22話 雪女と妖狐と近づく二人の距離
九条くんに誘われ、ゴムボートに乗った私。
速すぎず遅すぎず。ちょうど良い速度で海をゆっくりと進んでいく。
「あ、スゴい! このボート、床が透明なってる!」
「そうなんだ。まるで海の上に座っているみたいだよね」
「うんっ!」
ボートの床を興味深く見つめれば、オールを漕いでくれている九条くんがクスリと笑う声が耳に届いて、ドキリと鼓動が跳ねた。
「潮風が気持ちいいね。海面に空が映って、まるで飛んでいるみたいだ」
「う……うん。そうだね」
潮風が九条くんの白銀の髪を涼しげに揺らす。
思わずその姿を凝視すれば、「あ」と九条くんが声を上げて、私の方へと体を動かした。
「まふゆ、あれ熱帯魚の群れだよ」
「えっ……? あっ、ホントだ!!」
九条くんの指差す方向には、確かに色とりどりの熱帯魚の群れが泳いでいるのが見えた。
その姿はとても可愛らしくて、心が癒されていくのを感じる。
けど……。
――近いっ!! 近過ぎるんですがっっ!!?
互いの顔がすぐ横に並んで頬が触れ合いそうな距離感に、心臓がバクバクと早鐘のように高鳴る。
「あ、見てまふゆ。あっちの群れ、黄色に青にピンクだ。まるで夜鳥と雨美と朱音みたいだね」
「あーホ、ホントだっ! 可愛いっ!!」
だ、だから近いってぇ〜〜っ!!!
二人きりで乗ることに頷いたのは私だけど、やっぱり九条くんの行動はいちいち凶器過ぎる……!
普通にって思うけど、〝普通〟ってどんなだっけ!? 私って、今まで九条くんにどんな風に接してた!?
「~~~~っ!!」
錯乱する頭がプスプスとオーバーヒートしかける。
――そんな時だった。
「ありがとう、まふゆ」
「えっ?」
いきなりお礼を言われたことに驚いて、私は思わず九条くんの顔を見る。
しかし九条くんは、海を泳ぐ熱帯魚の群れに視線を向けたまま。
「ティダに行く時、俺を誘ってくれたこと。そのせいで君には負担を掛けてしまってるけど、お陰で初めて見る景色や体験が出来て、本当に来てよかったと思ってる」
「負担なんて……、私が強引に誘ったんだから、そんなの気にしなくていいのに。でもよかった、九条くんがティダを気に入ってくれて」
「うん」
九条くんが頷いて、静かに瞳を閉じる。
すると柔らかな潮風がまた私達の髪を揺らした。
「――まふゆ」
「ん?」
呼ばれて返事をすれば、九条くんが瞳を閉じたままポツリと呟いた。
「不思議なんだ。ティダに来るのは本当に初めての筈なのに、この海を俺は前にも見たような気がする」
「それって……」
九条くんの言葉に、前に立ち寄ったソーキそばのお店でのことを思い出す。
あの時も九条くんは『以前に見たことがある』と話していた。
結局、あの時は何かと記憶が混同しているのでは? という結論で話は終わったけど、一度ならまだしも二度もだなんて。
やっぱり九条くんは以前ティダへ来て、それを忘れているということなんだろうか……?
「例えばうんと小さい頃に来たことがあって、ハッキリした記憶がないとか?」
「確かにそれもあり得るのかな? ……でもそれなら本当に不思議なんだ。俺は幼い頃から葛の葉に屋敷の外へ出ることを、固く禁じられていたから」
「え……」
思いがけないことをサラリと明かされ、私は小さく息を呑む。
「禁じられって……、じゃあ学校はどうしてたの?」
「屋敷に家庭教師を呼んでって、感じかな。だから旅行の類いは本当にしたことがない。だからもしあるとしたら……それは5歳以前の話だと思う」
「5歳?」
妙に具体的な年齢を出されて、私は首を傾げる。
しかしあのトンデモ当主。退学騒動を経て今更驚きもないが、いくら九条くんが病で臥せってることが多かったとしても、外に出ることまで禁じるのはやり過ぎじゃないだろうか?
