8話 雪女と妖狐の舞台の始まり
「うわ、本当にお客さんいっぱい……」
あと一週間と言っていた月日もあっという間に過ぎ去り、ついに来てしまった舞台本番の日。
雨美くんの予想通り、学内にある劇場には溢れ出さんばかりの観客が殺到し、瞬く間に全ての席が埋まった。
どうやら立ち見までも居るらしく、それを聞いた時はみんなどんだけキスシーンに飢えてんだよと思わず遠い目をしたものだ。
『皆様、本日は演劇部の舞台にお集まり頂き、誠にありがとうございます』
とはいえ、いつまでも現実逃避ばかりはしてられない。
既に姫の衣装へと着替えた私は、舞台の中央に立って観客席へと挨拶する部長さんを、九条くんや他の部員達と共に舞台袖から見守る。
「うう……、さすがに緊張するなぁ」
この日を迎える為に今まで頑張ってきたが、やはり実際に当日を迎えてしまうと、体にどっと重石が乗っかっているような気分だ。
キリキリと痛むお腹をさすりながら呟くと、後ろで九条くんが微かに笑う声が耳に届いた。
「分かるよ、正直俺も緊張してる」
「えっ!?」
あの九条くんが緊張!? 珍しい彼の表情が見れるかも知れないと、私は驚いて振り返る。
「……?」
しかし目に入ったその顔は、まるで緊張を感じさせない、いつもの涼しげな表情のままだった。
それに私の期待した気持ちは、一気にスンっと落ちる。
「うそ、全然平然としてるじゃん」
「嘘じゃないよ、本当にすごい緊張してる」
「ええ? 全然そう見えないけど?」
訝しんでじーっと見つめれば、九条くんはにこやかに笑みを浮かべてた。
その姿はやはり緊張とは無縁にしか見えない。
というか、煌びやかな王子服を身にまとっているせいか、むしろ普段よりキラキラ感が増してない?
「んんー? ちょっと確かめさせて!」
どこか納得いかない気持ちに突き動かされて、私は九条くんの胸に己の耳を押し当て、そば立てる。
すると私の行動に驚いたのか、九条くんが焦ったような声を上げた。
「ちょっ……、まふゆ!?」
「あ、」
――ドクドクドクドク
確かに心臓の鼓動が少し速いような……?
でも聞こえづらい。
もうちょっとよく聞こうと、胸に押し当てた耳を更に密着させようとしたところで、ぐいっと両肩を掴まれ、胸から引き剥がされた。
「あっ……!?」
「……どう? 俺が緊張してるって、確かめられた?」
「え、あ……、う、うん……」
困ったように言う、九条くんの頬がほんのりと赤い。
それにつられる様にして、私の頬も熱くなった。
「ちゃんと、確かめられた……よ」
「……そっか」
「ん……」
お互いそれ以上言葉が続かず黙り込んでしまう。
ヤバい、今更ながらに恥ずかしさがこみ上げてきた……!
九条くんが本当に緊張しているのか知りたい気持ちが先行して、つい大胆な行動を取ってしまった……!
――パチパチパチ
「!!」
頭の中でわたわたしていると、舞台から大きな拍手が巻き起こる。
どうやら部長さんの挨拶が終わったらしい。艶やかな濃紺の着物を着た部長さんが、舞台袖へと戻って来た。
「さぁ、いよいよ本番よ。準備はいい? まずは姫のシーンからよ! 副会長さん、みんな、よろしくねん!」
「はいっ!!」
いよいよ出番!
