20話 雪女と妖狐と梅雨の日(2)
「あれ? まふゆちゃん、今日は生徒会お休み?」
「うん、久々にね。そういう朱音ちゃんは、今から部活?」
放課後。寮で勉強しようと教室から廊下に出たところで、ちょうど画材をたくさん抱えた朱音ちゃんに出くわした。
文化祭以降、自分の絵をもっと色んな人に見てほしくなったと話した朱音ちゃんは、美術部と演劇部に入部して毎日楽しそうに部活に精を出している。
「今日は演劇部で新しい舞台のセット作りをするんだよ。部長さんが脚本をすごく張り切って書いていてね、完成したらまふゆちゃんにも是非観に来てほしいな!」
「うんっ、絶対観に行く! 今から楽しみだなぁ」
舞踏会で知り合った、野太い声と大柄が特徴的な女性を思い浮かべる。あの部長さんがどんな脚本を書くのか興味があるし、きっとさぞや素敵な舞台となることだろう。
そうして軽く話した後、「また明日ね」とパタパタと走って行く朱音ちゃんを手を振って見送る。
「はぁ……」
振った手を下ろすと、自然と溜息が漏れた。
朱音ちゃんもみんなも、ちゃんと前に進んでいる。
なのに私だけが同じ場所に取り残されたような……、そんな気分だった。
◇
「ただいまー」
寮生活になってもティダにいた頃の癖で、つい「ただいま」と言ってしまう。しかし誰もいないこの部屋では、当たり前だが誰の返事も返ってこない。
「なんか寂し」
ティダにいた頃は、毎日お母さんが「おかえり」と言いながら豪快に笑っていた。なんだか無性にお母さんに会いたくなる。
今更ホームシック?
それともずっと降り続く雨が、こんなにも感傷的な気持ちにさせるのだろうか?
「ふぅ……」
部屋着に着替えて、帰りに学食でテイクアウトしたソーダを口に流し込んで一息つく。
時計を見れば、九条くんが早退して既に5時間が過ぎていた。
今何しているだろう? まだ用事は終わっていないのかな?
「木綿先生もはぐらかして、肝心なことは教えてくれないし……」
思い出して、私は溜息をつく。
実は4限の授業が終わった後、教室から出て行く木綿先生に、思い切ってあの舞踏会での呟きについて尋ねてみたのだ。
『え? 舞踏会で僕が言っていたこと……ですか?』
『はい。先生、あの時言っていましたよね? 〝皇族に縁あるうちの高校に妖狐一族の嫡男が入学することは反対された〟って。どうして妖狐一族だと反対されるんですか? 前に夜鳥くんが九条家には〝黒い噂〟があるって言っていたんです。もしかしてそれと関係があるんですか?』
聞きたいことを一気に言い切れば、木綿先生は困ったように微笑んだ。
『うーん、夜鳥くんにも困ったものですね。黒い噂というのは、貴族たちが面白おかしく流した与太話のようなものです。雪守さんが気にすることではないですよ』
『じゃあ、どうして妖狐一族が――』
『それも君は知らなくていいことです。……虫のいい話ですが、君には何も知らず彼に寄り添ってほしい。そう君達を引き合わせた者として、思ってしまうんですよね』
『……?』
一線を引かれたようにも感じる言葉なのに、私を見つめる木綿先生の表情はひどく優しい。
でも、これ以上問い詰めても木綿先生が話してくれることはない。
そう悟った――。
「はぁ……」
思い出してまた溜息が出た。本日何回目だろうか?
溜息の数だけ幸せが逃げるなら、私は不幸まっしぐらだなと軽く笑う。
「勉強しよ」
今出来ることなんて、結局それぐらいしかない。
私は参考書を引っ張り出して、問題を解き始める。
「…………」
そうしている内にいつの間にか没頭していて、悩んでいたことも雨音と共にかき消されていた。
◇
「……ん? あ、今何時?」
ハッと集中が途切れて時計を見る。
「うわっ、もう日付変わる」
途中、寮母さんの作った夕飯を食べたり、お風呂にも入ったりしたが、それ以外はずっと勉強していた。随分と没頭してしまっていたらしい。
「あ……九条くん。もう寮に帰って来てるかな?」
ポツリと溢れた言葉は、一人っきりの部屋によく響いた。言葉にしてしまうと、なんだか体までソワソワしてくる。
こんな時間に迷惑だって思うのに、一度考えしまったら居ても立ってもいられなくて。
気がつけば私はまだ一度だって訪ねたことのない、九条くんの部屋の前に立っていた。
「…………」
コンコン。
そうしてどれくらい扉を睨んでいただろうか?
