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+a day  作者: 土河 雲実
5/11

2.28

二月二十八日 午前四時


夢を見た。薄曇りの空の下をずっとうとうとしていた。僕の左手には詩乃の柔らかい右手があった。

足元には北海道のパンフレットが二冊、バス乗り場の自動販売機で買った温かいお茶と一緒に、荷物用のネットのところに挟んであって、じっとこっちを見ていた。


“詩乃、”


自分の声なのに自分の身体の中だけで聴こえたみたいだった。ゆらゆらとした光がまぶしい。ラベンダー色や黒い大きなかたまりがゆらゆら、ゆらゆらと視界の右から左へ浮かんでは消えていった。


僕は息が苦しくてもがいていた。身体がとてつもなく重い。喉がカラカラになって、頭が痛かった。

いつのまにか僕の左手は空っぽだった。僕は泣いていた。


肌寒い明け方の暗い中で僕は汗をびっしょりかいて目を覚ました。嫌な夢だった。

目が慣れてくると、僕の左手には詩乃の柔らかい右手があった。目の端っこにはまだ涙がほんの少し残っていた。


「詩乃、」


二月が終わろうとしていた。まだ春と呼ぶにはうんと早いような寒々とした空気の中に、僕の声が浮かんで消えていった。





二月二十八日 午前七時


朝食のバイキングには人はまばらだった。孝がいつだったかの結婚記念日にくれたラベンダー色のセーターを着て、私はぼんやりと一番端のテーブルにいた。


昨日は朝の六時に起きて、嬉しくて、持ちものをもう一度指さし点検した。

真っ赤なリュックサックと、皐月が買ってくれた黒のトレッキングシューズ、黄色のレインウェア。六十八歳は、トレッキングデビューをするにはうんと遅かった。私はぜいぜいと苦しい息を吐いた。膝ががくがくといった。

うんと腰が痛くて、こんなところまで一人で来てしまったことを、後悔していた。


大きな日の光を浴びた屋久杉を目の前にして、私は思わず声をあげずにはいられなかった。すべての命の根源がここに集まっていると思った。

空まで突き抜けるようにまっすぐと立った大木が私を抱きしめるみたいにじっとそこにいた。


私が生まれ、娘時代を過ごし、就職をし、孝と出会って今日まで来た時間が、その時間の意味が、全てここに集まっているとさえ、思えた。清々しいほどの透き通った空気を、ぐぐっと大きく吸い込んだ。こんなところまで一人で来てしまったことを、私は後悔していた。

ふっと日常生活の中に置いてけぼりにした孝を思い出した。


私は怖かった。五歳年上の孝が、孝との生活が。均衡を保つのがとても難しいし、ぷっつりとどこかで終わってしまうのも怖かった。


二人とも今まで一度も病気をしたことがない。だからこそ、私たち二人の人生はどうやってエンドロールを迎えるのだろうか。想像もつかなかった。


ぜいぜいと苦しい息を吐いている私は確実に歳を取っていた。孝だってきっと、私が見ないふりをしている間に歳を取っているに違いなかった。

うとましい。そんな言葉で片付けるのにはうんと足りないぐらいだった。均衡を保つことだけに全身の神経を使って、慈しむことを忘れていたこの数年が私に迫ってきた。

孝を愛おしんだのは何年振りだろうか。不器用な私は、若い頃とは違った風に、歳を取った孝を愛おしむやり方がわからずにいた。


ゆで卵の固さが本当に絶妙だった。お味噌汁は柔らかい潮の匂いがした。柔らかな時間だった。

均衡を守る作業から解放されて、私は紛れもなく幸せな時間を過ごしていた。こんな柔らかい時間がずっとずっと続けばいい。けれど、頭の中は違っていた。


帰ったら、孝の好物のメンチカツを、久しぶりに作ってあげよう。帰りのバスの時間を確認して、部屋に戻ると、皐月からメールが来ていた。三十分もかかってやっと、昨日撮った屋久杉の写真を添付して返すことができた。