まださっきの余韻でドキドキする胸を落ち着けて、私はクリーム色のドレスを翻し、城の侍従役の部員達と共に舞台へと足を踏み入れる。
「――――っ!」
瞬間、大勢の観客が一斉に私を見て、無意識の内にゴクリと唾を飲み込んだ。
文化祭のステージや後夜祭の時の比じゃない、張りつめた空気。私の緊張はピークに達する。
「……まふゆ」
「!」
すると舞台脇から微かに私を呼ぶ声が聞こえ、視線をそちらに向ければ、九条くんと目が合った。
「頑張れ」
「……!」
それはほとんど声になっていない、小さな囁き。
でも私にはハッキリと聞こえた。
耳に届いた瞬間、体の強張りがホロホロと解けていく心地がする。
――嬉しい。
緊張は解けたというのに、心臓はいまだドキドキと高鳴ったままだ。
これではまるで先ほど聞いた九条くんの心臓の音のよう。
そこまで考えて、九条くんも緊張じゃなく、私にドキドキしていたのだったらいいのになぁ。
なんて思った。
◇
『どうしてわたしは半妖なのかしら? 万が一この耳と尻尾が城外の者に知られてしまったら、その時わたしは……』
朱音ちゃんが仕上げた渾身の姫の部屋のセットを背景に、私は何度も練習を重ねたシーンを演じる。
初めての読み合わせの時はたどたどしいと指摘されたが、今ではすっかり感情を込めて台詞を発することが出来るようになった。
『ああ姫様、お労しや』
『ありのままの姿で外を出歩くことが叶わないとは、なんと不憫な』
侍従に扮した部員さん達も以前から上手かったが、更に演技に磨きがかかっていてすごい。
チラリと観客席に目線をやれば、みんなすっかり物語に入り込み、舞台に見入っているのが分かる。
あ、夜鳥くんに雨美くんだ。それに木綿先生もいる。
みんな本当にちゃんと観に来てくれたんだなぁ。
何故か彼らの横に部長さんも座っていて、それもなんだか笑いを誘う。
――パチパチパチパチ
見知った顔ぶれが居たことで少しずつ私の心にも余裕が出てきたところで姫の場面が終了し、大きな拍手の中、舞台が暗転する。
次は王子様のシーン、九条くんの出番だ。
「お疲れ、すごく良かったよ」
「ありがとう。最初めちゃくちゃ緊張したけど、九条くんのお陰で落ち着けたよ」
舞台袖で囁くように言い合って、舞台へと出ていく九条くんの後ろ姿に「頑張れ」と小さく声を掛けて見送る。
すると……、
「きゃあああああああっ!!!」
「神琴さま素敵ぃぃぃーーっ!!!」
「王子様姿、神々し過ぎるうううう!!!!」
舞台に九条くんが現れた途端、黄色い悲鳴がまるで爆発したかのように観客席のあちこちから上がった。
それにチラリと舞台袖から観客席を覗くと、中には王子様ルックな九条くんを見て意識を失ったと思しき女子も確認出来た。
相変わらず九条くんはものすごい女子人気なんだなぁ……。
「今更だけど私……。九条くんと恋人役なんてしたら、いよいよ命が危ないんじゃ……?」
「ええー? それはないよぉ」
「!」
女子達の刺すような視線を思い出し、ぶるっと寒気をもよおしていると、不意にクスクスと笑い声がして慌てて振り返る。
すると目の前には、調光室で舞台照明を担当しているはずの朱音ちゃんが立っていた。
「あれ? 朱音ちゃん? 調光室の方には居なくていいの?」
「うん、今はちょっとだけ他のみんなに任せて休憩。はい、お水」
「あ、ありがとう」
水筒から紙コップに注がれた水を受け取って、ゴクリと一気に飲み干した。
どうやら自分でも気づかない間に喉がカラカラになっていたようだ。
「おかわりいる?」
「あ、うん」
とぷとぷと空の紙コップに注がれる水を見ていると、朱音ちゃんが「そうそう」と話し出した。
「さっきの話だけどね。まふゆちゃんが命を狙われたりすることはないよ。例の退学騒動の件で、みんなまふゆちゃんのことは一目置いてるもん! そもそもまふゆちゃん以上に神琴様とお似合いの人なんて存在しないんだから、文句のつけようも無いんだけどね!」
「いやいや、それは買い被り過ぎだよ……」
朱音ちゃんが褒めてくれるのは嬉しいが、さすがに持ち上げられ過ぎて恥ずかしくなる。
「あ、その顔本気にしてない? でも本当のことなんだよ! それにまふゆちゃんの命を狙うなんて輩が万が一現れたとしても、その前にわたしが完膚なきまでに叩きのめすから安心してねっ!!」
「そ、それはなるべく最終手段でお願いしたいかなぁ……」
まるで天使のように可憐に微笑む朱音ちゃん。
