32話 九条神琴(1)
俺の記憶は5歳から始まる――。
「そなたが神琴か。妾は九条葛の葉、妖狐一族の当主じゃ。今日からそなたの母になるが……呼び方は葛の葉でよい」
そう言って目の前に現れたのは、両眼を黒いレースで覆い、長い黒髪に黒い着物を着た、自分とたいして年の変わらない女の子。
母と呼ぶには幼過ぎるが、その達観した態度と老成した話し方は、幼子のものとはとても思えない。
そんな見た目と中身が相反する、異様としか言いようのない存在に導かれて。この時から俺は、広大な寝殿造の屋敷に住むことになった。
◇
「ばあや! 今度はこれを読んで!」
「神琴様は本当に本がお好きですね」
「うん! だってぼく外に出られないから、その代わり本をたくさん読んで、もっと外のことを知りたいんだ!」
俺の言葉にばあやが困ったように微笑んで、本を読み聞かせてくれる。
あの初対面での挨拶以来、葛の葉は俺の前に姿は見せず、子守役だと言って真っ白な髪の老女を寄越してきた。
老女は俺に「ばあやと呼んでください」と頭を下げ、それからは食事の世話から遊び相手、更に寝かしつけに至るまで、俺の世話は全てばあやがするようになる。
優しく甲斐甲斐しいばあやに俺はすっかり懐いて、屋敷の書庫から気に入った本を見つけては、ばあやに読み聞かせをねだるようになっていた。
「お外に出られたら、どんなに楽しいでしょうにね」
俺に読み聞かせをしながら、ばあやがポツリと悲しげに呟く。
「…………」
しかしそれは叶わないことを、俺自身がよく知っていた――。
◇
「神琴様! 息をきちんと吸ってください! 大丈夫、大丈夫ですよ! すぐに良くなりますからね!!」
「はぁ……、は……」
ばあやが叫ぶように言い、幼い俺の手を固く握りしめる。意識は朦朧とし、発熱のせいか呼吸もままならない。
物心がついた頃から発作的に起きる謎の症状。それが起きる度に、俺は何度も死の恐怖を感じた。
いつだってばあやは側について俺を励まし、必ず治ると言ってくれる。けれど決して医者を連れて来ることはなく、ひたすら発作の波が鎮まるまで俺を宥めるだけだった。
『そなたのその病。下手に外に出て他の者達に知られると面倒だ。外に出ることは決して許さぬ。そなたは妾の跡を継ぎ、この妖狐一族の当主となる者だということ、ゆめゆめ忘れるでないぞ』
一度だけ、外に出たいとばあやにわがままを言ったことがある。しかし次の日、久方振りに俺の前に現れた葛の葉に、そう釘を刺された。
当主になど、なりたくもないのに。
こんな病を好きで患っている訳でもないのに。
「う、ううっ……!」
どうにもならない悔しさをどこにもぶつけることが出来ないまま、ただ俺は泣くことしか出来なかった。
◇
「あのピンク色の髪の女の子は誰?」
いなり寿司を頬張った口をモゴモゴと動かし、俺は以前から気になっていた存在について、ばあやに聞く。
「あの子は神琴様の〝護衛〟です。まだ幼く未熟ですので、ああやって姿を見せてしまうこともありますが、本来護衛は神琴様の視界には一切入らないようにするものなのですよ」
「ふぅん」
天井裏から同い年くらいの女の子が、こちらをジッと凝視しているのが見える。その姿は護衛というよりも、監視と言った方がしっくりくるのだが。
「あの子もいなり寿司が食べたくて、忍び込んで来たのかと思ったよ」
「ふふ。神琴様はいなり寿司が本当にお好きですね。美味しいですか?」
「うん! ばあやの料理はなんでも美味しいけど、いなり寿司は別格だよ!」
俺が屋敷に来たばかりの頃から、ばあやがよく作ってくれたのがいなり寿司だった。
ばあや自身の好物なのだと言って出してくれた油揚げが裏返しになっているそれは、なんとも素朴で優しい味で、俺も一瞬でいなり寿司が好物になってしまった。
「まだまだありますからね。たくさん食べてくださいね」
「うん!」
パクパクといなり寿司を口に入れながら、いつかあのピンク髪の子とも話せたらいいなと、考えていた。
◇
7歳になり、本格的に妖狐一族当主となる為の勉強が始まった。
「素晴らしいです、神琴様。どの教科も全て満点だなんて。葛の葉様もさぞやお喜びになりますよ」
「そうかなぁ……」
ばあやはそう言うが、俺にはとてもそうは思えなかった。屋敷に来て早2年。その間に葛の葉と顔を合わせたことは、指で数える程しかない。
まるで俺の存在を無いもののように振る舞う反面、俺に当主となることを強要してくる。
それにそもそもの疑問があった。
「何故葛の葉は、ぼくを当主にしたいの? 葛の葉には本当の子どもはいないの?」
何故俺なのか。
実子がおらず優秀な本家筋の子どもを養子にしようとしたのだとしても、原因不明の病を患っているの時点で、俺では体調面で当主として不適格だ。
それなのに葛の葉は俺を切り捨てること決してなく、当主としての教養を学ばせようとする。
それが何故なのか、どうしても分からなかった。
「葛の葉様のお子様は、神琴様ただお一人です」
するとばあやが俺と目線を合わせ、言い聞かせるように俺の手を握る。