二月二十八日 午前十時


「ミケちゃん、どうしたの?」


ミケちゃんがトイレ以外のところで用を足してしまうなんて珍しかった。ばつの悪そうな顔をして遠くを見ていた。片づける僕の隣をすりすりと寄って。


みゃぁ。

弱弱しい声で鳴いて僕を見上げている。まるで赤ちゃんに戻ったみたいだった。どうしてしまったんだろう。僕は少しだけ胸がざわざわした。


今日から三日間、家を留守にする。ミケちゃんと暮らしてから、初めての旅行だった。宿も休みも取ってあるし、何より僕は今回の旅をとても楽しみにしていた。

おいしい魚を釣って、温泉に浸かって、僕なりに走り続けてきたこの何年もに対して、ご褒美をあげるつもりだった。

僕は基本的にミケちゃんの物以外、欲しいものもない。ただ、今回だけは、僕自身にご褒美をあげたかった。何かの区切りだと思っていた。きっと最後だと思った。


このところはミケちゃんが愛おしくてたまらなかった。どんどん気持ちは募っていって、母を失った時の喪失感が、ときたま僕の中にいきなりぽっかりとした穴を開けてきた。


ミケちゃんが僕の時間を埋めてくれればくれるほど、僕の中の喪失感はじわっと、まるで低温やけどをしたみたいに手遅れになっていった。

ミケちゃんに依存しすぎる自分が、怖かったのかもしれない。


「おとうちゃん出かけるけど、いい子にしてられる?」


ミケちゃんは泣きそうな顔をしているのに、ふんっとそっぽを向いた。僕の膝からなかなか離れてくれなかった。

抱っこをした身体をこわばらせて、肩をうんとあげてしまって、僕にこびりついていた。


猛烈に強烈に、後ろ髪をひかれた。ミケちゃんはみゃぁと、今度は力強く泣いた。尻尾をぴんと立てて、目をぐぐっと開いて、立ち上がった僕の膝に絡まりついてきた。かりんとうみたいにつやつやとした身体だった。


一度決めてしまったことをやめることができないのは、僕の悪い癖だった。





二月二十八日 午前十一時


インターネットの合否発表画面を、もう何度更新しているのだろう。

発表はまだだけれど、もしかしてフライングして出るかもしれない、などという頭の悪いことを考える自分が情けない。


一時間前は威勢がよかったのに、だんだんと勢いをなくした僕は、諦めを決め込んで携帯ゲームを始めた。デジタル時計が何の感情もなく、ぺらっ、ぺらっと時間を書き換えていく。

あともう一回やったら…焦ってゲームどころではないのに、何も頭に入っていないから負けてばかりなのに。僕は臆病だった。


十一時二分になっても、怖くて更新ボタンは押せずにいた。


通知画面に結花からのメッセージがふっと浮かび上がった。ぼくはびくっとした。びくっとして携帯を放り投げて、寝転がった自分の顔にまともに落ちてきた。


やれやれ。こんな臆病な僕がどうやって結花の特別になれるんだろう。情けなくて鏡を見ることもできなかった。

更新ボタンを押すと、今までの何倍も長く、渦を巻いていた。ごくり。真っ白な画面が何か切り替わったのを直視できずに、僕は結花と一緒にパン当番をしたときのことを思い出していた。


「浩ちゃん、ちゃんと持ってよ!」

「持ってる持ってる。」

「嘘だ!指先だけしか使ってないじゃん。落としたら浩ちゃんのせいなんだから。」


半べそをかいている結花がかわいくて、八歳の僕はまだ子供だというのに、この子が好きだと思った。

驚いている結花を、目の端っこに得意げに映しながら、僕はパンの入った大きなプラスチックケースを一人ですいっと持ち上げた。

八重歯のちらっと見える大好きな笑顔。怒っても泣いても、すぐにころっと笑顔になる結花。僕が初めて好きになった人だった。


「…あった!」


本当に信じられなかった。工業高校で野球しかしていなかった僕が、因数分解の初歩の初歩でつまづいて赤点を食らっていた僕が、英語の解答欄はとりあえず全部Bの選択肢で埋めていた僕が、晴楓大学の商学部に合格した。