九条くんを見ていれば、本来家に閉じこもるよりも外に出るのを好むタイプだと分かるだろうに……。
「でもなんで5歳?」
「俺は5歳以前の記憶がぽっかり無いんだ」
「え……」
それは本当に幼い頃なのだし、無くても無理もないような? でも丸々記憶が抜けてるっていうのは変か……。
特に禁じられている外に。
あまつさえ帝都から遥か離れたティダまで来てたのなら、その痛烈な記憶を丸ごと忘れてしまうのは確かに不自然だ。
「何故かな? こうしてここで潮風に吹かれていると、頭に色々な光景が浮かんでくるんだ。ソーキそばの店に体験工房。城の見学、それに海。全部まふゆ達と行った筈なのに、頭の中の俺は知らない大人と一緒で、俺はその人のことを――……、っごほ!」
「九条くん!!」
突然激しく咳込み始めた九条くんに、私は慌てて手に妖力を込めて彼の背中をさすった。
どれくらいそうしていただろう?
しばらくして少しずつ、彼の苦しげな呼吸音はいつもの穏やかなものへと戻っていく。
「はぁ……、……ごめん」
「もーっ! 謝るのは無しって、いつも言ってるのに!」
「……そうだったね。ありがとう、まふゆ」
ムッとした表情の私に、九条くんが淡く微笑む。どうやら完全に発作は落ち着いたみたいだ。
ひとまずホッとするが、しかしお城の時といい、やっぱり以前よりも発作を起こす頻度が増えている気がする……。
『どうやら随分と病の進行が早いようだ。そなたの妖力でなんとか凌いでおるが、これはアイツの時以上か』
『私の友人は……。〝紫蘭〟は、今は――……』
皇帝陛下のあの言葉。
アイツの時以上。
陛下の言う〝アイツ〟が恐らく紫蘭さんという名前なんだろう。
ということは、九条くんはその紫蘭さんという人よりも――。
「……まふゆ?」
「!」
九条くんに名前を呼ばれて、ハタと我に返る。
いけない、またぼんやりしてしまった!
「あ、ごめっ……!」
そして慌てて顔を上げた瞬間……。
「~~~~っ!!」
また私は声にならない悲鳴を上げた。
――近いっ!! さっきよりも更に近いっ!!
先ほどまで閉じていた九条くんの瞳は開かれて、琥珀色に煌めく金の瞳が間近で私を捉えている。
それだけでももう倒れそうなのに、更に九条くんの背中に置かれたままの私の手。
その手から伝わる、常とは違う滑らかな手触りの意味するところは……!?
ぎゃあああ!!! わっ……私、ずっと九条くんの裸の背中をさすってた!? いや、いやいやいや! 無意識だし! 無意識だったからっ!! 九条くんを助けたい一心であって、決して! 決っっして、やましい気持ちだった訳じゃ……っ!!
――て、やましいって、何考えてんの私!!?
「ごっ、ごごご、ごめんっっ!!!」
もはや内心大パニックで、背中から手を離して叫ぶ。
そしてなるべく九条くんから距離を取ろうと、小さなボートの端へと勢いよく後退した時だった。
「ぎゃあっ!!?」
「まふゆ!?」
端に寄り過ぎて体勢を崩した私の体がぐらりと揺れ、そのまま海へと投げ出されそうになる。
――落ちるっ!!
ぐらりとボートの外へと傾く体。とっさに目をつぶって海にダイブすることを覚悟する。
「……?」
だがしかし、いつまで経ってもその衝撃が訪れることはない。
不思議に思って、固く閉じた目をそっと開くと……。
「まふゆ、大丈夫?」
「へ……?」
目の前に飛び込んで来たのは、心配そうに私の顔を覗き込む九条くん。
眉を寄せるその表情すら、一枚の絵のように美しい。
そんな美しいご尊顔が、何故か私を真っ直ぐに見下ろしている。
「え???」
状況が飲み込めずに視線をウロウロと彷徨わせ、そして――。
「〜〜〜〜〜〜っっ!?!?」
状況を理解した瞬間、ボンッ!! と火山が爆発するかの如く、私の頭も噴火した。
な、なんでぇ!? どうして私ってば、九条くんに押し倒されてんの!?
