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+a day  作者: 土河 雲実
3/11

prologue.3

結婚式をしない。

僕と詩乃の中ではずっと前から決まっていたことだった。僕たちは、同じ晴楓大学の経済学部で同じ鈴木ゼミ、大学一年生の時から付き合っていた。

僕たちは偏差値だって世間体だって全然悪くなかった。


大学卒業の年、詩乃は大きな銀行の窓口の内定を取った。僕はレコード会社と出版、テレビ局を片っ端から受けて、内定は一つもなかった。


「弘樹のやりたい仕事は狭き門だねえ。」


詩乃だってきっと焦っていたと思う。僕は詩乃の優しさに甘えた。

結局転職は三回。やっと今の出版社に勤めるようになって、僕はわずかながらに、若い頃イメージしていた華やかなマスコミの仕事と今の自分との“ずれ”を感じながらも、この八年でかなり夢の形に寄せてこられたことに、とても満足していた。

このくらいの誤差は自力で埋められるぐらい、この八年苦労してきた。もう十分だ。詩乃はもっと苦労してきたと思う。


「詩乃、待たせてごめん。結婚してほしい。」


もっと気の利いたプロポーズがしたかった。こんな、つまらない言葉でしか伝えられなかった。

でも詩乃は見たことがないぐらい大きな笑顔になって、見たことがないぐらい大きな泣き顔になって、うなずいてくれた。


付き合って一年目の記念日も三年目のクリスマスも、六年目と八か月目の記念日も、僕の二回目の転職祝いも、詩乃の昇進祝いも来たこのレストランの同じ席で、詩乃は僕の妻になった。 


「それでも式はしたほうが記念になるのに。詩乃だってそりゃ、一番かわいい二十代の頃に比べたらトウが立ったかもしれないけど、白いウエディングドレス着たいわよねえ?」

「お母さん、もうその話はいいって何回も言ってるでしょ?」


詩乃の白いウエディングドレス。僕だって見たい。でも僕にはその力がないから、申し訳なさそうな顔のまま、その場にいることしかできなかった。

本当は、貯金がまるでない三十歳の男は詩乃にプロポーズなんかしてはいけなかったのかもしれない。


「私は白いウエディングドレスなんて全然興味ないもの。それよりお母さんもうちに遊びに来るでしょ?ダイニングテーブル、こっちの方が広くて使いやすいと思うんだけど。どうかな?」


けらっとしている。詩乃はいつだって。けらっとしているから、僕なんかを根気強く待っていたんだと思う。

白いウエディングドレスを着た詩乃をお母さんに見せてあげることができない僕は、これから何が何でも詩乃を世界一幸せにしないといけないし、幸せにしたいと思う。きゅっと口の端っこを縛って僕は念じた。

詩乃を幸せにする。まるで何かの呪文みたいに、何度も念じた。





今年の年の瀬は皐月が向こうの実家に行ってしまったから、全然実感がわかなかった。紅白歌合戦に出ている歌手の三分の一もわからない。いくつか知っている曲も流れているけれど、スペシャルメドレーとかなんとかで今年の曲ではないみたいだった。私は混乱した。

孝と二人きりの時間がどれだけ経ってしまったんだろう。孝は今、何を考えてテレビを見ているんだろう。


「醤油、どこだったっけ?」

巻き寿司につける醤油を切らしていた。


買ってこようか?という孝はきっと本当はビールが足りなくなったから買いに行きたいんだと思う。退職してから健康診断がないし、孝はもう七十歳を超えている。できればお酒をやめてほしいなんて思うけど、こんな年の瀬に不用意なことを言って、また不均衡になってしまうのは怖い。

除夜の鐘を聞くときぐらいは、柔らかい気持ちでいたい。


「あら、じゃあお願いしようかな。ついでに海苔もきらしてたの、買ってきてくれない?明日おせちだけじゃ足りないとき、お餅焼こうと思ってたから。」


孝が出かけた後、ベランダに少しだけ出て、大晦日の風をふんわりと浴びた。人が騒がしく嬉しそうに連れ立っていくのが、たくさん見えた。春になったら孫の雄大は中学生になる。


「お母さんもこっちに越してこない?今の家じゃ広すぎるし、うちまでのバスの本数も少ないし、これから歳を取ったら心配なの。それに、本音を言うとね、私も向こうの家よりお母さんと近い方が良いなあ。最近向こうのご両親、妹さんの方の子どもにかかりっきりだから、今のうちに二世帯組んじゃうのはどうかなって。あの人も全然いいよなんて気楽なこと言ってくれてるのよ、今なら。」


