プロローグ1・侵食
月が出ていた。
満天の星空を振り仰ぎながら、煌々と光る三日月を見上げて、中肉中背、目立たない容姿の、強いて特徴を挙げるのなら人のよさそうな表情をした十五、六歳ほどの少年が、ブレザーに学校指定のカバンを肩に担いで、まばらに広葉樹が茂った林の中を歩いていた。
碕森市。
都心から電車で四十分あまり。ほどほどに都会で、ほどほどに田舎の風情を残した人口四十万人ほどの中核市。その市内にいくつかある高校のひとつ、私立鍵城学園にこの春入学して二カ月ばかり経った少年――羽間 零司は、いま現在深い後悔と諦観とに苛まれていた。
「……七時を過ぎた段階で見切りをつけるべきだったんだよなぁ。もう来ないって」
足元に注意しながら、藪で怪我などしないように、気を付けてスニーカーを履いた足を踏み出す。幸いここのところ晴天が続いたおかげで、足元の土は乾いていてぬかるみに足を取られることはない。
できればスマホのライトで足元を照らしたいところだが、林の中とはいえここはまだ高校の敷地内である。とっくに帰宅時間が過ぎたこの時刻、巡回の警備員に見とがめられたら面倒なことになるだろう。
幸いにして星明りと月光、それに町の明かりが差し込んでいて、結構視界は利く。このまま林を突っ切って、高校の敷地と外部とを隔てるフェンスを越えれば問題なしだ。
「まあ、一世一代の告白をすっぽかされて、それでも未練がましく四時間も校舎裏に突っ立っていた間抜け男がいた……というオチが残っただけ。いつものことさ」
自嘲しながら零司は半ばやけくそで鼻歌を歌いながら、林の中を進むのだった。
◆
なんだこれは……!?
月明かりの下、その光景を目にした零司の胸に浮かんだのは驚愕よりも困惑――それも未知のものに対する色合いが濃かった。
林の中のぼっかりと不自然にひらかれた広場。
直径二十mほどもありそうな、まるで円形闘技場のような、下草が生えただけのそこで、片や二人組、片や十人ほどのふたつの勢力が相争っていた。
「〝リーダー、遭遇した”。……まったく、もうちょっと早く侵食に気づけないものかな。すでに十匹も現出してるじゃないか」
「でも、まだ狗人程度だったのは幸いっすね。物理でなんとかなりますから」
「〝――了解。速やかに排除する”」
そうやり取りをする二人組のほうはまだわかりやすい。
薄明りの中で透かし見えるその姿は、ごく平凡な人間――ひとりはブルゾンにデニムのショートパンツを穿いて、夜だというのに目深にワークキャップをかぶった、声からして零司とさほど変わらぬ年頃の中性的な少年、もしくは少女のようだ(顔が見えない上に、声のトーンもアルトともボーイソプラノともつかない微妙なもので、ちょっと判別がつかない)。
もうひとりは中学の時に量販店で買った風な野暮ったいシャツとデニムを着た、こちらは一目瞭然で女子とわかる赤髪を適当に短髪にした、目鼻立ちのくっきりした快活そうな十六歳ほどの少女である。
この二人組はまあいい。時間と場所柄さえわきまえなければ変わった組み合わせでもない。だが、そんなふたりと相対している相手は完全に理外の外。あり得ないモノであった。
身長は大の大人程度(1.6~1.7m)。これはいい。だが濁った赤い瞳、長く伸びた鼻、上向きに伸びた耳、口は大きく裂けて鋭い犬歯がぞろりと並び、顔を含めた全身は長い毛に覆われている。
服は着ておらずわずかに腰の周りに些末な布が巻かれているだけの尻からは尻尾が生えていた。
そしてそれは二本の足で立ち上がり、五本の指でめいめいに石器でできた斧やハンマーを握っている。
イヌ科の生き物と人間とを混ぜ合わせたかのような異形の姿をした怪物。
赤毛の少女の言葉を借りるならば〝狗人”と呼ばれる、零司も聞いたことがある魔物――確かにその顔つきは狼の精悍さよりも、野犬の野卑さに通じるものがあるように見える――だが、無論実在の存在ではない。あくまでゲームや漫画、小説の中に登場する虚構の存在である……であったはずのものである。それが確かな存在感を持って、日常生活の延長線上へと侵食してきたのだ。
これが何かのトリックとか幻覚の類であるという疑いや考えははなから浮かばなかった。
なぜと言われても肌がそう感じたとしか言いようがない。
その姿・息遣い・体臭・唸り声――距離を置いて息を殺して眺めているだけでも、五感が感じ取るひとつひとつに全身が震えて心臓の動悸が止まらずに脂汗が流れ落ちる。
ヤバい! ヤバいヤバいッ!! アレに見つかれば喰われる……!
