prologue.2
「弘樹、もう七時だよ!」
詩乃の声が急に頭の中にダイレクトに飛び込んできた。十八歳から聞いてきた詩乃の声。
毎日当たり前に聞いてきた詩乃の声。
朝ごはんは目玉焼きとベーコンとアスパラガスとトーストだった。こういう、ありふれた幸せ、というような、絵に描いたような幸せ、というような。そんな時間を僕はずっと詩乃と一緒に作りたかった。ずいぶん待たせてしまったけれど、これからは、こうして、ずっとこうして。
ドアを閉めた後の、涼しい風が心地よかった。今日から下期だ。左手に光る指輪をぎゅっと握りしめた。きゅっと唇を噛みしめる。詩乃をぎゅっと抱きしめるように、僕はきゅっとして、前をじっと見た。
絶対に詩乃を幸せにする。二人でずっとずっと一緒にいて、幸せに生きていく。とても根拠のない自信だったけれど、それが本当になるように、念じるように、僕はきゅっとして歩いて行った。
バスは、ずっと待っていても来てくれそうになかった。
私は途方に暮れはじめていた。時計は夕方の五時を指していた。孝が帰ってくる時間が近づいている。もしかしたらもう帰っているかもしれない。携帯を見ても何の連絡もないのがむしろ怖かった。さっきまで皐月の家にいたのに。過ごしてきたばかりの柔らかい時間は、もう私の心に残っていなかった。
ふわふわと降ったばかりの、脆い雪みたいに、柔らかい時間は、ぴしゃっと冷たい水をかけられただけで、溶けてなくなってしまう。
家に戻ると電気が消えていた。ただいま。ちいさく声をかけて部屋に入る。孝の靴はない。私はほっとして、また心の柔らかい時間を思い出して、ひっぱり出そうとしていた。
肉じゃがを火にかけたところで聞き慣れた声が帰ってきた。ぽんっと、私の好きな角の店のクリームパンをテーブルの上に置いて。
「あら、少し飲んできたの?」
「帰ろうとしたら高橋さんのところの爺さんに会ってね、去年一回倒れたんだって。」
孝は上機嫌だった。柔らかい時間と共存しても、今日は大丈夫そう。私はうきうきしていた。
たまにこんな日もある。前に二人で暮らしていた時の、前に二人の生活だった時の、私がこの人に人生を決めたときの、そんな孝が出てきてくれる日も。
今日は大丈夫そう。そう思いながら、柔らかい気持ちで私は眠りについた。
「うん、今回もミケちゃん大丈夫、ばっちり健康ですよ、なんにも問題ない。おとうさんの育て方が抜群だからだね。」
獣医の先生はにこにことミケちゃんの頭をなでるのに、ミケちゃんは気のない顔をしながらあくびをした。
かりんとうみたいなつやつやの身体をうんと伸ばしながら僕の膝に戻ってきた。
「今日は何食べたい?」
フランス産の猫缶は、ミケちゃんの大のお気に入りになった。
そろそろ寒くなってくる。ミケちゃんは嫌がるけれど、あたたかい靴下に、毎年挑戦していた。ぽいっと脱いでしまうのはわかっているのだけれど。色とりどりで柄もとりどりな靴下。並べて畳むだけで僕を嬉しくさせてくれる、ミケちゃんの靴下。
ミケちゃんの物以外、僕は買い物をしたい物もない。
「荒井さん、今度町内会の書記やってもらえるかしら?」
正直なことを言えば、生活において、人と話す機会は極力少なくしたかった。今の仕事も工場の隣のレーンの人と、はい、ぐらいしかかわす言葉がないから続いている。
「何言いたいかはだいたいわかるけどね、書記の方が楽よ?書くだけだし。それにミケちゃんのことで随分融通してるつもりなのよ、一応は。」
「だってこっちのクレープ食べたいって言ったの、浩介じゃん。」
結花は怒って窓の方に顔を向けてしまった。クレープの味のことで怒ってしまった。
僕は大好きな結花が怒っているという、危機的状況を乗り切るために、即座に謝らないといけないのに、怒っている顔さえもかわいくて、愛おしくて、思わずくすっと笑ってしまった。
「もう!笑うとこじゃないし!」
原宿という都会に、僕は行ってみたかった。テレビで見ただけの都会に、僕には縁のない都会に。結花と出会わなければ、ずっとずっと縁のなかった都会に。
結花は里見小で一緒に給食当番をした頃と何も変わっていなかった。