今。今というのはいつまでを指すのだろ。大好きな一人娘の皐月が一緒に住もうと言ってくれているのに、私は今日も、高橋さんのところの爺さんと、吉田さんのところの爺さんと、川柳教室の帰りに一杯やってくると上機嫌に電話をくれる孝に、この話を切り出せない。


皐月だって、これから雄大の受験やなんやで忙しくなる。朝の七時半に始まって夜の十一時に終わる、この途方もない均衡のうち、どれだけの時間を皐月は私たちに割いてくれるのだろう。どれだけ埋めてくれるのだろう。

二世帯にしたってきっと、私と孝の微妙な均衡は変わらないんだと、心のどこかで思っていた。それならば、孝が上機嫌であることが、私にとって何よりも最優先事項だった。


「お父さんは住み慣れてるこの街を離れたがらないと思うわ。友達もいっぱいいるみたいだし。」


皐月は驚いたような顔をしていた。

お父さんに友達がたくさんいることについてなのか、友達母娘で何にも秘密がなかった私たちに、ちっぽけな気遣いの溝ができてしまったからなのか、私が少し拗ねていることが分かったからなのか、大好きな娘であるはずの自分と過ごせる時間を、母親の私が手放しに喜んでくれなかったことに傷ついているのか、わからない。


皐月はいつでも友達と遊んで遅くなるときはちゃんと連絡をしてきて、門限はきちっと守って、連れてくる男の子はみんな優しくて爽やかな子ばかりで、本当にいい娘だった。手のかからなくて、でもいつまでも“私の可愛い娘”でいてくれる、本当にいい娘だった。


「こっちのビールが安くなってたからちょっとだけ買ってきたけど、お前、これ好きだろ。」


少しだけばつが悪そうな顔をした孝が帰ってきた。予想通り、ビールを二缶買って。予想通り、醤油と海苔は忘れてしまって。


ぼーんぼーんと遠くの方で小さく鐘が鳴る音が聞こえる。


一度だけ、高校二年生だった皐月が友達と年越しをすると行って出かけた大晦日の夜に、孝と大喧嘩したことがある。

私も孝も皐月に初めての彼氏ができたことぐらいわかっていた。男親と女親でその処理の方法が違うだけだった。年を越すまで、私たちは口をきかなかった。ぼーんぼーん。今日と同じように、遠くの方で鐘の音が聞こえた。


「あけましておめでとう、今年もよろしく。」


テレビの方を向いたまま、絞り出すように、孝が切り出した。孝と結婚してからずっと、ごめん、という言葉を聞いたことがない。

でも私が好きなビールの缶を、大事そうに持ってきて、ばつが悪そうな顔をしてついでくれて、ほんの少しだけ笑った顔が、つい懐かしくて、私はわっと泣いてしまった。

孝と喧嘩をしたのはその一回こっきりだった。


「どうしたんだ、急に泣いたりして。」


思い出したら涙がこぼれていた。

紅白歌合戦はいつの間にか終わっていて、ゆく年くる年になっていた。いつの間にか新しい年になっていた。


「あけましておめでとう、今年もよろしく。」





今年の冬こそはワカサギ釣りにいく。うんと前から決めていたことだった。ミケちゃんのこと以外で僕がお金を使うのは、趣味の釣りをするときだけだった。


たまに僕が釣ってきた魚を、ミケちゃんはおいしそうに食べる。そんなミケちゃんの物珍しそうで、嬉しそうな顔を見たいがために釣りをしているということも、何パーセントかはあった。とっても邪だ。

まるで好きな女の子と話したくてギターを始める高校生のように、娘の気を引きたくて流行りのアイドル歌手の載っている雑誌をうっかり買ってくるお父さんのように。


「ミケちゃんはワカサギ好き?」

返事はないけれどワカサギは行くと決めていたから行こうと思った。


ミケちゃんと出会ったのは僕が昆布工場に転職したばっかりの、五年前の春のことだった。隣に住んでいたおばあさんは、かりんとうみたいにつやつやした黒猫をいっぱい飼っていた。そのうちの一匹が産んだ子猫だった。生まれつき左の脚が不自由な猫だった。


