二十二歳 あずさの場合
「あー、やっと出た。もう、ライブ怖くて飛んだのかと思ったよ。」
ハチさんからの電話はいつも通りだった。
「あずちゃんがお腹痛くなって行方不明になったの、昨日のことみたいなのに。」
なぜだろう、ハチさんの声が寂しそうに聴こえた。
本当はないはずだった今日。
私たちの音楽はもう、誰の耳にも届けられなくなってしまったはずの今日。ハチさんはいつも通り電話をくれた。
これは夢なんだ、私は死んでしまったんだから、嘘なんだから、本当は嘘なんだから、と必死に絶望しようとするけれど、私は頭がついていかなくて、ぼおっとしている振りしかできなかった。
学校の帰り道にいつも通る楽器屋さんに、そのギターはあった。飴色のつやつやしたアコースティックギターだった。
ギターを弾けるようになってみたい。好きな曲を、自分がコードを押さえて弾けたら、どんなにかかっこいいだろう。
衝動的だった。
本当は来月発売になるデパコスの口紅を買いたくて貯めてきたバイト代を持って、私は足早に楽器屋さんに向かった。
「あ、一年の椎名じゃん。」
奥から出てきたのは、蜂須賀先輩だった。金髪のショートカット。眉毛はほとんどなくって、下唇にはまるい銀色のピアスをしていた。
すごく怖くて、学校では目を合わすのも苦手だった。なにより、怖くて有名な蜂須賀先輩が、なんでこんなに地味な私のことを知ってるんだろう、そしてなんでここにいるんだろう、いろんな考えがぐるぐる回って、いい言葉が見つからなくて、私はひとまず、ぼおっとしている振りをした。
「椎名、軽音だったっけ?どしたの、急に。」
先輩はふにゃっと笑った。見たことがないぐらい優しそうな顔をしていた。
よくよく見たら、眉毛こそほとんどないし、怖いピアスも付けているけれど、先輩はとてもきれいな顔をしていた。
「初心者はね、こんぐらいがいいよ、扱いやすい。椎名かわいいから、これもおまけにつけちゃう。」
飴色のギターにそっくりな、でも値段が半分のギターを奥から出して来て、ぽんぽんっと叩いた。コードの読み方が載っている、うすぺったい水色の本を持って、屈託なく笑いながら。
ハチさんと私は、学校では正反対のタイプだった。
私はおとなしくて成績は真ん中より少しだけ上で、中学まではテニス部だったけれど今は帰宅部で、ドーナツ屋さんでバイトをしていた。その時に仲のよかった美穂ちゃんは、ピアノを習っていて部活はブラスバンド部だったし、お母さんが作ってくれるお弁当を教室の隅で食べながら、学校帰りにクレープでも食べに行く?って話してるような、普通の高校生だった。
ハチさんは相変わらず眉毛がなくて、先生に怒られても金髪で、唇や耳の軟骨に、たくさんのピアスをつけて歩いていた。
学校が終わると、こっそりとコードを教えてもらったり、好きなアーティストのライブに行っては、聞いたばかりの曲をコピーして遊んだりした。
そのうちに私が自己主張をしたくなって、書いてきた消しゴムのカスみたいな音楽の切れっぱしを、ハチさんはおかしそうにけたけたと笑いながら、拾い集めてせっせと音楽にしてくれた。
私が二年生でハチさんが三年生になった夏に、二人とも大好きなバンドだったネコマタのライブを観に行きたくて、授業中に持ち込み禁止の携帯電話で必死にチケットを取って、夜行バスに乗って、こっそり学校をさぼって行った。親には美穂ちゃんの家で勉強すると嘘をついた。おかしくておもしろくてずっと笑っていた。
「いつかあんな大きな箱でライブできたら気持ちいいだろうなあ。」
ハチさんの家に遊びに行って、ハチさんのお父さんが作ってくれた晩ごはんを食べながら、独り言みたいにぽろっと言った私の一言を、ハチさんは聞き逃さなかった。
焼けつくように暑い日だった。ハチさんと出会ってもう一年が経とうとしていた。
「あずちゃん、これビックニュース。」
ハチさんは息を切らしながらドーナツ屋にきた。まるで新しいおもちゃを買ってもらったばっかりの子どもみたいに。目をキラキラさせて。
高校生のシンガーソングライターを募るコンテストのチラシだった。優勝者はデビューと単独ライブがプレゼントされる。
私は頭にかっかと血がのぼった。優勝ライブの会場は、ネコマタのライブを観に行った、渋谷のあのライブハウスだった。
