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+a day  作者: 土河 雲実
7/11

四十六歳 幸雄の場合

冷たい水の中に放り込まれた瞬間まで、僕には意識があった。怖い、という意識よりも、なんだろう。あまりに想定外のことが起きてしまうと、僕は固まってしまう。


よく怒ってるの?とか、ふてくされてるの?とか言われてきた。

みんなの前に立たされて、今月の数字ができていないと怒られたときに、自分がどうしてできていなかったのか、思い当たることを十個発表するように言われた。

当然反省すべき点はたくさんあった。直したいと思うことはたくさんあった。自分でも見るのが嫌なほどの、べたべたとしたヘドロのような欠点も山ほどあった。でも僕はその場で一つも言えなかった。

固まってしまったまま、動くことができなかった。


「お前、反抗してるのか?」


上司はどんっとデスクの脚を蹴った。女子社員はみんな下を向いていた。同期の男は神妙な顔をしながらも、少しだけ目が笑っていた。

口の中がカラカラに乾いて、汗が止まらなくて、誰のものかわからない腕時計の秒針がちくっちくっと時間を刻んでいくのを、ただただ見ていることしかできなかった。


僕はあの時が、人生で一番強烈に絶体絶命だと思っていた。決して逃げられない、もう僕はここまでかと、本当に思った。

固まってしまった表情の下に、何の感情もないわけはなかった。頭の中はフルスピードで動いていた。


十個。何から言えばいいんだろう。思い浮かぶものはたくさんあるのに、ちくっちくっと秒針の音が聞こえるたびに頭が真っ白になって、まるでふてくされて黙っているみたいに見えてしまって、それがまた僕の表情を固めてしまった。


男子高校生がわっと声をあげて、ラベンダー色のセーターの女性も小さく悲鳴を上げた。斜め前に座っていたカップルは、彼が彼女に覆いかぶさるように守っていた。みんなそれぞれに大きく驚いて、怖がって、何とかして助かろうとしていた。

そんな中で僕はぴくりとも動けずに、声も出せずに、まるでふてくされてるかのような顔をして座っていた。最後の最後に頭をフル回転させてみたけれど、からからとただ回っているだけの音がしていた。


ふっと意識を取り戻したら僕はもうこの世にいなかった。ぼんやりと空を見上げたら真っ赤な朝焼けが、ミケちゃんの好物のマグロ缶に見えた。

僕ははっとした。旅行に行く前、寂しそうに、少し怒っているように、僕の脚に絡みついて離れなかったミケちゃん。動物って人間より勘が鋭いというから、ミケちゃんは何か嫌な予感がして、僕に行かないでって言っていたのかもしれない。


自分に合いもしない会社に十五年も勤めてしまった僕は、違和感を感じるのが遅いし、決断するのも遅い。一度決めてしまったことはずるずるとやめられないのが僕の一番悪いところだった。


隣のおばあさんの家で居心地が悪そうにミケちゃんは眠っていた。少し眉間にしわを寄せて。

いつもなら、かりんとうみたいなつやつやの身体をふわふわのベッドの上で存分に伸ばして寝るか、僕の腕に滑り込んで寝るのに。ソファの下の、フローリングがひんやりするところに手足だけおいて、機嫌が悪そうに眠っていた。


みゃぁ、


抱っこしようとすると身を固くした。薄目を開けたミケちゃんは、瞬間、解凍したみたいに、するりと僕の膝の上に滑り込んできた。


なあんだ。おとうちゃんじゃない。ミケちゃんがそう言ったように聞こえた。

眉間のしわはなくなっていて、穏やかで優しそうな、安心したような顔をしていた。


こっそりミケちゃんを抱っこして家に連れて帰った。背中を撫でながらまんじりともできなかった。

隣の家のおばあさんは朝になっても、僕に電話をしてこなかった。ミケちゃんがいなくなったよと、慌てて僕に電話してくることはなかった。

やれやれ。あんな人に預けっぱなしにしていたら、この子はどんな目に合ったかわからない。僕はほっとしていた。

僕は僕の最後の永遠で、ミケちゃんを危ないところから救い出すことができたことに、ひどく満足していた。


みゃぁ、


か細く鳴いたミケちゃんは体をこわばらせて僕にしがみついた。キッと爪を立てるけれど、僕が整えてあげているから全然痛くない。

抱っこしたままキッチンの戸棚を開けると、自分のレトルトやフリーズドライの食品の横にずらりとミケちゃんのご飯が並んでいた。

彼女は僕の恋人であり、かわいい娘だ。


ぴちゃぴちゃと牛乳をなめるミケちゃんの背中を撫でていたら、いつの間にか昼になっていた。


僕は唐突に焦った。この子は、この小さな手では何もできない。缶詰の蓋をあけることもできないし、新しいものをインターネットで注文することも、宅配便を受け取ることも、お風呂に入ることも、気持ちの良い寝床をつくることも、一人ではできない。


みゃぁ、


どれだけ僕に慣れてしまっても、大人になって初々しさがなくなってしまっても、生まれつき不自由な脚はよちよちとしか動かない。不安な僕の気持ちを察したのか、ミケちゃんは不安げな顔をして僕の手を舐めた。