みゃぁ、そう言って弱弱しく僕の方に向かってきた。僕は四十歳を超えてもまだ一人ぼっちだった。


高校を出てから広島の大学に行って、一人暮らしをしたけれど、彼女なんてできる気配もなくって、そうして僕は人と話すのが苦手なのに保険会社に就職した。いつも呼び出されて怒られていた。みんなの前で見せしめみたいに怒られていた。

青森に転勤になった時に、母が亡くなった。ぷっつりと糸が切れたみたいに全部どうでもよくなって、母と一緒に暮らしていた家にそのまま住み着いてしまった。三十七歳だった。昆布工場に仕事を変わってからはとても気持ちが安定していた。


ミケちゃんと出会ったのは、僕が少しばかり精神的にも身体的にも経済的にも余裕ができた、そんな時だった。


弱弱しく、ほんの少しずつ、ミケちゃんは僕に近づいてきた。そうして僕の膝の上に滑り込んだ。みゃぁ。安心したような顔をして目を閉じた。かりんとうみたいにつやつやした身体をしていた。


僕は残りの人生を、この子と生きていきたいとはっきりと思った。


「ミケちゃんも一緒にいく?山中湖。綺麗だよきっと。ミケちゃんも気に入るよ。」


ミケちゃんは出不精だったから、そんな遠いところ気に入らないと言わんばかりにぐぐっと伸びをした。

あんなに弱弱しかったミケちゃんももう五歳だ。すっかり大人になって、僕に対する初々しさはなくなってしまった。けれどミケちゃんは僕にしか懐かない。それがとても嬉しかった。僕は四十六歳で結婚もしない人生を選んだけれど、ミケちゃんが僕だけを信頼してくれているのが、たまらなく嬉しくて、世界中で一番幸せなのは僕だって自信を持って言えると、本当にそう思った。





センター入試が来週に迫っているというのに、僕はまだ、第一志望の判定がEだった。

正しくは、表向きの第一志望である、地元の私大はB判定だった。両親はなんで僕がこんなに焦って、正月も早々に起きて勉強しているのか、訳が分からないという顔をしていた。


本当に僕が目指しているのは東京の大学だった。結花と同じ晴楓大学。結花はもう推薦入試で合格していて、この年越しも友達と行った初詣の写真を送ってくれた。


結花と同じ大学に行かないと、今の僕には彼女に告白する勇気なんてわかないような気がしていた。とはいえ、表向きの第一志望と本当の第一志望の偏差値は二十以上も離れている。地元で晴楓なんて受ける友達はいないし、今判定はEだから言うのも恥ずかしい。塾の先生にだけは志望校を書くときにばれてしまって、とびきりあきれた顔をしながら模試の結果をつっ返してきた。


「浩介、受験勉強どう?風邪ひいてない?」


結花はテレビ電話にしようと言ってきた。そんなことされると会いたくなる。わかっててやっているんだろうか。

結花は頭がいいから、僕が工業高校から晴楓大学を目指しているだなんて聞いたらきっと驚くと思う。それも悪い意味で驚くと思う。

だから、こんな風に、まるで両想いみたいな時間を過ごしていたって、結花はまさか、僕たちが一緒に大学に行くなんて思っていない。一センチも思っていない。


じゃあ今のこの時間は、結花にとって何なのだろう。

東京の子は大人だから、僕のことなんて好きでなくても、男として見てなくても、お風呂上りにテレビ電話をしたりするのかもしれない。そう思ったら、とても言い出せなかった。


