公爵令息シーズクリフ
婚約者カルラの訃報を聞いた時の、両親の思わずほっとした顔をシーズクリフは見逃さなかった。
息子からの責めるような視線に気づき、2人は慌てて悲しそうな顔を取り繕ったが、シーズクリフは両親を睨み続けた。
でも両親の気持ちも理解できた。安堵も悲しみも正直な気持ちに違いない。
2人は善良で尊敬できる人柄だし、今回の問題についてもなんとか彼女に有利な状況を作ろうと手を尽くしてくれていたことはシーズクリフにだってわかっている。
両親にとって彼女は小さな頃から可愛がってきた子であり、義理の娘になる予定でずっと接してきた女の子だった。母など自分の子が男しかいなので、念願の娘ができるとそれは楽しみにしており、ここ数年は気が早いことに花嫁衣装の吟味をしていたのも知っている。
だが、これで大きな問題が片付いたのも事実だった。
すぐ様、彼女との婚約は事前に破棄されていたことになり、シーズクリフは喪に服する必要もなく、予め決まっていたかのように隣国の皇女との婚約が整った。
婚約者だったカルラの存在が急激に薄められ消されようとしていく様子に、シーズクリフはやるせない気持ちで心がねじ切れるほどの痛みを感じながらも、黙って耐えるしかなかった。
「これは妹の遺髪です」
カルラを弔うために訪れた辺境伯の屋敷にて、シーズクリフは三つ編みにされた一房の髪を受け取った。親指の半分ぐらいの太さで麦わら色の髪だ。この髪が風で広がり陽に当たると、柔らかな光を放つのをシーズクリフは良く知っている。
辺境伯領では、近しい人間が亡くなるとその遺髪をロケットペンダントに入れてお守りにする風習が昔からある。死亡前に婚約破棄したことになっている以上、本来シーズクリフに受け取る資格はないが、これは辺境伯からの心遣いだろう。シーズクリフはありがたく受け取ることにした。
辺境伯領は海沿いに断崖絶壁を臨む寒さの厳しい土地だ。春が近いにも関わらず、海風が轟々と吹き荒れては窓をガタガタと揺らしている。
曇天で薄暗く静かな部屋の中、吹き荒れる風の音がシーズクリフの行き場のない怒りと悲しみを表しているかのようだ。
「今回は不幸な事故でした。妹も心残りはあっただろうが、シーズクリフが幸せになってくれるのを妹は願っていると思う」
彼女の兄である辺境伯ハノンにそう言われ、シーズクリフは黙って頷いた。
鋼のような銀髪の剛毛を短く刈り上げ、シーズクリフの3人分はありそうな立派な体躯をした辺境伯も、唯一の兄弟を亡くした悲しみからかいつもより小さく見えた。
戦勝国である帝国の皇女がシーズクリフとの結婚を望み、それを受けるつもりがないシーズクリフと身を引くつもりのカルラは、最近ぎくしゃくしていた。
もう一度、2人でゆっくり話をしなければと思っていたのに、こんなことになるなんて。
シーズクリフとカルラが婚約したのは、シーズクリフが10歳、カルラが13歳の時だった。
公爵の次男であるシーズクリフと辺境伯の娘であるカルラは中立が求められる家の者同士、縁談にはちょうどよかった。
それに、外交で不在がちな両親がシーズクリフを辺境伯家によく預けたため、年齢が近い2人はいつも一緒に遊んだ。歳上でしっかり者のカルラはシーズクリフの面倒を良く見たし、シーズクリフもよく懐いていた。お互いに兄弟とは歳が離れていたため、実の兄弟よりよっぽど仲が良かった。
やがて、お互いに勉強や習い事が始まり頻繁に会えなくなったが、シーズクリフは週に1回は彼女に手紙を送っていた。他の人に言えば奇妙な顔をされたり相手にしてくれないような内容でも、カルラは真摯に向き合って彼女なりの言葉で返事をくれたし、歳上ぶったり綺麗な言葉で有耶無耶にしようとしないので、シーズクリフは安心して何でも手紙に書けた。