信じられなくて二十八回番号を確認したけれど、僕の受験番号は、心外だと言わんばかりに、何度見てもそこにあった。


「え、先輩受かってるっすよ、これ。半端なくないすか?」


信じられなくて二年の吉村に電話して見てもらったけど、やっぱりあった。吉村はもっとびっくりしていた。お礼もそこそこに僕は結花の電話番号を押した。


珍しく六回コールして、やっと結花は出てくれた。心臓が飛び出そうだった。


「あ、ごめん、今大丈夫?その元気にしてた?」

「何言ってるの?昨日も夜電話したじゃん。」


訝しんでいる声をしていた。気の利いた言葉が出てこない。ごくり。

僕は受験で使い果たしてしまった脳細胞をどうにか動かそうと必死だった。


結花の後ろでざわざわとうるさい音がしていた。


「もしかして結花、出かけてた?」

「うん、ちょっと家族で買い物。いいよ、でも。浩介と話したいし。」


家族で買い物をしている結花に、告白するのがさすがに微妙なのはいくらバカな僕でもわかった。


「結花、話したいことがあるんだけど、明日会えないかな?」

「明日?私は全然大丈夫だけど浩介、試験は?」

「そのことでちょっと結花に話したくて。そっち行っていい?」

「なんかよくわかんないけど会えるならいいや。駅まで迎え行くね!着く時間わかったらまた教えて。」


後ろから結花のお母さんが、結花を呼ぶ声がした。僕は急いで電話を切った。結花が僕に会えるのを喜んでくれているという状況がたまらなく嬉しかった。


嬉しい気持ちで手が滑りながら、僕は高速バスを予約した。

いつもは特急を使っていたけれど、今回はこっそり早く着いて、東京という都会の街で、結花にプレゼントを買うつもりだった。


それに、引退後に二カ月だけやった引越し屋のバイトで貯めたお金は、何度も東京に行くうちに、そろそろ底をつきかけていた。

大学生になったらもっともっとお金がかかるし、結花と一緒に行きたいところがたくさんある。特急なんて使ってられなかった。貧乏な奴だと思われたくなくて、結花には内緒にするつもりだった。


僕は背伸びをしているかもしれない。だけど、どうしても結花と並んで歩きたかった。





 二月二十八日 午後一時

「じゃあ、さっきの曲の出だしからもう一度いってみよう」


デビューライブのリハーサルは簡単ではなかった。

路上で経験を積んできたし、小さいライブハウスなら高校の頃から一人にせよ、バンドにせよ、何度もこなしてきたから余裕だと思ったけれど、お客さんがぎっしり入って、色んな演出をするライブというのは、全く別のものであるみたいだった。


醍醐味、という言葉では全然足りなかった。いつかこんな夢みたいなライブも、うんと気怠く、自我を出しながら、ほいほいとこなせるようになってしまうんだろうか。わくわくして内臓が口から飛び出そうだった。これからどれだけの人が私たちの音楽を聴いてくれるんだろう。


私が吐き出した消しゴムのカスを、ハチさんが綺麗に整形して包装して、赤と紫とピンクのぐるぐるに染まった消しゴムみたいにして。そうして丁重に出荷して。

どれだけの人が勇気をもらったと言って受け取ってくれるんだろう。わくわくしてまた、内臓が口から飛び出そうだった。


「乾杯!」


遅めのランチは、景気づけにとハチさんが買ってきてくれたすき焼き弁当だった。

お昼だし明日があるから、もちろん烏龍茶だったけれど、こうしてハチさんと乾杯した中ではとびきり一番に幸せだった。


初めてハチさんとセッションしたとき日の打ち上げで行った焼き鳥屋さんのレモンチューハイ。

高校生なのにどきどきしながらこっそりと頼んだレモンチューハイ。


何曲目かを持ち込んでレコード会社の人にひどくこき下ろされた日に行った、カップルだらけのバーで乾杯したミモザ。

肩身の狭いミモザ。


初めて二人で小さなライブハウスを貸し切ってやったライブが大成功に終わった夜に、ハチさんの家で乾杯したビール。

冷たくて胸にぐんぐんと染みわたったビール。


色んな乾杯が私の中に駆け巡ったけれど、どうしたって今日の烏龍茶には勝てっこなかった。


「明日が来るのが待ち遠しいなあ。あずちゃんの晴れの舞台を私が一番近くで見れるなんてさ、正直ここまであなたがいけるって私あんまり思ってなかったの。ただ一緒に音楽作って楽しいなって、私だけ気づいてるだけでいいかなって。

