六十八歳 きよ子の場合
明け方、自分の家に戻ってきた。
どこにいるんだかさっぱりわからない道の上にいたのに、ものの数分で帰宅していることに、自分がもうこの世にはいないんだと、現実を突きつけられる。
けれど、今はそんなことに悲観的になっている場合ではなかった。私は思ったよりも落ち着いていた。
ふーっと息を吐いて寝室のドアを薄く開ける。孝はまだ眠っていた。水が滴っていたラベンダー色のセーターはすっかり乾いて、絶望で青白かった顔にも少しずつ色が戻ってきた。本当に信じられなかった。
テレビや映画で見る、こういうシーンって、なんていうのだろう。もっといかにも、誰が見ても幽霊だとばれてしまうような、そんなイメージだったけれど、鏡に映る私はいたって普段通りだった。
念のため、家の近くのコンビニに寄ってみたけれど、普通に物は掴めるし、レジの店員さんにも見えているみたいだった。
何のこともない。こんなもんか、ばかばかしくなる。少しだけ涙がこぼれそうになった。
孝は私と結婚して以来、一度もキッチンに立ったことはなかった。冷蔵庫を開けると、卵が二個と缶ビール、豆腐とレトルトのカレーしか入っていなかった。
全く、私が今日帰るまで何を食べて過ごす気だったのかしら。やれやれと朝のスーパーに向かった。朝ごはんを買うサラリーマンが、いそいそとパンコーナーを物色していた。
私はてきぱきと野菜を、肉を、調味料を、レトルト食品をカゴに放り込んでいった。タッパー十個分と保冷パック二十袋分のおかずを作り置きし、冷蔵庫と冷凍庫にしまったところで孝が起きてきた。
「なんだ、帰ってたのか。」
のんきにあくびをしながらぼりぼりと背中を掻いた。拍子抜けするぐらい、穏やかな昼下がりだった。
家の経済のことは何一つわかっていない孝のために、家計簿のつけ方や、通帳の場所、生命保険の請求の仕方なんかをまとめたノートを作った。そのあとは冬物と春物を衣替えした。家じゅうの掃除機をかけた。窓掃除もした。ごみ箱の分別がわかりやすくなるように、シールを貼った。
てきぱきとしていなかったら涙がこぼれてしまいそうだった。
「おいおい、どうしたんだよ、帰って早々。お前は全く貧乏性だなあ。」
孝は少し困惑しているみたいだった。すっかり午後はまわり、時計は午後三時を指していた。
「きよ子、なんか旅行先で嫌なことでもあったか?」
心配そうに顔を覗き込みながら私の手の甲を遠慮がちにさすった。
はっとした。出会った頃の孝みたいだった。私が必死に家事をしている間にふらっとでかけたと思ったら、角のパン屋でクリームパンを買ってきてくれていた。ぽんっと私の手をひっくり返して手のひらに乗せた。
こんな時だけ私の夫は勘がいい。旅行先であった嫌なことなんて、話せるわけがなかった。泣いてしまいそうになるのを必死にこらえて笑った。
「留守にしていたから、家事がたまっちゃったから。」
もう目を合わせることはできなかった。孝は不安なんて一ミリも感じていないような、のんきな顔であくびをした。
「そのセーターいつぶりだ?懐かしいなあ。」
「なんだか着たくなって出してきたの。もうおばあさんになってしまったから似合わないけど。」
「きよ子はやっぱり綺麗な色が似合うな。」
私の話なんて一つも聞かないで、満足そうにまた手の甲をさすった。
いつだってそうだった。私は孝のペースだった。孝はいつの間にか七十三歳になっていた。
五歳年上の孝は、短大を卒業して、胸を膨らませて入った会社の先輩だった。優しくてかっこよくて、私はすぐに夢中になった。