「こっちはあったかいから。結花は?風邪ひいてない?」


なるたけ優しい声を出した。結花は嬉しそうな顔で画面にぐっと近づいてきた。くらっとするほど好きな気持ちが強まった。結花に会いたい。


「浩介の受験、早く終わんないかなあ。早く会いたいなあ。」


結花はカレンダーに僕の受験の日を丸印で書いてくれていた。

本当はその日じゃない。その前に、僕の本当の第一志望の試験日がある。僕はまだ親になんて言ってこっそり東京まで受験に行こうか悩んでいた。


さすがに晴楓に受かったら、めったにないことだからって喜んで行かせてくれると思うし、もしも万一そうでなくても、バイトでも何でもして生活費は自力で賄うつもりだった。

いやいや、そんなことを心配する暇があったら勉強しないと。今の僕では晴楓の門をくぐって受験をしに行くことさえ、メンタルが持つかどうか際どかった。


「浩介が頑張って勉強してるから、バレンタインはそっち行ってもいい?」


バレンタインはだめだった。それこそ本当の第一志望の試験日だった。


「いや、その、バレンタインは俺が会いに行くよ。」

「何言ってるの?浩介。受験直前に東京なんか来たらダメに決まってるじゃん。」

「いや、たまたま予定あってそっち行くし、ほんとついでだから。」

「試合?でも引退したのに。まあいっか、どうせついでだもんね。」


結花はあからさまに機嫌が悪くなった。僕は今すぐに本当のことを言って、結花に気持ちを伝えてしまいたかった。

でも、本当にくだらないけれど、結花に似合うような男になってから、なってから、そう思った気持ちがふつふつとよみがえって、僕の行き場のない感情を沈めていった。


「ついでじゃないよ、結花がメイン。」

「棒読みで言われると余計傷つくんだけど!」


八重歯を見せた笑顔が戻ってきていた。結花はバレンタインのところに大きなハートマークを付けた。


「じゃあ私も寝るね!浩介も無理しないでね。」


 センター入試の結果が直前模試の結果と大きく違いすぎて、塾の先生は真っ先にカンニングを疑ってきた。全く、心外だ。

親には部活の親善試合で、どうしても怪我をした後輩の代わりに出ないといけなくなったと嘘をついた。


サッカーの試合を、シーズンオフのこの時期に、それも引退した受験生が、やるわけがないことさえ、わからないようなのんびりした親から生まれた僕は、思い切り背伸びをしてがくがく震えながら東京に行く。


僕もバレンタインデーの日に小さくハートマークを付けた。二年の吉村が目ざとく見つけて、先輩、余裕っすねと冷たく言い捨ててアップに入っていった。


結花と一緒に大学生活を送ることができたらどんなに楽しいだろう。僕が合格証書を持って会いに行ったら、喜んでくれるだろうか。

二月がもうそこまで来ていた。試験の日のバスを予約したら急に、僕は結花に会いたくなった。





窓ガラスは曇るほど外は寒いというのに、私は汗をびっしょりとかいて、頬は触らなくてもわかるぐらい熱く真っ赤になっていた。


「椎名さんのメッセージはわかりましたよ。また連絡しますんでね。」


優しそうな、でも感情のなさそうな、若めの社員さんがそっと、私の背中を外へ押し出した。


ふうっと息を吐いたら真っ白で、青いチェックのマフラーにうずめた顔は不安そうに涙目になっていた。


「ソイラテ、トールサイズで。」


いつもの席に陣取った。

これで最後だったから、新しい歌詞を書くことも新しいコードを考えることも、今はいらない。やらないようにしていた。

最後のチャンスがゆっくりと膨らんでいくように、まるで何かの願掛けのように。


「ソイラテ、トールサイズでお待ちのお客様」


呼び出しがかかったと同時に携帯が鳴った。背後でソイラテの呼び出しはずっと続いていた。十五分もそのままにしていたから、店員さんはイライラしながら私のソイラテを、他の人の邪魔にならないところにやや乱暴に避けた。


私は力が抜けてしまって、ソイラテを取りに行くどころではなかった。マフラーを外し忘れた顔が、曇ったガラス窓に映る。熱く真っ赤になっていた。


「椎名あずささんの携帯ですか?先日の曲、前向きに考えたいと思ってますので、明日スタジオに来れますか?一応レコーディングの予定なので準備と、あ、あと印鑑と身分証明、忘れずにお願いしますね。」


リリースは二月二十日に決まった。CMのタイアップで、デビューの一週間後にライブもある。夢みたいだ。明日はずっと憧れていた音楽誌に、小さくって白黒だけど記事が載る。夢みたいだった。


「これから予定がずっと詰まっていって、あずちゃん有名になって口もきいてくれなくなるんだから、今のうちに飲んどかないとね。」


ハチさんはウイスキーにハチミツを垂らしながらけらけらと笑った。


「そんな。これからもずっとハチさんに編曲とバックやってもらいたいと思ってるんですからね?」

「わー、今のレコード会社の人の前で言ってもらって、おまけに録音しとけばよかった!」


私のデビューを最も喜んでくれたのはハチさんだった。

最初に電話を掛けたとき、しばらく黙ってしまったから怒らせたかと思ったら泣いていた。

ハチさんにやっと恩返しができる。消しゴムのカスみたいに私が吐き出した、これまでの私が吐き出した、いろんな気持ちを音楽にしてくれたハチさんと、憧れだったライブハウスで一緒にライブができる。夢みたいだった。