「あずちゃんこれ出ようよ、あのライブハウスだよ?夢叶うよ?」
ハチさんは出てもいないのに、もう優勝して、そしてあのライブハウスでライブをする気満々でいた。
おかしくておもしろくて笑いが止まらなくて、二人で消しゴムのカスをたくさんたくさん集めて曲を作って、小さなスタジオを借りてせっせとレコーディングをした。
二学期がそこまで来ていた。ドキドキしながら郵便局に行って送ったその音楽たちは、音沙汰がないままどこかへ消えてしまった。
ハチさんと一緒に作った音楽はこの六年で七十曲を超えた。思春期から大人になっていく私たちの全てが、そこに詰まっていった。
「私さ、あずちゃんの曲作り手伝っててふと思ったんだけど、こういう編曲とかバックバンドとかの仕事がしたいんだ。」
卒業が近づいた冬に、ハチさんはドーナツをほおばりながら嬉しそうに言った。
高校を卒業した後、慌ててハチさんを追って東京に行った。専門学校に行ったハチさんはどんどん能力が高くなっていって、私の消しゴムのカスもどんどん音楽の形になっていった。
毎日二人で過ごした。いくつかのコンテストに応募するうちに、三次選考まで進んだものがあって、またあの憧れのライブハウスでライブができるチャンスがあった。私もハチさんも嬉しくて手を取り合って喜んだ。
だけれどそのライブの三日前に私は盲腸になり、ステージに立つことはできなかった。
「あずちゃんってさ、ほんと持ってないから、今回もあんまりにも電話でないし、うっかりどっかでのたれ死んでるのかと思って焦ったよ。」
おかしそうにおもしろそうに、けたけたと笑った。電話越しにハチさんの煙草の煙がくねくねと電球に吸い込まれていくようだった。
もう落ち着いた栗色のボブにしてしまって、化粧なんかもしてしまって、眉毛もきちんと描いて、ピアスの穴も塞がってしまったけれど、ハチさんのことが、私は大好きだった。
水が滴ってしまったギターケースを開けて私はどうしたらいいのかと考えた。ぼおっとしているふりをしていたけれど、やっと頭を動かすことにした。午後の四時にはライブが始まってしまう。
私とハチさんの憧れの、渋谷のあのライブハウス。灰色の真四角の建物の中で、二人で作った音楽を誰かに聴いてもらう私たちを想像した。
夢に見ていたその光景が、ものすごい立体感で私の頭の中を駆け抜けていった。この永遠を使って、その夢が叶うなら、叶うなら。水たまりに映った顔は熱く真っ赤になっていた。
「ハチさん、まだ私が前使ってたアコギ置いてます?」
「飴色のやつ?最初の?もちろんあるけどなんで?」
「夢が叶ったライブだから、使いたいなって思って。」
涙がこぼれてしまわないように必死に笑ってそう言った。
「あー、さすがセンス。そうね、新しい子は次回のライブでお目にかかろう。」
ハチさんの嬉しそうな声に隠して、その新しいギターが、ハチさんがお祝いにって買ってくれたこげ茶色のアコギが、すっかり水浸しになって粉々になって、もう何にも言ってくれなくなってしまったのを誤魔化した。
泥を払って手鏡をおそるおそる覗くと、案外昨日のままの自分がいた。持ち物は全部全部水浸しで、壊れているものもたくさんあるのに、私自身は昨日最後にハチさんに会った時のまんま、穏やかな顔をしていた。
夢みたいだった。私が死んでしまったのも、あのライブハウスでライブができるのも。どっちも夢みたいだった。
本当は今日なんてなかったのに、私の、私たちの音楽を聴きたい人たちが、嬉しそうにチケットを持ってライブハウスの周りをぐるぐると囲んで並んでいた。
どんな仕組みになってるんだろう、私だけが昨日のまま止まってるんだろうか。ふっとそんな疑問が頭をもたげたが、どうでもよくなって、すぐにぷいっと消えていった。
みんな、六年前にネコマタのライブを観に行ったときのハチさんと私にそっくりだった。控室の窓からその列を眺めて、私はぼおっとしている振りをした。
「あずちゃん、今まで本当に良く頑張ったね。」
舞台袖でハチさんは私の手をぎゅっと握った。目は少しだけうるんでいた。
ハチさんのくせに。なんで泣いてるの?私は必死に涙をこらえた。金髪で眉毛がなくて、下唇にピアスをしていた、怖い怖い蜂須賀先輩のくせに、なんで泣いてるの?