だけれど東京の子らしく、時々とっても大人びていた。二人でいても、急に走り出したみたいに、急に思いついたみたいに、結花はふわっと、いきなり僕のわかる範疇からいなくなって、ずいぶん先から八重歯を見せて振り返って、笑っていたりした。僕は少しだけ戸惑っていた。
僕だけが時間が止まっているんじゃないか。結花は、僕とこうして歩いている今の時間を、デート、だと思ってくれてるんだろうか。
「ねえ、今度いつ来るの?それか私がそっち行こうかな?久しぶりに小学校も行ってみたい。」
キラキラとした八重歯を見せながら屈託なく笑う結花をずっと見ていたい。僕は数秒前に心の奥にふっと浮かんだいろんな気持ちを押し殺した。このまま、ずっと今の時間が永遠になればいいのに。
「+a dayっていうのがタイトル?」
ハチさんはいつになく、真剣に私の曲を聞いてくれた。歌詞はその日一日だけでハチさんの赤ペンがいっぱいついた。こんなに赤ペンがついたのはシンガーソングライターを目指して初めてだった。
ハチさんと私の音楽が混ざり合って、まるでパンの生地みたいに捏ねられて、形ができていく。
「いけるよ、あずちゃん!これはいける。」
ハチさんが目をキラキラさせて言ってくれるのが信じられなかった。
ソイラテが好きじゃないことも、前髪を眉毛より上に切りそろえていることに何のポリシーもないことも、実際パン屋めぐりをするほど小麦製品が好きではないことも、たまにはホラーを見たくなってしまうことも、平凡に身長の高い彼氏と花火大会に行ってみたいことも。等身大の私がただ歌いたくて、曲を書きたくて、ギターを弾いていたくて、自己主張をしていたいことも。
いつまで歌手を目指している若者の振りをしているんだろう。いつまで夢を見ている女の子の振りをしていられるんだろう。
これで最後、最後。私のメルヘンは、いつかは最後がくるんだ。最後っていつなんだろう。いつか来る最後なら、それがわかっているんなら、今までの何十倍も慈しみたい。
私の自己主張が、成功した瞬間を妄想したたくさんの欠片が、ハチさんとの時間が詰まった最後が、“これ”というように、キラキラの箱に入って、ピンク色のリボンをかけて、目の前に差し出されるならば、うんととびきり大切に過ごしたい。
そう思ったら胸がきゅうっとなって泣いてしまいそうだった。
消しゴムのカスみたいにバラバラで色も綺麗じゃない私の自己主張も、ハチさんが目をキラキラさせて言ってくれると、とっても価値があって意味があって、まるで音楽みたいに聴こえる。
「来週持ち込もう、これはいけると思うんだよね。最後のチャンスだし。」
ハチさんは煙草に火をつけた。白い壁を伝って、ゆらゆらとのぼっていく煙を見ながら私はぼおっとしている振りをしていた。
仮歌まで済んで、パソコンの中に眠っている、最後のチャンスが、二人で捏ねて形になった最後が、ふっくらと発酵するように、私は目をぎゅっと閉じてうなずいた。
枝里子の作ってくれたお弁当がスーツケースの上のバッグに括り付けてあった。
今回は三泊四日だった。お弁当箱は捨てられる容器にしてくれていた。こないだの運動会用に買ったものが余ったからと。
亜衣は徒競走で一等賞だったそうだ。といっても今時はみんなで一等賞だから亜衣以外にも一等賞は十八人いる。でも亜衣は嬉しそうに一等賞のメダルを僕に見せてくれた。
僕は亜衣を抱っこしながら、その嬉しそうな笑顔の奥に寂しそうな顔がないか、必死に探した。
亜衣はとても聞き分けのいい子で、枝里子がとても子育てを頑張ってくれていて、枝里子のご両親が全力でサポートをしてくれていて、だから亜衣の嬉しそうな顔の奥には、探しても探しても寂しそうな顔はなかった。
「パパ、今度お土産これにして?」
いつの間にか枝里子そっくりになった、ちょっとずる賢そうな笑顔で、亜衣はパソコンの画面の開いたのを僕に見せてきた。奥の方まで探しても寂しそうな顔はなかった。
来年の春には亜衣は小学生になる。三月の卒園式の案内状がちらっと目に入った。僕は何も聞いていない。枝里子は卒園式までサプライズにするつもりだろうか。驚いて反抗しようとしたけれど、会社のメールや予定表がぼんやりと浮かんで、僕は枝里子に何も言えなかった。
亜衣が聞き分けが良くて、枝里子が良い母で良い妻で、枝里子のご両親が本当に良くしてくださるのが、僕には痛いほどありがたくて、痛いほど寂しかった。