「+a dayさ、ほんとにいい曲だと思うんだよね。正直最初聴いたときはキラキラなタイトルだから、大丈夫かなって思ったけど、考えれば深いよね。」


 ハチさんの煙草の煙はまるで生きているものみたいにゆらゆらと白い壁を伝っていった。


「永遠ってさ、確かに字面だけ見たらキラキラしてるけど、バチっと一瞬コレ!ってものじゃなくって、こうやって何気なく続いてる時間が永遠なんだし、誰も気づいてなくて過ごしてるし、そうやって当たり前みたいに自分の周りにあるからこそ永遠なのよね。

いつか、それが突然終わってしまったとしても、残された時間で世界を救ったりする人なんて本当はいない。永遠を長くしたい。今のこの時間を長くしてほしいって、みんなそう思うはずなのに、私もあずちゃんの歌聴いて初めて気づいた。

終わる前提では生きていないから、柔らかいんだよね。時間の余白みたいなのも全部全部、永遠なんだよね。

永遠って全部が全部キラキラな瞬間ではなくって、意味のある瞬間の詰め合わせではなくって、それでいいんだよね、きっと。」





亜衣がインフルエンザになった。枝里子のお父さんがすぐに病院に連れて行ってくれて、そのまま面倒を見てくれているらしい。出張先の新潟のホテルで聞いた。


「毎度のことだけど、本当にお義父さんとお義母さんには世話をかけてしまって申し訳ない。」

「孫のことなら全然いいらしいから、任せちゃいましょ、気にする必要ないって。あなたはいつも大変なお仕事してくれてるんだから。」


枝里子は見本みたいにすらすらと僕をねぎらってくれた。枝里子も亜衣も聞き分けが良すぎて、僕はとってもわがままだけれど寂しかった。


「そうだな、僕がいなくても楽しいならそれでいいや。」

「何?楽しいなんて言ってないでしょ?」


枝里子の声が急にきつくなった。焦っているような怒っているような、そんな枝里子の声を僕は久しぶりに聞いた。


「亜衣だって最初の頃は泣いてたけど、こうもパパがいないと、そりゃそう、幼稚園の子だって、バカじゃないもの。納得するように自分を必死に抑えるの。

楽しい?それ、今熱で苦しい思いしてる亜衣の顔見て同じこと言える?

あなたがいなくて心細くて、でもあなたが働いてくれてるから、こうして生活出来てるって言い聞かせて、頑張って笑顔でいる私にそんなことどうして言えるの?」


堰を切ったように枝里子は泣き喚いた。僕は困惑した。

寂しい寂しいとばかみたいなことを言ったのに、いざ枝里子の不安を大きな大玉ころがしの玉のように乱暴に投げつけられると息もできない。


何も言わない僕を電話越しに感じた枝里子は黙ってしまった。


僕が先に口を開かなければ。枝里子と亜衣が僕の元を離れてしまうなんて、一度も考えたことがなかったけれど、ふっとそんな考えがよぎって僕はいてもたってもいられなくなった。


「ごめん、ちょっと疲れて感情的になっ「ごめん、僕が悪かった。」


電話越しだけど枝里子は驚いたような顔をしていた。見てはないけどそうに違いなかった。


「卒園式、必ず行くから。亜衣にもそう言っていいから。それからこの出張、終わったら直行便で帰るから。」


枝里子にそんなことしないでいい、と言われてしまうのが怖くて全部一気に言った。少しだけ沈黙があって枝里子が口を開いた。


「いいの?嬉しい。」


ギリギリのところで、きっと僕は枝里子と亜衣を繋ぎとめたんだと思う。

電話を切った後、安心してぽろぽろと涙が出た。三月七日は亜衣の卒園式だ。週明け出社したら休日申請を一番に出そう。支社の人たちにも前泊のないスケジュールを組んでもらうようにお願いしよう。

少しぐらいわがままになってもいい。やっとそう割り切れた。僕は少しだけうきうきしていた。


どうしてもっと早く家族でいる時間を作らなかったんだろう。枝里子が送ってくれた、亜衣の写真を見返しながら唇を噛んだ。


まだ遅くない。これから成長していく亜衣をずっと側で見守ることができるんだから。まだ遅くない。


亜衣が買ってきてほしいといったお土産を買って乗り込んだ直行便は、いつにもまして窮屈だったし、家につくのは夜中の一時だったけれど、それでも二人の側にいる時間が少しでも長いことが、僕には大切だった。

枝里子は起きて待っていてくれた。本当に嬉しそうな顔をしていた。

僕たち家族の時間がやっと始まろうとしていた。


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