だけど実際いろんな人に認められるあずちゃん見てるとこう、嬉しいよね、手放しに。親になったことないけど、きっと親の気持ちってこんな感じなんだろうなあ。」


どうしても実家に置いてきたピックで使いたいものがあったから、その日は急いでバスに飛び乗った。水を染みこませてしまった綿菓子みたいに、分厚い雲が空を覆っていた。


「あずちゃんってほんとひやひやさせるよね。明日、もし遅刻したら私が椎名あずさってことにしてデビューするからね?」


ハチさんはくすくすと笑った。煙草の煙が白い壁に渦を巻いて、だんだんと消えていった。





二月二十八日 午後四時


卒園式前の出張は今回が最後。なんとしても夜七時の電車に乗って、そのあとバスに乗らないといけないから、松本支店の吉原さんは車のスピードを徐々に上げていった。


昨日の朝、手を振って行ってらっしゃいと言った亜衣はいつになく嬉しそうだった。枝里子に抱っこされてまだ少し眠そうな亜衣。白と水色のボーダーのトレーナーは今年の誕生日、僕が三日遅れで買ってきたプレゼントだった。


六歳の子に僕はずいぶんと寂しい思いをさせてしまった。枝里子はあれ以来、僕に怒ってくれるようになった。枝里子はいつだって良き友達で、良き彼女で、良き妻で、良き母だったけれど、出会ってからずっとふつふつと感じていた、ちっぽけな虚無感がすーっとつきものが落ちたようになくなっていっていた。


二月の終わりの空気は冷たくて、吐く息はほんのりと白かった。駅の階段をのぼりながら、僕は家族三人で過ごすひな祭りと、来週の亜衣の卒園式のことを考えていた。


早々とクリーニングに出して吊るしてある、三人分のよそいきが、頭の中にふわっと浮かんで僕は嬉しくてきゅっと唇を噛みしめた。

三人で過ごすこれからを考えて、笑顔になってしまいそうになるのをこらえながら、なるたけ普通に見えるように携帯に目を落として、興味もないニュースの画面をすすっとスクロールした。


天気予報のマークを何気なく押す。今夜は天候が荒れるらしい。枝里子は洗濯物を取り込んだだろうか。バスに乗って寝ている間に晴れてくれればいいな。


ぼんやりそんなことを思いながら、ホームの切れ間から覗いている真っ黒な雲を見ていた。

 




二月二十八日 午後十時


夜だからなのか、それとも雲の暗さなのかわからなかった。


僕はうとうとした目を開けた。見渡す限り真っ黒で、本当に何も見えないぐらい暗かった。

もう春がそこまで来ていて、お昼なんかは暑いと感じることさえあるのに、とてもとても寒くて、僕は羽織っていただけのパーカーを首まで閉めて、詩乃の右手を探した。詩乃はすーっと寝息を立てていた。穏やかな寝顔を見るとなんだかほっとして、外の暗さのことは忘れてしまった。


これから三日間を過ごす北海道はもっと寒いだろうか。詩乃と旅行をするのは本当に久しぶりだった。


バスの乗客は僕たち以外に五人しかいなかった。

ラベンダー色のセーターを着た、品のよさそうな初老の女性。

釣竿を持った真面目そうな眼鏡の中年男性。

学ランを着た坊主頭の男の子。

ギターだろうか、大きなケースを背負ったショートカットの若い女性。

スーツケースを持った三十代ぐらいのサラリーマン。


みんな疲れているのか、うとうとしていた。バスの窓の外は相変わらず真っ暗だった。雨がしとしとと降って窓ガラスに流線型を描いていた。

誰のものかわからない寝息がすーっと聞こえた。どこへ向かうんだろうか、何をしに行くんだろうか。


みんなそれぞれ違う人生を生きているんだろうけれど、不思議と、全員が小さな幸せをたたえているような、柔らかな時間を過ごしているように聞こえた。

誰のものかわからない腕時計の秒針が遠くの方でちくっちくっと鳴っていた。僕はここにいる時間が音もない、永遠に想えた。長く時間が経ったようなのに、本当はいくらも進んでいない。