僕は決心をした。

僕の最後の一日は、これからミケちゃんが安全に暮らせる場所を探すことに使おう。


ミケちゃんとの別れを決めつけてしまうのはとても怖かった。正直、あまりにも普通に今日が過ぎていって、まるで僕がこの世にいなくなってしまったこと自体、長い夢なんじゃないかと思えた。

でも携帯を取り出して見てみると、日付は二月二十九日を指していた。


ミケちゃんをたまに連れて行く、近所の公園に行った。僕には心当たりがあった。でも今日ここへ来てくれるかはわからない。賭けだった。


心臓が早く早く動いて、怖くて、僕はその場にしゃがみこんでしまいそうになった。

大事なミケちゃん。まだ五歳だから、せめてあと十年ぐらいは僕が今までしてきたのと同じような暮らしをこの子にさせてあげないとならない。


十年。僕たちが一緒にいた時間より長い時間、ミケちゃんと過ごすことができる誰かが羨ましくて、泣きそうになるのを僕は何とか紛らわそうとした。


「こんにちは。」

来た。栗色の長い髪をした、若い女性だった。ミケちゃんと同じぐらいの体格のトラ猫をいつも大事そうに抱えている。

町内会長の堺さんの娘さん。顔見知りぐらいにしか知らないけれど、百合さんはとても綺麗な女性だった。

僕が彼女と話すとき、ミケちゃんはとてもやきもちを妬いた。でもミケちゃんと彼女にどことなく通ずるものを感じて、僕は心ひそかに憧れていた。


「荒井さん、今日は早いですね、お休みですか?」


百合さんはふんわりとほほ笑んだ。石鹸のいい香りがした。


「母が無理頼んだんでしょう?お仕事があるのに書記だなんて。」


トラ猫の背中をゆっくりと撫でる手は僕と同じペースだった。

つやつやとした毛並みはあらゆる危険から守られているという、弛緩した筋肉の上ですーすー動いていた。


僕は確信した。彼女になら、ミケちゃんを任せられる。僕はそう考えたら、気が焦って、いてもたってもいられなくなった。彼女が僕を見つめながら話してくれていることの、十分の一も耳に入っていなかった。 


「あ、あの。」


人生で一番緊張した。みんなの前で十個ダメなところを言わされたときよりの数億倍、今は絶体絶命だった。

きっと見たことがないぐらいふてくされた顔をしていただろう。かっちこちに固まって、表情のない真っ赤なかたまりのような顔をして、目も見れずに何を言っているのだろう。

気味が悪い、そう思われているかもしれない。僕が気味が悪いせいで、ミケちゃんを大事にしてくれないかもしれない。

からからと音がする頭の中を一生懸命動かした。ミケちゃんがみゃぁと小さく鳴いて僕の腕にすり寄ってきた。


「こ、こ、この子を、引き取って育ててくれませんか?」


一気に貯めていた涙が溢れだした。

四十六歳のおじさんがいきなり猫の背中を撫でながら泣き出したもんだから、百合さんは唖然としていた。


やってしまった。僕は絶望した。そしていつもみたいに、どうせどうせと思いながら、自分の希望や言いたいことをすっと消してしまおうとしたけれどうまくできなかった。

ミケちゃんがきゅうとお腹にしがみついてきた。僕はただただおろおろするだけでどうしていいかわからなくなってしまった。


「何かご事情があるんでしょう?こんなに大事にしているミケちゃんを手放すなんて。」


長い沈黙の後、彼女はゆっくりと口を開いた。まっすぐに透き通った薄茶色の目はミケちゃんによく似ていた。ふっと自分の膝を見下ろすと、おんなじ目をしたミケちゃんがこっちを見ていた。


四つの目にぐんと見つめられて、僕はすっかりまいってしまった。この目には嘘はつけない。反射的にそう思った僕は、二人にだけは本当のことを言うことにした。


僕はつたない言葉で必死に、すべてを話した。前後してしまったり、余計なことを言ってしまったりもしたと思う。とっても聞きにくかったはずなのに、百合さんは口も挟まず最後まで聞いて、時折はっと驚いたような顔をしたり、苦しそうな悲しい顔をしたり、目頭を押さえたりしていた。

僕は汗だくだった。ミケちゃんはぴくりとも動かずに僕の方を見ていた。まるで僕の言葉がわかるように。少し怒った顔をしながら、僕の膝に座り込んでお腹にしがみつき、腕に顔を摺り寄せたまま固まっていた。


全く馬鹿げた話だと客観的に思う。ついに中年の独身男が頭をおかしくして、変な話をしているようにしか見えないと思った。

それなのに百合さんはじっと黙って僕の話を聞いた後、ミケちゃんの背中を遠慮がちに撫でながらこう言った。


「わかりました。」


たったそれだけだった。慰めの言葉もなかったし、僕の下手な説明なのに、わけのわからないところはたくさんあったはずなのに、それ以上何も聞いてこなかった。


でもそのまっすぐな、“わかりました”で、霧が晴れたみたいに僕の心は落ち着いた。

ミケちゃんはもう大丈夫。強く安心した。


「明日の朝、ミケちゃんを迎えに行きます。今日は大切な時間、お二人で過ごしてください。」


朝ごはんはこれで、昼ごはんはこれで、トイレはこうしてなんて、いろいろと細かく伝えたいことは合ったけれど、彼女のまっすぐな瞳の奥にミケちゃんを見たような気がしたから、あえて何も言わないでおくことにした。