捕食者を前にした獲物の本能が、最大限の警鐘を鳴らす。この場からさっさと逃げ出したいが、逃げた瞬間に気づかれて背後から襲われるかも知れないという恐怖心と、その怪異を前にして平然と佇んでいる同い年くらいの二人組の身を案じて動けない、なけなしの勇気と正義感。だが何もできない無力感……二重の板挟み状態で、零司はその場に石となって縮こまっているしかなかった。
そんな傍観者の存在など知る由もない両者がついに交錯する。
大きく口をあけて舌と涎を垂らした狗人のうち、武器を持たない身軽な二匹が、同時に地面を蹴って赤毛の少女へと襲い掛かった。
背中を丸くたわめたかと思うと次の瞬間バネのように、助走なしで五mあまりの距離を跳んだ……のはまだしも、獣のような姿勢で三mほどの高さから同時に襲い掛かる。
「うひゃ……おととととっ!?」
動物特有のしなやかな動きに赤毛の少女は咄嗟に対応できない。
――鈍臭いっ!
思わず状況もわきまえずに零司がそう言い放ちかけた――あんな出鱈目なバケモノと対峙して平然としているところから、彼女は彼女で特殊な訓練を受けた漫画や小説のヒーローじみた存在ではないか? そう踏んでいたところが、どこからどう見てもド素人以下の挙動を前に、梯子を外された気分で唖然とした――ところで、ぎこちなく両手を挙げた少女が、首と胸元を狙ってきた狗人たちの顎の間に、ギリギリ左右の両手を挟んで急所への直撃を避けることに成功した。
だが所詮は少女の細腕。力任せに噛み切ってしまおうと、狗人たちが嗜虐的な笑みを目元に浮かべて、両顎に渾身の力を込めた――刹那、ボキリ! と骨の折れる音がする。
「「!?!」」
少女の腕の骨が折れた音ではない。二匹の狗人の牙が根元から折れた音だった。
愕然として顎を離し、何かの間違いかという表情で自分たちの折れた牙の根元に指を這わせる狗人たち。
少女が服の下に金属製の防具を付けていた感触はなかった。確かにこの牙は薄い布を貫通して生身の二の腕に噛みついたはずである。だが、その気になれば牡牛の骨すらへし折る牙は、わずかに少女の皮膚を傷つけただけで止まり、あろうことかなすすべなく筋肉によって折れて飛ばされたのだ。
「痛ーっ、スね!」
状況を理解できずにその場に立ちすくむ二匹の狗人に向かって、赤毛の少女が無造作に拳を振るった。
素人丸出しのテレフォンパンチだが、至近距離であったことと相手の虚をつく形になったことで、モノの見事に片方の横っ面に、もう片方の腹に拳が吸い込まれる。
途端、至近距離で太鼓か大砲でも撃ったような音がさく裂して、目測で60~70㎏はありそうな狗人の体がボロ雑巾のように空中を滑空して、十mは離れた地面に叩きつけられた。
そのまま地面をゴロゴロと転がって、止まったところでピクリとも動かない狗人たち。
インパクトの瞬間、顔面を撃ち抜かれた狗人の顔は熟柿のように潰れ、ボディブローを受けた方の狗人は、その部分を中心に腹がクレーターのようにえぐれていることから、いずれも一撃で即死しただろう。
物理的にあり得ない現象を前にして、林の中から固唾を呑んで様子を覗っていた零司の口から、
「…………はあァ……?!」
思わず素っ頓狂な声が漏れて、慌てて自分で自分の口を塞いだ。
