プロローグ4・覚醒
湖底から水面に浮かび上がるように、深い眠りからゆったりと自分が覚醒していくのを意識しながら、羽間零司は目を覚ました。
樹脂基盤式有機ELパネルが発光する白い天井が、ぼんやりとした視界に飛び込んできた。
「……知らない天井だ」
そう定番の台詞を口にすると、傍らから渋い中年男性の声が響く。
「――ふむ、意識は正常のようだな」
「バイタルは正常。ネットミームにもなったアニメのパクリネタがでる余裕があるところから、麻酔の後遺症もないか、限りなく軽微と推測されます」
同時に年端もいかない少女の声がそれに追随して、誰もいないと思って、つい出来心で放った独り言にもしっかりと言及され、
「い――っ!?!」
頭から冷や水を浴びせかけられたかのような面持ちで、零司は跳び上がるようにしてベッドから上半身を起こした。
「運動能力にも問題はない、と」
「ですが脈拍と血圧が急激に上昇していますので、鎮痛剤の投与も考慮すべきかと」
先ほどと同じ淡々とした男女の声に、反射的にその発生源を向いた零司の表情が、羞恥から困惑、疑問へと目まぐるしく変化する。
ひとりは四十代後半ほどのガタイのいい――190cmはあるだろう。日本人としては平均的な身長の零司よりも頭一つ高い――なおかつスーツの上からでも鍛えられた肉体をしているのが一目瞭然な、彫の深い顔立ちの男性だった。骨格からして日本人とは違う印象を受けるので、もしかすると外国人かも知れない。
その傍らにいるのは、見たところ男性の胸元ほどの背丈しかない、黒のゴスロリを着た金髪碧眼の、一見して十二、十三歳ほどの愛らしい顔立ちをした少女だった。
親子……にしては年齢が離れているし、雰囲気も異なっている。
部屋の様子からして病室のようだが、なら医者と看護師……だったらファンキー過ぎる。
状況がわからず狼狽する零司を中年男性が立ったまま冷静に、そしてなぜか若干の警戒を含んだ眼差しで見据えながら、独白するような平坦な口調で話しかけた。
「落ち着き給え、ハザマ君。ハザマレージ君。混乱するのも当然だとは思うが、まず先に確認しておきたい。君はあの夜、何を見たのかね?」
「――あの夜……?」
そう口にした瞬間、フラッシュバックのように一連の光景が零司の脳裏でめくるめく。
『欠けた月が照らす夜』
『林の中』
『バケモノ』
『対峙する二人組』
『飛び散る鮮血』
『犬の生首』
『虐殺』
『ドローン』
『赤い光』
「っっっっ……!?」
常識的に考えてあり得ない、頭がおかしいと思われるのが当然な荒唐無稽な話である。到底口にすることなどできるわけがない。
黙り込む零司の強張った表情と顔色を眺めて、中年男性がちらりと少女へ目配せをした。
「狗人」
刹那、前置きなしに少女がその単語を口に出した。
途端、零司の肩が大きく震えて、無表情な少女を凝視する目がこぼれ落ちんばかりに開かれ、瞳孔が恐怖にすぼまる。
「……どうして……?」
喘ぐように声を絞り出す零司。
「……どうやら記憶除去処理は失敗だったようだな」
「肯定。予想の範囲内です。そうなると今後取れる行動は三つ――いえ、四つですね」
悪い結果が出たが当初から織り込み済みという口調で中年男性が呟き、少女がにこりともせずに頷いて、男性にというよりも零司に言い含めるように続ける。
「より強力な薬を使って記憶を消すか……もっとも成長期の子供であることも考慮すれば、対象が廃人になる可能性が高いですが、運が良ければ数年分の記憶が消えるだけで済むでしょう」
口調は軽いが言っている内容は洒落にならないのが、零司にも漠然とわかった。
「二つ目はここで人生を終えて口を噤んでもらう。鉛玉一発で済む、菊川支部長のお薦めプランですね」
「なっ――!?」
レストランでお薦めのコースを提示するかのように、人ひとりを殺害することを何の気負いもなく口に出す少女と、一切の動揺なく聞き流す中年男性。
冷然としているがゆえに、そこに脅しや誇張は一切ないと……このふたりにとって、人の命などその程度のモノでしかないのだと、ただの高校生である零司にも理解せざるを得ない、厳然たる事実の重みがそこにあった。
「三つめがその能力を解析するため、研究所で飼い殺しにする。言葉を飾らないなら実験動物になってもらう」
「ふむ、なるほど……。正直半信半疑だったが、当人を前にして確かに異常さを実感したよ。この部屋に入って三十分余り。意識していたにも関わらず、その間に彼の存在を失念した回数は十を越える。これが戦場なら確実に死んでいたな」
苦い口調でそう言って、改めて零司の顔を正面から見据える中年男性。
意味が分からず困惑する零司に向かって、少女が最後のひとつを告げた。
「そして四番目は、その能力を生かしてハンターに、私たちの仲間になって『幻象界』の侵食と戦ってもらう方法です」