皇子エイトバーン
鬼神という二つ名は皇帝にぴったりだ。
堅牢な守りをいかに攻め落とすか、果敢な猛者をいかに叩き伏せるか。皇帝の頭にはそれしかない。戦い以外には全く興味を持てないのが皇帝であり、だからこそ鬼神なのだ。
そう、鬼神だが賢王ではない。戦って何を得るのか攻め滅ぼした国をどうするのかは皇帝にとってどうでもいいこと。それどころか自国の事さえちっとも興味がないため、戦い以外は宰相と皇妃に丸投げであり、何がどうなっていようが頓着しない有様だ。
そんな戦いさえできれば満足な皇帝だから、前皇妃の子であるエイトバーンとアリアローゼのことなど微塵も気にかけることはなかった。名前さえ覚えているか怪しいとエイトバーンは思っている。
母である前皇妃が亡くなった7年前、エイトバーンは16歳。アリアローゼは3歳だった。
母は武勲を讃えられた猛将の娘であり、その将軍への褒賞の一環として皇妃にしたらしい。皇妃の地位を武勲として与えるなど前代未聞だが、まさに皇帝らしい話だ。
そして、その話からもわかる通り、皇帝は前皇妃には好意どころか興味もなかった。「使える将軍の娘」としてしか認識しておらず、決められた日程に義務を果たしに寝室に行く以外には接点もなかったぐらいなので、皇妃の死への皇帝の反応は実に淡々としたものだった。
皇帝は皇妃の喪が明けるとすぐ、宰相に勧められるままに側室だった女性を皇妃に格上げし、その側室との息子を皇太子とした。エイトバーン達の母の生家は叩き上げの将軍で武功で地位を得た家だ。そんな政治に不慣れな家を後ろ盾としたところで宰相に敵うはずもなく、2人はあっという間に不安定な地位に追いやられた。
皇帝からは興味を持たれず母もない兄妹の命は、危ういバランスを保ちながら宰相と皇妃の手の中で転がされていた。
生き延びるためには、脅威となる恐れが無いほどの間抜けでありながら、利用価値がなければならない。エイトバーンとアリアローゼの役割とは帝国の傲慢不遜さを体現し他国からの憎しみを受ける汚れ役だ。他国から恨まれるような申し出や自国の民から反感を買う政策は全て「エイトバーンの気まぐれ」か「アリアローゼの我儘」として要求された。
皇帝譲りの神秘的な黄金の瞳と母親譲りの燃える様な赤髪という派手な見た目も、実に都合が良かった。帝国に対する不満の吐口として、エイトバーンとアリアローゼは憎悪の視線に日常的に晒された。おかげで、暴漢や暗殺者に狙われたことも1度や2度ではない。それでも兄妹で身を寄せ合って何とか生きてきた。
シーズクリフの話を聞いた時、それはさぞかしアリアローゼを憎んでいるだろうとエイトバーンは思った。元婚約者の令嬢が死んだのは妹のせいではないが、きっかけは間違いなく妹が言ったことになっている我儘だ。理不尽な我儘で自分の人生が狂わされ、幼馴染が死んだのだ。嘆きは如何程だろうかと。アリアローゼに危害を与えるまではなくとも、辛く当たるのではないかと心配していた。
しかし、実際に会った公爵令息は実に礼儀正しく穏やかな様子だった。
祖国で嘆き尽くして全て諦めてしまったのか、それともその凪いだ瞳は嵐の前の静けさなのか。エイトバーンは注意深く彼を観察していくことにした。
と、エイトバーンは思っていたのだが。儚げな容貌に似合わず公爵令息は想像以上に強かだったようだ。
「ん〜〜〜〜、うちの可愛い妹を脅して私を引っ張り出すなんて、シーズクリフ殿は思いの外強引ですねぇ」
「それは失礼しました。皇女様が我儘をしては僕がどんな反応をするか、ずっと誰かに見張られているのはわかっていましたので。人の目がないところでお話ししたいと思いまして」
時刻は夜中。場所は例の隠し部屋。
蝋燭1本の僅かな灯りの中、各々部屋を抜け出した3名が顔を突き合わせて話し合っていた。
寝所からこっそり来ているのだから、全員寝巻き姿だし部屋は狭くて家具もないので地べたに座った状態だし、それどころか場所が足りなくてアリアローゼはエイトバーンの膝の上だ。