だがその瞬間、残った狗人八匹のうち一番はずれ――零司から見て五mと離れていない位置にいた一匹が耳の向きを変え、怪訝な表情で零司の潜む木々の間に視線を巡らせる。
「――!――」
まさに蛇に睨まれた蛙の状態で、逃げ出すことも隠れることもできずに、まともに狗人と月明かりの下、お見合いをする零司。
ほんの一秒にも満たない時間であっただろう。だが、零司にとっては永遠にも等しい暫しの間を置いて、狗人は興味を失くした様子で、ぷいと顔を背けた。
バケモノからも無視されるのか……。
腰が抜けるほどの安堵と同時に、零司はなんとも言い難い物悲しさも覚える。
「ボクを無視して戦闘中によそ見とは舐められたものだ」
刹那、不満げなワークキャップの少年(少女?)の声が聞こえたかと思うと、いま振り返ったばかりの最後方にいた狗人の首が、接着剤が剥がれたプラモのように、あっさりと両断されて地面に落ちた。
わずかな時間差を置いて、頸部の切断面から大量の血飛沫を放ちながら、残された体が頽れる。
自分に何が起きたのかわからない表情で、ポカンと間抜けに口をあけたままの狗人の生首が転がっていた。
何をしたのかはわからないが、それを実行したのは間違いなくワークキャップの彼ないし彼女である。
十m以上の距離を置いて、その場から一歩も動かずに集団の中の特定の個体だけを始末する奇術めいた手練を前にして、困惑や恐怖よりも群れの仲間をやられた怒りに燃えて――あるいは理解できるだけの知性がないのか――一斉に石器を振り上げ、牙を剥き出しにして二人組へと襲い掛かる狗人たち。
「おっ、来るっスか!?」
いかにも付け焼刃のファイティングポーズを取って、威勢よく迎え撃とうとする赤毛の少女に対して、ワークキャップの人物はどこか気だるげな態度で、帽子の脇のあたりを人差し指で軽く掻きながら慨嘆する。
「無駄だよ。開けた場所でボクの視界に入った以上、すでに勝負は決している。せめてあと百倍の数で侵食するべきだったね」
その台詞が終わらないうちに、獣そのものの勢いで二人組に迫っていた狗人たちが、まるで積み木を崩すかのように、一瞬にしてある者は五体をバラバラに、ある者は唐竹割りに真っ二つに、ある者はご丁寧に賽の目状に……恐ろしく切れ味の良い刃で切られた豆腐のように、なすすべなく切り刻まれた。
当然、生きている者はいないだろう。
あまりにも呆気ない怪物の最期に、零司が声もなく見入っていると、ワークキャップの人物は特に何の感慨もなく、
「〝任務完了”いつものように後始末は任せる」
独り言ちるようにそう言い放ったところで、不意に耳元を押さえて弾かれたように、真っ直ぐに零司が潜む林の方を向いた。
「――潜入者!? バカなっ!」
刹那、微かな葉擦れのような音を感じて零司が振り返って見れば、暗闇の中、小型のドローンがいつの間にか背後に回っていた。
赤外線カメラだろう。レンズの焦点が零司へと絞られたと同時に、赤い光が喉のあたりに突き刺さる。
針の刺さるチクリとした痛みとともに、持っていたカバンが落ちるのと同時に零司の意識は暗闇へと落ちるのだった。
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