同年代の貴族子息たちとはどうも話題が合わずに孤独を感じることも多かったが、そんなカルラとの手紙のやり取りでシーズクリフは救われていた。
それから4年。17歳になったカルラは控え目ながらも芯が強く、辺境の地で育った力強さのある美しい女性に成長した。14歳のシーズクリフはやっと自分の恋心を自覚し始めた頃で、歳下の我が身を歯痒く思い、一刻も早く大人になりたいとよく思ったものだ。
そんなシーズクリフにカルラは笑ってこう言うのだ。
「シーズクリフはあっという間に素敵な男性になってしまうのだから、どうかまだ私の可愛いシーズクリフでいて欲しいわ」
可愛いなんて言われたくないシーズクリフは反発するのだが、それをまたカルラに可愛いと言われてしまい、やっぱり早く大人になりたいと思ったものだった。
後2年。シーズクリフが16歳になったら結婚するはずだったのに。
「シーズクリフ。わかっていると思うが、今回のことは決してあなたのせいではない。不幸な事故がたまたまこのタイミングで起こっただけだ。どうか、妹のことは気に病まずに自分の幸せを考えてくれ」
ハノンに言われなくてもわかっている。
もう、何を悔やもうがどうしようが、カルラは帰ってこない。それに、彼女と同じ灰碧色の瞳で見つめられたら、頷かざるを得ない。
強風に驚いて暴れた馬から投げ出され崖下に転落したカルラ。発見された時には息は既になく、恐らく即死だろうとの見立てだが、彼女は苦しまずに逝けただろうか。
ハノンが淡々とした様子なのも、シーズクリフの両親と同様に安堵した気持ちもあり、素直に悲しみだけに浸れない複雑な心中なのだろうと窺い知れた。
ここ3ヶ月というもの、公爵家も辺境伯家も悩んで困り果てていたのだから。
鬼神の異名をとり、多くの国を容赦なく落としては領土の拡大を続けるハイアーデ帝国。
次々と戦で破った国々を力づくで属国化しているものの、皇帝本人についてはその凄まじい強さと戦上手が語られるのみで意外に悪い噂は少ない。戦以外も優秀な側近が滞りなくやっているようだ。
ただ帝国にも問題の種がないわけではない。それが気まぐれな放蕩者として名高い「うつけ皇子」と、皇帝が目に入れても痛くないほど可愛がっている10歳の「我儘皇女」だ。
帝国が無茶を言い出す時は、大概が皇子の思いつきか皇女の我儘だ。どんなに理不尽な話でも、皇子皇女の望みが叶わなかったことなどありはしない。その望みには誰しも諾と答えるしかないのだ。国を守るためには。
それでも、シーズクリフと皇女との婚約が国の意向ではなく皇女の我儘でしかない以上、皇帝や宰相に話をすれば考え直してもらえるのではないかと悪あがきをしたシーズクリフだが、結果何も残らなかった。
シーズクリフが部屋から出ると、大きくて真っ白なふわふわした物体が待ち構えていた。
ふわふわはシーズクリフの姿を認めると、無邪気にワン!と鳴いた。
「ベアトリス。君のご主人は僕たちを置いていってしまったよ。寂しいね」
カルラの愛犬ベアトリスは尾を振りながら、嬉しそうにシーズクリフに体をなすり付けてくるばかりで、シーズクリフの悲しみが伝わっている様子は無かった。まだ、カルラがもういない事に気付いていないのだろう。いつものようにカルラの帰りを待っているのだろう。
「君をビーと呼ぶ人はいなくなってしまったんだよ。それでも、ベアトリスはカルラを待ち続けるのかな」
自分もきっとベアトリスと変わらない。僕もいつまでもカルラの死を理解できずに心のどこかで待ち続けてしまう。例え異国へ行こうが誰と結婚しようが。
皇女様に対して不誠実極まりないことを思いながら、シーズクリフは毛足の長いベアトリスの毛並みを両手でわしわしと撫でた。
ベアトリスは遊びたいのか、しきりにシーズクリフの袖を噛んで引っ張ったが、残念ながらベアトリスと遊んでいる暇はなかった。シーズクリフは弔いを済ますと早々に王都へ戻り、気が進まないながらも王城へと向かわなければならなかった。