もう一度目を閉じようとしたその時だった。窓の外が急に明るくなった。

朝が来たのかと思ったけれど、あんまり強い光なので、僕は思わず目を閉じてしまった。雨の流線型は突然見えなくなった。真っ白で真っ黄色な光が、迫るように僕たちに向かってきた。

耳をつんざくような大きな音が聞こえて、バスの車体はちぎれそうにがったがたと震えた。

爆発音だろうか。下から突き上げるような振動と重低音が僕たちの身体中を駆け抜けた。音なのか振動なのか衝撃なのか、熱いのか冷たいのか、それさえもわからないほどの何かが僕たちを駆け抜けていった。


バスは急ハンドルを切った。大きく横倒した車内で、サラリーマンが持っていたスーツケースが窓を突き破って外へ出ていってしまった。釣竿の男性のこわばった顔が目の前に降りてきた。ふわっと空を飛んでいるような感覚があった。ギターが無造作に不協和音を鳴らした。芋焼酎と書かれた瓶が、バスの天井に突き刺さるようにして落ちてきて、割れて飛び散ってアルコールの強い匂いが充満した。坊主頭の高校生がわっと声をあげたような気がした。

詩乃は驚いた顔をして声も出せずに僕の左手を握り締めていた。


「詩乃、」


息苦しくてもがいた。自分の声なのに自分の身体の中だけで聴こえたみたいだった。ゆらゆらとした光がまぶしい。


二月の湖の中はあまりにも冷たかった。僕の左手は空っぽで、詩乃の右手は見つからなかった。

ラベンダー色のセーターがふわふわと浮かんで沈んでいった。ギターケースがごつんと岩にぶつかってばらばらになった。


喉がカラカラになって、頭が痛くて、目がぴかぴかと光っていた。

真っ黒焦げになったバスから放り出されて、僕は、ここで意識を手放した。


どれぐらい時間が経っただろうか。ただの土曜日みたいに、たくさん寝て、お昼に目覚ましもかけずに起きた土曜日みたいに、僕はゆっくりと目を覚ました。

僕の左手には詩乃の右手があった。ほっとして身体を起こした。詩乃はすやすやと眠っていた。


サラリーマンがスーツケースの汚れを払っていた。使い込んでぼろぼろになっているものの、大きな凹みはなかったようで安心した顔をしていた。

ギターを持った女性はケースを開けて中身を確認していた。

学ランの高校生も、ラベンダー色のセーターの女性も、釣竿を持った男性も、みんな無事みたいだった。


朝焼けのオレンジ色がまぶしく照らす道の上に放り出されて、僕たちはさっきの大きな衝撃は一体なんだったんだろうと、くちぐちに言い合った。


おかしなことがあった。僕たちが乗ってきたはずのバスはどこにもなかった。

僕は旅行に行く前に肩こりがひどくて整体に行ったのに、不思議と治っていて、ラベンダー色のセーターを着た女性はきちんとお土産の入ったバックを肩にかけていた。ギターのケースからは水が滴っていた。


携帯をいじっていたサラリーマンが突然大きな声をあげた。彼はとてもとても青い顔をしていた。


「あの、あの、今年はうるう年、じゃないですよね?」


彼は僕の腕にすがるようにしがみついた。


「違いますよ、次は確か来年だったはず。」


詩乃が僕の肩からひょこっと顔を出してのんきに答えた。


僕たちの旅程は三月一日から三日間だった。旅行会社の人に、一日だから三月割がきいてラッキーですねと、予約の時に言われたんだった。粗品の梅ジュースをもらって喜んでいた詩乃が、まぶたの裏で満面の笑みを浮かべた。