憧れと愛情がごちゃ混ぜになって、ものすごく、うんとものすごく、この人のお嫁さんになりたいと思ったのだった。孝もまた、私にだけ、深い愛を注いでくれた。
二人で生きていこう、そう思った日の、頭がパンっと音を立てて花火をあげたような幸福を、今でも覚えている。
でもいつからだろう、皐月が生まれて大きくなって、いつのまにか大好きで結婚したはずの孝との時間は、均衡を守るので精いっぱいの、難しい時間になっていた。
今日みたいに自然に、思ったように会話をして、楽しくて、何も怖がらないで柔らかい時間を過ごすことができたのはいつぶりだろう。孝が変わってしまったんじゃない。確かに歳は取ったけれど。
私の心がかじかんで勝手にそうしてしまったんだろうか。
家族三人で過ごしたアルバムは、皐月が中学に上がるころから少しずつ減っていって、高校を卒業してからはいきなり大学の卒業式になっていた。
どんどん大人びてきて、綺麗になっていく皐月の横で、孝はどんどん白髪がまじり、しわも増え、背も低くなっていった。私もまたそうだった。
「変わってないと思ったけど、爺さんになったなあ。」
孝はアルバムを見ながらけらけらと笑った。自分の映りのいい写真ばかりを開いて、嬉しそうに私に見せてきた。
「これなんかいいなあ。精悍に見える。なあ、きよ子、もしも俺が先に死んだら葬式の写真はこれにしてくれるか?」
何の疑いもないまっすぐな目で、孝は笑いながら私を見た。
唇からこぼれそうな重たい気持ちが、精いっぱい緊張して私の中にとどまった。
四十二歳の時に、ストレスがたまって胃潰瘍になった。孝が会社でうまくいっていなかった時期で、皐月もだんだんと大人になって、コミュニケーションがとりにくくなった時期で、私は家族の均衡を守るのにとても苦労した。
朝七時半に始まって夜十一時に終わる、ある程度楽しそうに、だいたい平和そうに見える家族の時間。
うちはとても裕福ではないけれど、年に一回家族で国内旅行に行ったり、二週間に一回外食をしたり、二か月に一回美容院に行ったり、百貨店の通販でたまにちょっと珍しいお菓子を買ったりできるぐらいには豊かな暮らしができていた。
楽しい家族の振りをしていたい。私はいつだってそう願っていた。それもとびきり仲良しで浮足立ってしまった楽しい家族ではなくて、炊いた米粒同士みたいにいい距離を持っていたい。柔らかい時間が流れる家族でいたい。家族三人の均衡を守りたい。
一日が終わって最後にお風呂に入るとき、静まり返った家の中で私はふっと思った。
今のこの時間が永遠に続けばいいと。均衡が保てた一日を終えて、ほっと一人になる時間が、永遠に続けばいいと。
皐月はとてもいい娘だったから、手がかからずに大きくなっていった。孝はきちんと働いて、きちんと定年退職して、ずっと家にいるようになった。
私だけが、私だけが、いつからだろう。均衡を守ることだけしか考えないで過ごすようになってしまっていた。
胃潰瘍は、当時はパートに出ていたから、パートのメンバーでの懇親旅行だと嘘をついてこっそり治した。
自分が元気でいることが均衡を守ることの第一義だと思っていた。余計な心配をかけると均衡が崩れる。そして均衡が崩れた家の中が恐ろしくてたまらなくなっていた。
いつだってそうだった。そして最後も私は均衡を守るために、明日いなくなってしまうことを、孝に、皐月に言わないでいる。
「ちょっと散歩しないか?」
私がいない生活を、いつか私がいなくなる生活を、孝は想像したことがあるんだろうか?
