフ様が亡くなられたのは間違いなく僅かながら遺品が送られてきております」
「何を・・・何を言っているの・・・?」
じわじわとケイティの顔から表情が消え、体がわなわなと震えだす。
どうして、どうして。小さな声で何度もそればかりを繰り返している。
「カルラ・・・」
思わず妹の名前で呼びかけた兄に、ケイティは掴みかかる。
「だって、皇女様がどうしてもシーズクリフが欲しいと仰ったんでしょう?どうしても手に入れたいと我が国を脅してまで手に入れたんでしょう?なのに、なのに、なのに・・・・」
ハノンの胸元を手が白くなるほどの力で握り締め続けながら、ケイティは慟哭した。
「なんでなの!!!」
強ばった顔を涙でぐちゃぐちゃにしながら憤るケイティを、ハノンはこれ以上見ていられずに胸に押し当てるように抱きしめた。
ケイティのくぐもった鳴き声が響く中、クロードは唇を噛みながら俯くことしかできなかった。