きっと彼女のやり方は僕のやり方と、完全に同じではないだろう。でも彼女なら、彼女のやり方で、きっとミケちゃんを幸せにしてくれる。なぜだかわからないけれど強く安心した。


ミケちゃんはいつの間にか眠ってしまっていた。夕焼けの中に桜のつぼみがほんの少しずつ膨らんでいこうとしていた。


ミケちゃんの背中を撫でていると時間があっという間に過ぎる。

ミケちゃんと行きたいところはたくさんあった。ミケちゃんに見せてやりたい景色もたくさんあった。


けれど、僕はわかっていた。

結局のところ、僕もミケちゃんも、この四畳半のアパートの、ベランダとは呼べない小さな窓から見える、小さな夕焼けが一番好きな景色なんだと。


みゃぁ、


ミケちゃんはかりんとうみたいに黒くてつやつやした身体をぐぐっと伸ばした。

一日だけと言わずに永遠に続いてほしかった。沈んでいく夕焼けを見ながら、僕は今日の晩ごはんに、ミケちゃんに何の缶詰をあげようか、ぼんやり考えていた。  


ミケちゃんは僕がいなくなることがわかってからとってもいい子になってしまった。まるで出会った日みたいに。みゃぁと小さく鳴きながら甘えてきた。僕がどこに行くにも足に絡まりついて、不安を必死に押し隠すようにして、ちょっと甘えたような、か細い瞳をして、僕を見上げていた。


「ミケちゃん、」


かりんとうみたいなミケちゃんを抱き上げた。朝とは全然違う。だらっと手足を投げ出して、すこし間抜けな顔をして僕の胸に抱かれていた。


「おとうちゃんはね、もうミケちゃんと一緒には暮らせないんだよ。引っ越すんだ。ミケちゃんには綺麗なおかあさんができるよ。」


聞きたくないと言わんばかりにミケちゃんは目を閉じて腕にすり寄ってきた。


「ミケちゃん、ミケちゃんはこれからの生活の方が長くなるんだ。きっと何年か経てばおとうちゃんのことは忘れてしまう。それでいいんだよ。これからもっともっと、ミケちゃんは幸せになるんだよ。」


短くそろえたはずの爪でキッと腕をひっかいた。背中の毛は静電気をあてたみたいに立ち上がっていた。

まるで記念日を忘れられた恋人のように、大事にしていた服をお父さんの靴下と一緒に洗濯されてしまった娘のように、強い目で僕を睨み付けてきた。


僕はもう涙を止めることができなかった。母が亡くなった時も、ぽっちも出なかった涙が、中学に入るころから流した記憶のない涙が、三十三年分の、自分を出せなくて我慢した涙が、とめどなく溢れてミケちゃんのかりんとうみたいな身体を濡らしていった。


人よりも少ないと思っていた僕の感情が、いっぱいいっぱいまで振り切れて溢れ出てしまったのは、結局僕の人生が終わる瞬間だった。真っ暗になってしまった窓の外には何も見えない。


ミケちゃんと二人きりの宇宙に、僕はずっといたいと強く念じて、念じただけでは足りないから、ぐっと手を握り締めて確認した。

どれぐらい時間が経っただろう。ミケちゃんのものか自分のものかわからない寝息が遠くで聴こえてきた。 


ミケちゃんがこれから歳を取っていて、いつかいなくなってしまったら。もしも、そんなシーンに直面したらきっと、僕は今のミケちゃんの比ではないぐらい絶望して、生きるのさえ、つらくなってしまっただろう。

ミケちゃんは今何を考えているんだろう。気丈そうな横顔を眺めながら僕はようやく涙が全部枯れていくのを感じていた。


僕は本当にわがままだ。僕はこうして最後の永遠を、大好きなミケちゃんと過ごすことができる。ミケちゃんの温かい背中を撫でながら眠りにつくことができる。

ミケちゃんに、自分ならちぎれてしまうような、こんな無感情な僕でも叫びたくなってしまうような、そんなつらい思いをさせて。


最高に悲しいことを考えて悲劇の主人公のように眠りにつこうとしたのに目が冴えてちっとも眠れなかった。


家の壁紙のいくつか穴が開いてしまっているのは、ミケちゃんが小さい時にひっかいて、つけたものだった。かわいくて嬉しくて僕は指先でそれをなぞった。


ミケちゃんと暮らした五年間が、楽しかった五年間がふわっと舞い上がって、ピンク色の粉をまき散らした。まるでスノードームみたいだった。

そのピンク色の中にふわふわと居て、僕は自分でも見たことがないぐらい、嬉しそうな表情をして飛び跳ねていた。


そんな幸せの感情が僕の中に立ち込めたところまでしか、僕の記憶はついになかった。

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