しかしその手には黒い妖力が禍々しく揺らめいていて、私は乾いた笑みを浮かべるしかない。
時折暴力ちっくな面を仄見せる朱音ちゃんも可愛いが、やっぱり普段のほんわかした彼女のままでいてほしい……かな。
「――あれ? 朱音?」
「あ、神琴様! お疲れ様です!」
と、そこで王子のシーンを終えた九条くんが舞台袖へと戻って来た。どうやらすっかり朱音ちゃんと話し込んでしまったらしい。
朱音ちゃんはまた水筒から紙コップに水を注ぎ、今度は九条くんに手渡した。
「はい、どうぞ神琴様。たくさん台詞をしゃべりますし、水分補給はキッチリしてくださいね」
「ああ。ありがとう、朱音」
「じゃあまふゆちゃん、わたしはそろそろ調光室の方に戻るね。この後も応援してるから、頑張ってね!」
「うん、ありがとう! 朱音ちゃんも頑張ってね!」
パタパタと去っていく後ろ姿に手を振ると、そこで不意に綺麗な歌声が私の耳に届いた。
「――――――」
「あ、この声」
「魚住さんだね」
反対側の舞台袖にスタンバイしていたカイリちゃんが、今は舞台の中央で情感たっぷりな歌声を響かせている。
「うふふ。やっぱりカイリをスカウトしたのは大成功だったわね」
「あ、部長さん」
ちょうど朱音ちゃんと入れ違いに舞台袖にやってきた部長さんが、舞台を覗き込んでそっと呟く。
「カイリの歌を初めて聴いた時は衝撃だったわ。こんなに美しい歌声の持ち主と一緒に舞台をやりたいって衝動が、アタシの体中を駆け巡ったの」
「はい、そう思うのも分かります」
やっぱりカイリちゃんの歌はすごい。
その姿は初舞台とは思えないくらいとても堂々としていて、観客達もうっとりと聞き惚れているのが見えた。
それになんだろう。上手く言えないが、以前聞いた時以上に声に張りがあって、歌に力がある。
表情もイキイキとしていて、見ているこっちまで楽しい気持ちになってしまう。
『ありがとう、まふゆ。アンタのお陰で、やっとあたしも前に踏み出せそうだ』
もしかしたらあの時の彼女の心境の変化が、歌にも良い影響を及ぼしたのかも知れない。
そう考えて微笑んでいると、「ああ、そうだわ」と部長さんが声を上げた。
「この先しばらくは国民のパートが続くし、生徒会長さんと副会長さんはお手洗いに行くなら今の内よ。その後はラストまで王子と姫は出ずっぱりだからね」
「なら俺、行っておこうかな」
「あ、うん」
そう言って九条くんが舞台袖から去って行くのを見送る。
「……?」
しかしチラリと見えた横顔が、どことなく苦し気に見えたのは気のせいだろうか?
心なしか朱音ちゃんから貰った紙コップを持った手も、小刻みに震えてるような……?
「…………」
――でも、氷の妖力が必要な時は九条くんはすぐ私に言うし、今も発作を起こしているようには見えなかった。
きっとさすがの九条くんも、慣れない舞台で疲れたのだろう。
そう結論づけて、私は舞台に視線を戻したのだけれど……。
私はこの時の選択をすぐに後悔することになる。
◇
「あのっ! 九条くん、まだ戻って来ないんですか!?」
「ええ、一体どうしたのかしら……?」
私の言葉に部長さんが困惑したように頷く。
順調に進んでいた舞台に、ここに来て初めて問題が発生した。
先ほどお手洗いに行ったきり、いつまで経っても九条くんが戻って来ないのだ。
本当にどうしたというのだろう?
まさか何かトラブルにでも巻き込まれたんじゃ……?
先ほど少し様子がおかしかったことを思い出し、今更ながらに声を掛けなかったことを悔やむ。
「私、探してきます……!」
「いいえ、副会長さんはもう出番だし、ここを離れないで。今、朱音が探しに……」
「まふゆちゃんっ!!」
「朱音ちゃん!?」
部長さんから名前が出た瞬間、当の朱音ちゃんが血相を変えて舞台袖に飛び込んで来た。
そしてその勢いに驚く間もなく、朱音ちゃんは荒い息のまま私に抱き着く。
「!? 一体どうしたの、朱音ちゃん!? 九条くんは――……」
〝見つかったの?〟と問おうとして、言葉が詰まった。
何故なら朱音ちゃんのチョコレート色の瞳が、涙で濡れていたからだ。
ただならぬ様子に嫌な予感がして、ドクンドクンと心臓が早鐘のように騒がしくなる。
すると涙で顔をぐしゃぐしゃにした朱音ちゃんが私を見上げ、唇を震わせて叫んだ。
「神琴様が…、神琴様が大変なの!! まふゆちゃん、すぐに着いて来て……っ!!」




