prologue.4
「旅行?」
詩乃は聞いた瞬間から嬉しそうな顔をした。
せめてもの償いだった。二泊三日の新婚旅行。僕のなけなしの貯金で詩乃の行きたがっていた北海道に行こうと僕は提案した。
「行きたいって言ってたとこ、全部行こうと思ったら二泊三日じゃ全然足りないんだけど。」
「いいのいいの。弘樹と旅行行けるってだけですごく嬉しい。大学の時の富士急以来だもん。すーっごく楽しみ。お休みの申請するね。」
僕と詩乃の休みが合ったのは二月の最終週から三月の頭にかけての一週間だった。
北海道に行くシーズンとしてはベストではない。だけど、少し安くなるこのシーズンを、詩乃は知ってか知らずか喜んでくれた。
たぶん詩乃は気づいている。僕は少し情けなかった。でもこれでやっと新婚旅行に行ける。感情が迷子になった僕の手を掴んで、詩乃はぐんぐんと前に進んでいった。
「ここ!ここは絶対行きたいなあ。」
「綺麗な夕焼け、どこ?釧路?」
「そう。この港の夕焼け、弘樹と一緒に見たいな。」
夕焼けの中にいる詩乃を僕は想像した。白いウエディングドレスを着て、夕焼けの中で微笑む詩乃。
赤とオレンジの境目をぼやかすように広がった白い雲。想像なのに美しくて、僕は息をのんだ。
でも、唐突に悲しくなって、美しい詩乃の姿をぱっと消してしまった。
「海鮮はちょっとシーズンオフかなあ。あ、でもここおいしそう。ほんと北海道って食べたいものがいっぱいあって、今からわくわくする!」
若い時から私は屋久島に旅行に行くのが夢だった。死ぬまでに一度は屋久島の杉を、見てみたかった。そのためにこっそり年金を貯金しておくなんてこと、孝にばれたらこの均衡がなくなってしまうんじゃないか。
私はとても悩んだ。悩んで悩んで、でも諦めきれなくて、引出の奥の方に隠していた屋久島のパンフレットが、孝に見つかってしまったのは、孝が三年前の川柳教室の写真を探してごそごそとしていた時だった。
「なんだ、早く行ったらいいじゃないか。そのうちに歳を取っていけなくなるぞ。」
拍子抜けするほどあっさりだった。特段上機嫌な日ではなかったのに。
「家のお金のことはお前が全部やりくりしてくれてるんだから、俺は何も言わない。むしろお前は何にも贅沢しないから気味が悪いくらいだったし、俺はほっとしたよ。」
そう言って昔のままの笑顔で孝は笑った。
旅行に行く日は二月二十六日と決まった。私はうきうきしていた。孝が旅行をあっさり許可してくれたのはもちろんだけれど、この長く続いた均衡を保つ作業から、たった三日だけだけれど解放されると思うと本当にうきうきした。
旅行を決めてからも毎朝、孝が上機嫌なままかどうか確認した。
どうも“鶏のから揚げは昼ごはんに食べた”と言ったつもりだったようなのに、忘れていて、晩ごはんとおかずがかぶってしまった日と、川柳教室の時間を忘れていて、高橋さんのところの爺さんと話し込んでしまった日と、庭のプランターで育てていたネギがいつの間にか枯れてしまっていた日と、孫の雄大が自分の誕生日より友達との約束を優先した日以外は、基本的には機嫌は良い方だった。上出来だった。
少しずつ日が長くなってきていた。ゆっくりと洗濯物の陰が伸びて、うとうとしている孝の上にかかるように伸びていた。
屋久島はもう暖かいだろうか。
孝を日常生活の中に置いてけぼりにして、自分だけが均衡の外に出ることに、罪悪感がなかったと言えば嘘になるけれど、それよりもうきうきの方が勝っていた。
二月の終わりじゃ、ちょっとワカサギはギリギリだった。
まあいい、そうなったら根魚でも釣りにどこか景色のいいところに行こう。ミケちゃんは寒そうに首をすくめた。
休みの申請を出すときに、自己主張ができないのは僕の悪い癖だった。
一番寒い季節に家を空けたらミケちゃんが風邪を引くかもしれないし。そう思うことにした。私のせいにしないでよと言わんばかりに僕を睨み付けるミケちゃんだったけれど。そんな表情さえかわいいことこの上ない。
結局三月にかかる週でやっと休みが取れたので、もうあきらめて福井に行くことにした。金沢の方も行ってみたかったし、釣りは二の次だなあとぼんやりと思った。
一応漁港の近くに温泉宿を取った。堤防が長く伸びて、釣りのポイントとしても悪くないみたいだったし、一気に僕は嬉しい気持ちになった。
ミケちゃんを連れていくことも考えたけれど、長いバス旅で気分が悪くなったら大ごとだ。
隣のおばあさんにミケちゃんを預けるのは少々心もとなかったけれど元飼い主だし、大丈夫だろうと不安な気持ちを半ば強引に押し殺した。
「おとうちゃんがいなくて寂しいか?」
ミケちゃんは答えなかった。靴下はまた今日もぽいっと脱ぎ捨てられてその辺に散らばっていた。
ミケちゃんがいなかったら今頃どんなに空虚な時間だっただろう。
かりんとうみたいにつやつやした背中を撫でながら、釣りの本を開いて伏せたまま、僕はこの時間が永遠になればいいと、ぼおっと思った。
試験の手ごたえは何とも微妙だった。受かってるとも受かってないとも。自分でもわからない、そんな感じ。不安な問題を全部数えたら絶対に受かっていないけれど、そんなことはさすがにないだろうけれど、まあ結果を見てみないとわからない。