「ご当主となる資格のある者は、神琴様以外にはおりません。二度とそのようなことを口にしてはなりません」
「……うん」
目を潤ませて、今にも泣いてしまいそうなばあやの顔を見た俺は、彼女が何か隠している。そう気づきながらも、それ以上何も言えなくなってしまった。
◇
それから更に3年経ち10歳になった俺は、変わらず発作的に現れる症状に悩まされながら、ひたすら屋敷の中で勉強と読書を繰り返していた。
いつものように書庫から気に入った本を選び出し、腕いっぱいに抱えて自室に戻るべく渡り廊下を進む。
ふと空を見上げれば、雨上がりの青空に虹がかかっていて、俺は足を止めてしばし見入る。
――本来、10歳の子どもは小学校に通うものだ。しかし外へ行くことを禁じられている俺は、どこかの著名な学者だとかいう家庭教師をつけられ、学校に通うことは叶わなかった。
学校がどんな場所かは知っている。読んだ本の中には生徒会長が主人公の学園小説もあったからだ。
主人公が生徒会の仲間たちと共に学校を次々と改革していく物語はとても痛快で、何度も何度も夢中で読み返したのは記憶に新しい。
「仲間……か」
この頃の俺には、学校に通うことが叶わないなら、せめて同年代の子と話してみたいという好奇心があった。
屋敷の中には大勢の侍女が働いており、その子ども達が屋敷内で集まって遊んでいるのを何度か見かけたことがある。しかしみな一様に俺を遠巻きに見てくるだけで、話しかけられたことは一度も無い。
養子とはいえ当主の息子だからか、はたまた単に俺が嫌われているだけなのかは分からない。
だが好奇心を持ちながらも結局は、屋敷に来て5年が経過した今でも、俺の話し相手はばあやしかいなかったのである。
そこでふと、あのピンク色の髪の女の子が脳裏に浮かんだ。
「……名前は、〝朱音〟だっけ」
ばあやが言った通り、以前はこちらの視界に度々入ってきた彼女であったが、数年経った今では完璧にその姿を隠している。
今もきっと、こちらを監視しているのだろうが、俺には気配すら探ることは出来なかった。
「いつか話せるといいんだけど」
そう俺が呟いた時だった。
「わぁかわいぃー!! その髪飾り、どうしたの!?」
噂をすればなんとやらだろうか?
渡り廊下の向こうにある中庭から、何やら賑やかな声がする。俺がその声に釣られて見れば、侍女達の娘である同い年くらいの少女二人が、楽しげに話していた。
「いいでしょ? お母さんに作ってもらったんだ」
「いいなぁー。わたしもお母さんに作ってって、頼もうかなぁ」
「でもそっちだってその靴すごくかわいいよ」
「あ、これね。お父さんが誕生日祝いに買ってくれたんだー」
お母さん。お父さん。
それはどちらも自分には縁遠い言葉で。
「…………っ」
そう思った途端に、楽しそうに話す少女達を見ていられなくなり、俺は足早にこの場所を去った。
「……え? 神琴様のお母様とお父様ですか?」
「そう。本当のぼくの両親。ばあやは何か知らない?」
自室に戻って早々、おやつを用意していたばあやに思い切ってずっと気になっていたことを聞いてみた。
しかし案の定、ばあやは目を泳がせ困ったように何も言えないと首を振る。
何も知らないではなく、何も言えない。
それがどうしようもなく苛立つ。
「だったら誰に聞いたら答えてくれる? 葛の葉?」
「神琴様」
「どうしてぼくはこの屋敷に連れて来られたの? どうしてぼくは養子になった? ぼくは、本当の両親に捨てられて――」
「神琴様っ!!!」
まるで泣き叫ぶようなばあやの声に、俺はハッと我に返る。こんなことをばあやに言うつもりはなかったのに、やってしまった。
「…………ぼく」
バツが悪く、恐る恐るばあやを見上げれば、ふいに体が柔らかいものに包まれる。それがばあやに抱きしめられているのだと、しばらくしてから気づいた。
「ばあや?」
「神琴様、貴方様が捨てられたなどと、そんなことは絶対にありませんっ!! 紫蘭様も、姫様も、あなたを愛して――……」
「〝紫蘭〟?」
聞き慣れない名前に思わず聞き返す。
するとばあやはハッとしたように口元を押さえると、一気に顔を青ざめてガタガタと震え出したのだ。
「ねぇ、ばあや?」
そうしてそのまま俺が何度聞いても、答えは返って来ることは無かった。
◇
「おはようございます、神琴様」
「え……」
ばあやに本当の両親のことを問い詰めてしまった日の翌朝、俺を起こしに来たのはばあやでなく、狐面の侍女だった。
何故? この5年間一度だって、ばあや以外が俺を起こしに来たことは無かったのに。
「ばあやは?」
これほど胸騒ぎに揺れた瞬間があっただろうか?
侍女が言葉を発するまでの時間が永遠にも感じられた。
そして――。
「昨晩から姿を消しました」
瞬間、俺は息が止まるほどの衝撃を受けた。
そこからのことは覚えていない。
次に気がついた時には、真っ暗で冷たい石造りの壁で出来た部屋で、俺は転がっていたのだ。
次回が第一章本編ラストです。