冷静に考えれば、海に落ちかけた私を助けようとした拍子に偶然そんな体勢になったのだと分かるのだが、いかんせん今の私の思考力はゼロに等しい。
ひたすらこの状況に混乱し、顔を赤くするばかりだ。
「く……、く……、くじょ……く……」
「大丈夫、まふゆ?」
それでも足りない思考でなんとか九条くんと距離を取ろうと口を動かすが、あまりの動揺で唇が震えて上手く言葉に出来ない。
「……し……て」
「え、何?」
「……っ!」
〝体をどかして〟と言ったのが伝わらなかったのか、ますます九条くんが体を寄せて聞き返してくる。
なんでそうなるの~~ッ!!?
「まふゆ?」
「…………して」
「え?」
ひえぇぇぇぇ!! 近いっ!! 近いよぉぉぉ!!!
もはや息遣いまで聞こえそうな距離に、まさか私を揶揄う為にわざとやってるんじゃないのかと涙目になる。
すると九条くんは驚いたように目を見開いて、私を見下ろしたまま固まった。
……え、何?
そして何故かそのまま視線を逸らされることなく、体がより私に近づいてきて――……。
「~~~~っ!?」
ななななんでぇ!? 離れるどころか、もう肌と肌が触れ合いそうなんですけど!!?
恥ずかし過ぎて、もう九条くんを直視出来ない……!!
心臓が破裂しそうに高鳴って、思わずぎゅっと固く目をつぶった時だった。
――ふに。
「……え?」
唐突に何か柔らかいものが額を掠める感触がして、思わずパチっと目を開ける。
すると私を見下ろしていた筈の九条くんは、いつの間に起き上がったのか、私に背中を向けて海を眺めていた。
「??」
なに……? 今の感触……?
ボートに仰向けに倒れたままの体勢で、私は右手を上げてそっとおでこに触れる。
「まふゆ、あんまりボートの上で動いちゃ危ないからダメだよ」
「あ、う、うん! ごめんっ、気をつける!!」
背中を向けたままの九条くんにそう注意され、私は慌てて起き上がった。
そして海を見つめる九条くんのその後ろ姿をちらりと窺うが、見た感じはいつもと変わりない。
じゃあさっき額に感じた、柔らかな感触は一体――?
「げあぁぁぁぁぁーーっ!!!」
「!?」
と、そこで突然間の抜けた絶叫が砂浜から聞こえて、ハッとそちらへと視線を走らせる。
すると何やら砂で埋められていた木綿先生が騒いでいるのが見えた。
もしかして夜鳥くん達のサンドアートとやらが、完成したのだろうか?
「ああっ! せっかく作ったんだから動かないでくださいっ、木綿先生!」
「えええ!? じゃあ僕、ずっとこのままなんですかぁ~~!?」
「いいじゃん、そのまんまで。ていうか雪守ちゃんと九条様はどこに行ったんだろ?」
「あ? そういや見かけねぇな」
みんなの騒がしい声がここまで聞こえてくる。
どうやら私達がいないことに気がついたらしい。
ボートはもう十分過ぎるほど満喫したので、そろそろ戻った方がいい頃合いだろう。
「そろそろ戻ろうか」
「うん、そうだね」
同じことを考えていたのか、九条くんがそう言う。
それにこくんと頷けば、ボートはゆっくりと砂浜に向かって動き出した。
頬にあたる潮風が火照った体を冷ますようで気持ちいい。
ふぅと息をついて、オールを漕ぐ九条くんの背中を見つめる。
「……あ、」
オールを漕ぐ腕の隙間から微かに覗く、九条くんの横顔。
それが赤く染まっているように見えたのは気のせい? それとも……?