だからまだ結花には晴楓を受けたことは言えなかった。合否がわかる二月二十八日まで、僕は一人でもやもやしないといけない。
「ね、結局何の用事だったの?こんな時期に試合なんてありえないじゃん。シーズンオフだし引退してるし。」
結花は頭がいいからずっと疑っていた。東京は今日で六度目だった。結花に会うのは八度目。
結花はミントグリーンのニットに生成り色の長いスカートを履いていた。夏は小麦色に日焼けしていたけれど、結花もマネージャーを引退してから外に出なくなったからなのか、だんだんと日焼けがなくなってきて、化粧なんかもしてしまって、ますます大人びて見えた。
「ん?今日なんか顔違う?」
つやつやとしたピンク色の唇を見て、何か言いたくなったけれど、セクハラをするおじさんみたいな気味の悪い褒め言葉しか思いつかなくて、結局こんなバカみたいな言葉を再生してしまった。
「悪い?お洒落しちゃ。まあ浩介はついでだろうけど、私は今日すごく楽しみにしてたからね。」
また頬を膨らませた。そして三秒後には笑顔に変わっていた。
「こっちのこれもおいしいよ、浩介、半分こしよ!」
帰りは駅まで送ってくれた。遠くなるからいいよと言うと、泣きそうな顔をしていたからそれ以上何も言えなかった。
「浩介これ…」
手作りのチョコだった。結花の手作りのチョコ。そう思っただけでくらくらするほど結花が好きで、今すぐ気持ちを伝えたくなった。
「あ、待って、これ中カード入ってるの。でも受験終わるまでは開けないで?チョコは、勉強しすぎて頭痛くなったときに食べて。」
真っ赤になりながら結花はうつむいた。今すぐ抱きしめたい気持ちを押し殺して、僕はいつもみたいに明るく、ちょっとだけふざけて返事をした。結花は八重歯を見せながらキラキラと笑った。
結花と一緒に、永遠に一緒にいたい。痛いほどそう思った。
次に会うときには、合否はわかっている。僕たちがこれからどうなるか、わかってるんだ。
僕はもう、結花と一緒に大学生活を送ることだけを考えた。四月からどんな楽しい時間が待っているだろう。
結花の笑顔を見ながら、僕はそんな妄想を何度も何度も頭の中で再生した。
「ハチさん!ライブの日、三月一日に決まったから!」
ハチさんに真っ先に伝えたくて、走ってスタジオのドアを開けるとハチさんとレコード会社の人がぽかーんとした顔を見合わせた。
「あずちゃん、そういう話は事務所通しくれる?」
ハチさんはくすくすと笑った。これで正式に、ハチさんと一緒に初めてのステージができる。
インターネットで自分の名前を検索することはあまりないけれど、タイアップが発表された日だけは怖くて、恐る恐るキーワードを叩いて、しばらく目をつぶっていてからそっと開いた。
まだ先行配信だったからサビの部分が十秒だけだったけれど、私の吐き出した音楽は、世間の人からもっともっと聴きたいと思ってもらえるものになっていたみたいだった。嬉しくて気づいたら泣いていた。
「あずちゃん、ライブなんだから一曲ってわけにはいかないんだよ。ほら、前にあなたが作った曲で山川さんが聴いてみたいって言ってくれたやつ、ピックアップしてるから今からチェックするよ!」
ハチさんはてきぱきと私の消しゴムのカスをまとめて、せっせと音楽にしてくれた。
私の初めてのライブはセットリストが十二曲になった。リハーサルをして、ポスター撮りをして、取材に応えて、いろいろなことをしているうちにもう一週間だった。
また自分の名前をキーワードに入れて検索してみたら、私のライブのチケットはすっかり完売になっていて、譲ってほしいと呼び掛ける人もかなりいた。
夢みたいだった。こんなにたくさんの人が私の、私とハチさんの音楽を聴きたいと思ってくれている。
少し前まで、ソイラテのトールサイズを注文してカウンターの端っこで何も浮かばなくて、パステルなメルヘンな落書きをしていただけの私が、世間からは気づかれもしなかった私が。
夢みたいだった。
今週の四日間の出張をこなせば、しばらくは東京にいられる。
なんとしても三月七日を休むために、僕は今月だけで十四の都道府県を行ったり来たりした。記憶はほとんど飛行機と、空港に向かうバスだけだ。
でも僕が出張した案件がまとまって、松本支店の吉原さんは大喜びしていた。僕にも少し査定でプラスがあるだろうか。あったら次のボーナスで亜衣に、枝里子に何か買ってあげられる。
そう思ったら、またがんばれるような、糸をくくりわせて繋いでいるような、そんな気持ちがしていた。
「パパ帰ってくるの三月一日?じゃあ帰ってきたらひな祭りだね!」
枝里子の言いたいことはだいたいわかっていた。僕は二日の帰りに、いつもの九個入りのミニケーキのセットをちゃんと頼んであった。
今年は枝里子のお義父さんに代わりに取りに行ってもらうなんてことはしない。ちゃんと、亜衣のためにちゃんと自分で、用意したかった。
「そのうちひな祭りなんて言っても、亜衣も出かけちゃったりするようになるのかな。」
「そうよ、女の子だもん。今のうちよ、パパ、パパなんて言ってくれるのは。」
枝里子は笑いながら爪を切っていた。僕に視線さえもくれなかった前の枝里子は嘘のようだった。
あと一週間。
そうしたら僕は亜衣のお父さんとして、枝里子の夫として、卒園式に出席できる。二人の手を引いて、胸を張って歩く自分を想像したら嬉しくなった。