ようやく勇気を振り絞ってノックをする。
「あれ……?」
しかし返事は無く、扉に耳を澄ませても、なんの物音もしない。どうやら寝てるとも違うようだ。
ガッカリしたようなホッとしたような、なんだか複雑な気持ちになる。
「もしかしてまだ戻ってない?」
屋敷にそのまま泊っていることも十分考えられる。ならここに立っていても仕方がない。
しかし集中が切れてしまって今から勉強する気にもなれないし、かと言って目が冴えて寝る気分にもなれなかった。
「…………」
ふと窓を見れば、外はザーザーと音を立てて雨が降りしきっている。
まだ降り止まないなら、明日も雨で確定だな。そんなことをぼんやりと考えながら、階段を降りていく。すると玄関まで来たところで、寮母さんに声を掛けられた。
「あら、まふゆちゃん。ソワソワして、こんな時間に何か探し物?」
「あはは……。いえ、探し物っていうか、九条くんはどこかなー? なんて思いまして……」
少々気恥ずかしくて、しどろもどろに答えれば、「そういえば」と寮母さんが首を傾げた。
「神琴くんなら今日は実家に行くから戻りは遅くなるとは聞いていたけど、確かにまだ戻って来てないね。外泊申請は出てなかったんだけどねぇ。うーん、実家には日ノ本高校に入学することを随分反対されたらしいし、もしかして引き留められているのかねぇ……?」
「え……?」
思いがけない言葉に、心臓がドクンと跳ねる。
もしかして最近の用事とはそれのことだろうか?
じゃあ九条くんは学校から入学を反対されていて、家からも入学を反対されていたの……?
知ってしまった事実に、ひとつの答えが脳裏をよぎる。
昨日は放課後にいなくなって、今日は半日。じゃあ明日は?
今日の別れ際、九条くんは何と言っていた?
『ごめんね。じゃあね、まふゆ』
――また明日とは言われなかった。
「――――っ」
「まふゆちゃんっ!!?」
寮母さんが叫んだのを遠くで聞きながら、私は突き動かされるように寮から飛び出した。
「はぁっ、はぁっ!」
ザーザーと激しく降りしきる雨の中を、傘も差さずにがむしゃらに走る。バシャバシャと雨を跳ね、服が汚れるのも構わなかった。
どこに向かっているの?
会ったからってどうするの?
家の場所すら知らない癖に。
何も、九条くんのことを知らない癖に。
頭の中で渦巻く言葉を振り切るように、ひたすら走って、走って、そして――。
「まふゆっ!!」
名前を呼ばれ、びしょ濡れの私の腕を誰かに思いっきり引っ張られる。
「――――っ」
嘘。〝誰か〟なんかじゃない。
とてもよく知っていて、すごく会いたかった人――黒い傘を持って別れた時の制服姿のままの九条くんが、私の腕を掴んで驚いたように目を丸くしていた。
「こんな時間にずぶ濡れで走って……、一体何があったの……?」
「…………ぁ」
〝それはあなたを探していました〟なんて、馬鹿正直に言っていいのだろうか?
ジロジロとずぶ濡れの姿を見られれば、なんともきまりが悪い。
というか九条くん、ちゃんと帰って来たんだ。なぁんだ。じゃあもう少し部屋の前で待っていたら、ちゃんと会えてたんじゃん。
「……えと」
そう思うと自分の後先考えない行動が今更ながらに恥ずかしくなってきて、モゴモゴと話すことを躊躇ってしまう。
「とにかく早く寮に戻ろう。そのままじゃ風邪ひく」
するとそんな私をどう捉えたのか、九条くんは私の腕を引いて寮へと歩き出そうとする。
しかしすぐにその足を止め、私を振り返った。
「…………?」
私が九条くんの制服の裾をぎゅっと引っ張ったまま、動かなかったから。
「……まふゆ?」
体を向き直り、困惑した様子の九条くんが私の顔を覗き込む。
「一体どうしたの?」
言いながら九条くんは、びしょ濡れで額に貼りついている私の前髪を払ってくれる。
その手が思いがけず優しくて、先ほどは出て来なかった言葉がするりと零れた。
「……いで」
「え?」
「どこにもいなくなったりしないで!! 私っ、九条くんのことなんにも知らないけど……! でも、ずっと一緒にいたいよ……っ!!」
自然と涙が頬をつたってボロボロとこぼれ落ちる。
雨と涙が混じり合って、もう顔がぐちゃぐちゃだ。
いきなりずぶ濡れの女に大泣きでこんなことを言われて、さぞ九条くんは困惑しているに違いないのに。迷惑かけているって、分かっているのに。
一度溢れ出したらもう、自分では止められそうになかった。
「うん」
伸びてきた九条くんの親指が、涙で溢れた私の目尻をそっと拭う。
それに目を開けば、優しい金の瞳と目が合った。
「どこにもいなくならない」
そう言われ、体がふわりと温かい熱に包み込まれた。
抱きしめられている。
意識した瞬間、恥ずかしくて仕方なかった。
でも冷え切った体に九条くんの体温が移って、ポカポカして気持ちがいい。
暑いのは好きじゃないのに。体に九条くんの熱が伝わるのは、何故かすごく嬉しくて。
「俺も、まふゆとずっと一緒にいたい」
優しい温もりにずっと感じていた寂しさや不安が全部ぜんぶ吹き飛んでいくような、そんな気がした。