「で、なんで気づいたんですか。アリアローゼが我儘を演じているって」
シーズクリフに見破られたのが悔しかったらしいアリアローゼは、膨れっ面で兄にしがみついている。
「そもそも本国にいた時から、この婚約は皇女様の我儘なんかではなく政略だと気づいていました。そして皇女様の晩餐会の時の服装です。いくら豪奢な格好が大好きな夢見がちなお姫様だとしても、あの服装の重さを10歳の子どもが黙って耐えているなんて普通じゃありません。あの服装がしたいと駄々をこねてしたところで、重さに耐えきれなくなって癇癪を起こしますよ。それを文句ひとつ言わずに笑ってみせるのは、我儘な子どもではないと思いました」
最初からかよ。
エイトバーンは顔に手を当てて俯いた。ちょうどしがみついているアリアローゼの申し訳なさそうな顔と目があったので、気に病まないように妹の髪を優しく撫でる。
「そこまで推測できるならこれもお察しかと思いますが、私と妹の帝国での立場は非常に弱いのです。愚か者なので皇位を狙う心配がなく、愚か者なので帝国の嫌われ役を押し付けても気づかないと思われているから生きていけてるぐらいなので、何のお役にも立てないと思いますよ」
エイトバーンとアリアローゼ。お互いに赤い髪と金の瞳をした2人は、強い血の繋がりを感じさせた。いつもの必要以上にごてごてジャラジャラと華美な服装を脱ぎ去った簡素な寝巻き姿にも関わらず、この兄妹が揃うと実に豪奢な印象だ。
皇帝譲りの金の瞳は、戦場以外では虚ろな皇帝とよく似ているとシーズクリフは思っていたが、違ったらしい。今の2人の瞳には生気と知性が煌めいている。
「エイトバーン殿、取り引きをしませんか。このような薄氷の上にいるような状態はいつまでも続く補償がないことはあなたもわかっているのでしょう」
返事がないエイトバーンにシーズクリフは畳み掛ける。
「僕がなぜ毎晩こっそり散歩してたと思いますか?この香が部屋に焚きしめられていたからですよ」
シーズクリフが懐から取り出した香をエイトバーンは受け取ると、匂いを確認してはっとした。甘ったるくて独特なこの香りは間違いない。
「これは・・・」
「そう、僕を廃人にして言いなりにさせるつもりみたいですね。
毎日、僕が部屋に戻るといつもこの香りが充満しているのです。僕はすぐさま香炉の中身を捨て窓を開けて換気が済むまで散歩しているんですよ。最初は微かに香る程度でしたが、どんどんキツくなっていて今では部屋のドアを開けると煙たいぐらいです。
それとなく、香りが合わないので香を止めて欲しいとも言ったのですが香りが少し変わっただけで無くなりませんでした。そろそろ、僕が思い通りに中毒にならないので次の手段にでると思います」
「あなたを廃人か操り人形にして、王国の辺境伯を陥れたいのだわ」
今まで黙っていたアリアローゼが口を挟んだ。
未だ兄の服にしっかりとしがみつきながらも、真っ直ぐにシーズクリフを見ている。
「皇妃様と宰相の狙いは王国を皇帝に攻め滅ぼさせることよ。それには王国の守りの要である辺境伯が邪魔なのよ。そして、その為にあなたの国の王妃と取り引きをしているわ。その王妃は我が子が王位につけるなら、属国になっても構わないらしいわ」
「こら、アリア勝手にバラすんじゃない」
「だって!今はまだいいけど、このままじゃバーンは殺されちゃうわ。少なくとも皇太子が皇位を継いだら終わりよ」
皇太子は現在まだ8歳。だが年齢は大した問題ではない。どうせ皇位についたところで宰相と皇妃が傀儡にするつもりなのだから。皇帝が皇帝でいられるのは、皇帝に求められる役目がまだあるからだ。
ふぅ、とエイトバーンは軽くため息を吐くとシーズクリフに向き合った。
「皇帝は戦以外に興味がありません。戦略を練り下準備をし自ら戦って勝利すること、それだけが生き甲斐でその他は宰相と皇妃の言いなりです。あなたの祖国を攻め落として属国とすれば、宰相と皇妃の望む形となります。そうすれば皇帝は用済み。毒殺か事故死するかもしれません」