六年間、二人で、二人っきりで過ごしてきた思い出が押し寄せるように迫ってきて、私は立っているのも辛くなっていた。
「これからも二人で一緒にたくさん曲作って、もっともっと大きな箱でライブして、有名になろうね。」
ハチさんは私が初めてギターを買った時に見せてくれたのとおんなじ、ふにゃっとした笑顔で笑った。私はもう、涙で前が見えなくなっていった。
なんて答えたらいいんだろう。ハチさんに嘘をついたことはなかった。私はぐるぐるといろんなことを考えて、いい言葉が見つからなくて、ぼおっとしている振りをしていたかった。
私の返事を待たずにステージのライトは点いた。
客席はみんなこぼれそうな笑顔ばかりだった。みんなの喜怒哀楽が、そこに詰め込まれていて宝石箱みたいだった。ふっと転換の時にハチさんを見ると、他のバックバンドの人に、てきぱきと指示を出していた。
ハチさんはいつも通りだった。おかしくておもしろくて嬉しくてかなしくて、涙がぽろっと一粒だけ出た。
一曲一曲を慈しむように、私たちは音楽に乗せていった。消しゴムのカスみたいだった自己主張が誰かの耳に届いてくれるのは、今日が最初で最後だった。
「次が最後の曲になります、聴いてください『+a day』」
ずっと待っていた時間だった。
ずっと会いたかった風景だった。
この時間が永遠に続けばいいと思った。私は気づいたら泣いていた。きっと全然違う気持ちなんだろうけど、ハチさんも泣いていた。
私たちは一日だけ伸ばしてもらった永遠の中にいた。
この歌詞の意味が痛いほどよくわかる日が来るなんて、思いたくなかった。この曲を書いた時には、私の永遠は終わるはずがなかったから。パステルカラーでメルヘンだったはずの永遠が、終わっていく。
最後の小節が終わるのがさみしくてたまらなかった。でもおんなじように、この曲をこのライブハウスで、たくさんの人の前で歌うことができたのが、ハチさんと一緒に、ここにいることが、嬉しくてたまらなかった。
アンコールまできちんと終わって、ぽっと暗転した。下手の袖から客席が空っぽになるのをぼんやりと見ていた。飴色のギターをぽんぽんと撫でた。遠くからハチさんの呼ぶ声がした。
叶うはずのなかった夢。
ハチさんと憧れだったライブハウスで、二人で作った消しゴムのカスみたいな音楽を、誰かの心に届ける夢。ハチさんとの六年間が、このライブの二時間が、私の心にじんわりと染みわたっていって、なんだか急に新しい消しゴムのカスを残したくなった。
ペンをとった。ハチさんへのラブレターなのかもしれない。
きっとこの消しゴムのカスも、ハチさんが後で見つけて音楽みたいなものにしてくれる。誰かの喜怒哀楽を作っていってくれる。
私の永遠が終わった後もずっと。
私はおかしくておもしろくて、嬉しくて思わず笑った。ハチさんのふにゃっとした顔の真似をして、笑った。