「シーズクリフ!よく来てくれましたね。辺境伯令嬢のことは本当に何と言ったらいいものやら。ただ、辺境伯令嬢は国や民を思う優しい人柄であったと聞いております。あなたもぜひ、彼女の志を継いで国のために役目を果たしてちょうだいね」
悲しげなのは口調だけでいたって上機嫌な王妃に出迎えられ、シーズクリフは無機質な笑みを浮かべて礼をとった。
戦後でどこも金銭的に苦しんでいるにも関わらず、新調したと思しきドレスを纏っているのはどういうことなのだろうか。しかもたかだか貴族子息との面会のために。
「ハイアーゼ帝国の皇女様に望まれるなど、身に余る光栄でございます」
「そうだぞシーズクリフ。本来であれば王政に関わらないとの約束をしている公爵家の人間が、帝国と縁を結ぶなどあり得ないことなのだぞ。しかし帝国の皇女のたっての希望であるからな。やっと帝国との終戦に漕ぎ着けたのだ。くれぐれも皇女の機嫌を損ねるなよ」
同席の第2王子の口調は嫌味たらしい。自分が皇女に選ばれなかったことを妬んでいるに違いない。騎士団に所属しておりパリッとした騎士服を着ているものの、ひょろ長い体躯は制服に着られているようにしか見えない。騎士服の重厚さに完璧に負けている。
第2王子の嫌味はいつものことと笑顔で流していたシーズクリフは、続いた言葉に衝撃を受けた。
「辺境伯令嬢も惜しいことを。公爵家との婚約破棄となった憂き目を哀れに思い、私が新たな婚約者となる予定であったというのに」
なんだと?
この男は何の寝言を言っているのだ?
表情を崩さないように気をつけながら王妃を見ると、王妃も残念そうに頷いている。
シーズクリフは頭が沸騰するかと思った。
辺境伯家が中立の立場を維持するのに、長年に渡って細心の注意を払ってきたというのに何を言っているのだ。代々中立派の家系か自らの家臣からとしか決して縁組をせず、国防の要として中立を頑なに守ってきたというのに。王家の人間との縁組など!
だから、カルラは死んだのか?
シーズクリフは沸き上がった頭が急激に冷め、顔から血の気が引いていくのを感じた。
「戦争で年頃の男性が不足しているからのう。それに国の都合でそなたとの婚約破棄となったのを王家としては心苦しく思っていたのでな。王家と辺境伯の縁組など不釣り合いなのは承知ではあったが今回は特例として認めるつもりであったのだ」
王妃は完全にシーズクリフを見くびっている。
14歳の少年には王家の慈悲にしか聞こえないと思っている。
この機会に辺境伯家を取り込んで、王位継承権を我が子の元へもたらそうとしている王妃の下心など気づかれないと思っている。
辺境伯領の人間は、戦争において果敢に戦った。
そのため被害も甚大だった。
前当主は戦争で受けた傷が元で死亡。有力家臣も多く失った。
先日、爵位を継いだばかりのハノンは未だ独身。世継ぎ不在の今、辺境伯家の兄妹の結婚は最優先課題だった。だが、カルラとシーズクリフの婚約が破棄となれば、カルラの結婚相手となれるような人間は辺境伯領には残っていないはずだ。そして王家からのゴリ押しに対抗できるほどの力も残っていない。
このままでは、新しい婚約者を探す前に王家に取り込まれてしまうのは火を見るよりも明らかだ。
そして、シーズクリフがそれを知ればさらに躍起になり、我が身を顧みずに抵抗することもカルラはわかっていたことだろう。
ただでさえ、皇女との婚約を回避してカルラと結婚するためにありとあらゆる手を模索しており「自分を信じて待っていてもらえないだろうか」とカルラに手紙を送ったのはシーズクリフだ。
王妃と第2王子の会話に表面上は笑顔で受け答えをしながら、シーズクリフの心は海の底深くに沈んで行くようだった。
カルラは事故死じゃない。自死だ。
いや、僕が殺したようなものだ。