「なんで…二月…二十九日になってる…」


デジタルの腕時計を眺めていた釣竿の男性が、がくがくと震えながら泣きそうな顔をしてこっちを見てきた。


ガードレール沿いをふらふらと歩いていたラベンダー色のセーターの女性は、小さく悲鳴を上げて座り込んだ。僕は何が何だかよくわからなかった。


泣きながら力が入らなくなってしまった、ラベンダー色のセーターの女性を介抱しようと近づいた、ギターの女性が大きな目を見開いた。口をぱくぱくさせて、遠くを指さしながら、僕たちの方を向き直った。


彼女の視線の先には、僕たちが乗っていたはずのバスが真っ黒焦げになって湖に浮かんでいた。

 

僕たちには明日が、三月一日が、来ることはなかった。

二月二十八日午後九時に出発したバスに乗り合わせた七人は、落雷によるバスの事故で、当たり前にあるはずだと思っていた明日を、永遠に途切れることがないと思っていた明日を、見ることはできなくなってしまったみたいだった。


僕たちはやっとわかった。ひどく落胆し、絶望した。


だってもう僕たちはこの世にいないんだ。見つめた先に広がった湖は朝焼けのオレンジが寂しく反射してキラキラと輝いていた。少しずつ空が白んでくる。

春と呼ぶにはまだ早い、とても寒い朝なのに、だれも白い息を吐いてはいなかった。


誰しも、永遠が続くと思ったから、パフェの上のさくらんぼを最後に残しておくみたいに、幸せを繰り越して、いつかのご褒美のために取っておいたんだ。味のしない、生クリームばかりのパフェに、甘んじていたんだ。我慢して。


こうなることがわかっていたら、どうして骨を折って、多くの苦労をして、誰かを待たせたりしただろうか。


過ぎてしまった時間が、取り戻せなくなって有効期限が過ぎてしまった幸せが、僕たちの指の間をすり抜けていく。


坊主頭の高校生がまるで子供みたいに声をあげて泣いた。サラリーマンは携帯の中の家族の写真をぼおっと見つめている。

ちくっちくっと誰かの時計の秒針が、沈黙する僕たちの中の時間を、空気を読まずに刻んでいった。


「私たちは死んでしまったんでしょう?それなのにこれは、今のこの時間は何なの?どうして生きているみたいなの?夢を見ているだけなの?」


ラベンダー色のセーターの女性はいらいらした口調でまくしたてた。坊主頭の高校生は泣き止まない。ギターの女性は知らない曲を静かに口ずさみ始めた。詩乃は不安そうに僕の左手をぎゅっと握りしめた。


「たぶんなんですけど…」


釣竿の男性が恐る恐る口を開いた。あんまり声が小さくて、誰も彼が発言したのに気づかないほどだった。


「たぶんなんですけど、あの、もしかしたら僕たち、あと一日だけ、生きられるんじゃないんでしょうか?本当は昨日の続きは三月一日なわけで、なのに今僕たちがいるのは二月二十九日って、本当はなかった一日なわけじゃないですか。ボーナスというかおまけというか、なんか、一日だけ延長できるような、そういうルールになってるんじゃないでしょうか?」


ギターの女性は歌を歌うのをやめ、はっとした顔でこちらを見た。カレンダーの中に、ぽこっと浮かび上がってきた二月二十九日を、ごしごしと擦りながら。


「+a day。現実になっちゃったのね…。怖い正夢…。」


寂しそうにうつむきながら、彼女はふっと微笑んだ。


本当はなかったはずだった二月二十九日が、まるで当たり前にあるはずだった明日のように、今、僕たちの手元にあった。


終わってほしくなかった永遠が、ずっと続くと思っていた永遠がぷっつりと音を立てて終わってしまった。


待って、そう言葉をかけるのも聞かないで。僕たちの身体はすっかり動かなくなってしまった。


本当ならもう、繰り越していた幸せを、待たせていた誰かとの時間を、取り戻すことは許されないのに、僕たちには、きっと幸いにもあと一日だけ、あと一日だけ、永遠が残されていた。


僕たちには残されていたのだった。

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