どんなに鬼神と恐れられている皇帝だろうと、戦がなければ無用な存在だ。むしろ権力があるだけ邪魔だろう。戦場では不死身でも内から攻めれば脆い。
そうなる前に、何とかアリアローゼと一緒に宮殿を脱出しようと思っていたエイトバーンだが、思ったより残された時間は少ないらしい。こうなれば、この公爵令息の申し出は渡に船。いや九死に一生かもしれない。
「僕も、王国の属国化が完了すれば皇帝はすぐに消されると思います。僕は王国の属国化も、再び王国が戦火にまみえることも、辺境伯が窮地に立たされる事も、全部認められません。お互いの利益のために手を組みませんか」
力強く見返してくるシーズクリフの瞳に迷いはない。こんな優男な外見の割に随分と肝の座った目をしている。
「僕は自分の命はもはや国に捧げたつもりでいました。未来に何も希望の持てないこの僕でも役立てるならそれでいいと思っていました。でも、この後に及んでこの僕が辺境伯に窮地をもたらす存在になるなど我慢がなりません。彼女の命が無駄になるなど許せません」
彼女とは、亡くなった幼馴染の元婚約者のことだろうか。
仄暗い中、僅かに色味が見えるシーズクリフの紫の瞳に見えるのは激しい怒りだ。今まで微笑み以外の表情をせず一切の感情を覗かせなかったこの男に、こんなにも苛烈な感情が潜んでいたのかとエイトバーンは驚愕する。
胸元をぐいぐいと引っ張られる感触に目線を落とすと、アリアローゼがエイトバーンの寝巻きを両手で掴んで引っ張っている。こちらを見上げる金の瞳が言いたいことは聞かなくてもわかる。
「わかったよアリア。私達も覚悟を決めないといけないね」
エイトバーンの言葉に、アリアローゼの顔がぱあっと綻ぶ。演技ではない晴れやかな妹の笑顔を見れたのはいつぶりだろうか。
「ただ、先ほども言ったように私達には力もなければ協力者もいない。ただ、いつかここから逃げ出そうと思って準備していたものはある。とりあえず、あなたがここからいなくなれば危機は脱すると思うのだがどうだろうか」
エイトバーンの提案にシーズクリフは頷いた。
シーズクリフとしては王国というか辺境伯に影響さえ及ばなければいいのだ。そのためには我が身が利用されないようにここから離れる必要がある。
それに、王国からの賓客であるシーズクリフが帝国で行方不明となれば、手を組んでいる皇妃と王妃の関係に亀裂を入れることができるだろう。もちろん、落ち着けばまた別の手を講じてくるだろうが、今はそこまで対処する余裕はない。むしろ、無事にここから脱出できればそれに対する手立ても考えることができるだろう。
「ええ、僕もそれが妥当だと思います」
「えー!宰相と皇妃をこのまま放っておいてもいいの?皇帝がどうなろうといいけど、この帝国がこのままじゃ・・・」
不満そうに異を唱えるアリアローゼの背中を優しく撫でなでてエイトバーンは宥める。
「わかっているよアリア。でも、まずはここを脱出して自分たちの安全を確保してからだよ。それは」
アリアローゼは自らの膝に顔を埋めて葛藤している。事情はわかるし飲み込もうとがんばっているのだろう。エイトバーンにも妹の懸念はわかる。ここを脱出すれば身の安全は確保しやすくなるが、それは宰相と皇妃の企みに手出しができない場所まで遠のくということでもある。
多分、この城にいる人間の中で唯一、皇族としての自覚を持ち帝国のことを心配しているのがアリアローゼだ。正直、エイトバーンは面倒なことは嫌いだし皇族としての暮らしに未練もない。帝国なんてどうでもいいから、ただアリアローゼが幸せに暮らしてくれればいいと思うのだが、妹は納得しないだろう。
「さて、じゃあお互いにここから脱出するために協力しましょう。とは言え、そんなすぐに決行できるものじゃありませんから、まずはシーズクリフ殿を薬から守る方法を考えましょうか」
その夜、1本だけ持ってきていた蝋燭の火が尽きるのを見計らって3人は解散した。