もったいないとは少しも思っていないかのように、孝は私との時間を指からこぼれさせていった。テレビをぼんやり眺めたり、自分の川柳を満足げに読み返したり、一心に足の爪を切ったり。そういう、どうでもいいことに時間を使っていった。
明日でもできることに。私がいなくなってからもできるようなことに。
孝とたまに散歩に出かける。胃潰瘍のすぐ後から更年期になって、息苦しくなったり、体温調節がうまくいかなかったりするようになったから、パートもやめてしまった。外へ出たいと思うのはこんな風に、涼しくて、でも暖かな春の日差しが差し込む、穏やかな夕暮れ時だけだった。
孝はときたま心配して、手の甲をゆったりとさすったり、気まぐれにクリームパンを買ってきてくれたりした。私だけが均衡を守るために注意を払っていたと思っていたけれど、孝ももしかしたらそうだったのかもしれない。ぼんやりと、そんな風に思った
「桜のつぼみがもう膨らんできてるな。今年は開花が早いんじゃないか?」
嬉しそうに、夕暮れの青の中で孝が笑った。もう昔みたいに手を繋いだり腕を組んだりすることはない。おじいさんとおばあさんになってしまった。でも歩くペースは同じだった。
私たちの四十三年間のうち、どれだけがルーティンだったのだろう。
どうして均衡を守るなんて考えに縛られて、私はたった一人息苦しくなって、あんな旅行に行ったりしたのだろう。
「夕飯、何がいい?あなたの好きなもの作るわよ。」
「お、今日は気前がいいなあ。」
孝は後ろから来た自転車を気にして、少し乱暴に、私の肩を押した。
これから距離を縮めていく若いカップルなら、優しく手をひっぱったのだろうけれど、孝は少し乱暴に私を押した。
自分の力加減で私がどのぐらいゆらりと動くのか、孝は何も意識しなくてもわかっていた。それが私たちの四十三年間だった。
「じゃあ、メンチカツ作ってくれ。」
安心して涙が出そうになったのを、んっとこらえた。間違えていない。
均衡、均衡と思っていたことが息苦しくて、ふっと振り向いてみるととても空虚な時間が広がっているような気がして、完璧にやってきたつもりだったのに、もしかして、私は孝との結婚生活を無駄に過ごしてしまったのではないかと焦った。でもそんなことはなかった。
私が思ったように、今日の孝が食べたいものはメンチカツだった。
晩ごはんを食べた後も、孝はだらだらとテレビを見ながら、どこの街の誰とも知らない人のインタビューや、これから私と行くことは決してできない、遠くの街の名産品を見ては、何かをああだこうだ言いながら論評して、その都度、私に同意を求めてきた。
いつもと同じように、私もまた、孝に適当に返事をしながら、お茶をすすっていた。冷蔵庫に一週間分だけ作り置いた、食事たちがばかばかしくなった。
孝には、本当のことは言わないでおこう、私はこっそりそう思った。
今日のあなたは、長い夢を見ただけ。起きたらきっと電話が鳴って、私がいなくなってしまったことを知るだろう。そこで初めて絶望するのでいい。泣くのは、不安になるのは、怒るのは、途方に暮れるのは、それからでいい。
もしかしたら私は身勝手なのかもしれない。でもあと三時間。私は孝と二人で柔らかい時間を過ごすのに、せっかくもらった一日だけの永遠を使いたかった。
「あ、お母さん?来週ね、雄大の試合なの。今回は決勝まで行けそうだから、観に来てあげてほしいんだよね。」
皐月の声を聴きながら目を閉じた。
そうなの?楽しみね。明るく答えた。明るく答えたら、本当に来週に雄大の試合を観に行けるような気がした。
それは違うのよ、と頭の中の自分が起き上がって、無理やりに固めた嘘の今日を、出来立てのかさぶたみたいに、はがそうとしたけれど、痛むし、時間がかかりそうだから手を引っ込めて、何もできないようにぎゅっと後ろ手に握りしめた。
いつものように順番にお風呂に入り、意味はないのに化粧水をはたいて、ビールを飲んでいる孝を見ていた。
十一時の時計が鳴った時、ぷちんと孝はテレビを切って歯磨きに行った。いつもと同じだった。心地よくて嬉しかった。
「明日は雨降るから洗濯物は外に干せないな。」
疑いもせず私にそう話しかける孝に、私も疑いもせずに、そうねと答えた。
並べて引いた布団に滑り込んで、いつものように眠りについた。五分もすると孝のいびきが聞こえてきた。
怖くて眠れないと思ったのに、いつもみたいにうすぼんやりと眠気が襲ってきた。孝の大きないびきを聞きながら、私は眠りについた。
いつもみたいに。
でも、そのいつもが、とても幸せな時間だったと、心から愛おしい時間だったと、気づけたことだけが、いつもと違ったみたいだった。