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+a day  作者: 土河 雲実
11/11

三十歳 弘樹と詩乃の場合

振り返ると真っ白な雲が広がっていた。


夕焼けのオレンジ色の中に、真っ白な雲。赤とオレンジの境目の中をぼやかすように広がった、真っ白な雲。

僕の左手には詩乃の柔らかい右手があった。


“詩乃、”


自分の声なのに自分の身体の中だけで聴こえたみたいだった。ゆらゆらとした光がまぶしい。


僕は泣いていた。


「弘樹、一限とってる?」

まだあんまりたくさん話したことはない。それでも僕は詩乃が気になった。

メッセージアプリでやっと交換をしたばかりの詩乃の連絡先は、僕の友達リストにいることに慣れていないみたいに、ぎこちなくそこにいた。

ピコンと通知が来るたびに、僕は友達との会話に身が入らなくなる。


「取ってるよ、代返しようか?」

「わあ、助かる。寝坊しちゃって。お礼必ずするから!」


まるで本当に詩乃が喋っているみたいに。詩乃のくれる文章は動いているみたいに、にこにことしていた。十九歳の夏だった。


バイト先から自転車を漕いで帰る頃には、すっかり明け方のオレンジ色の光が差し込んでいた。遠くに真っ白な雲が浮かんでいる。コンビニに寄って、詩乃の好きなメロンパンを買った。


ドアをそっと開けると、詩乃はまだ眠っていた。カバンをそっと床に置いて、僕はその柔らかな髪を撫でた。寝顔がふっと険しくなったと思ったら、またふんわりと笑った。

どんな夢を見ているんだろうか。こっそり詩乃の鼻をつまむ。一瞬苦しそうな顔をして、ぼんやりと目を開けた。


「おかえり。」


まだ夢の中にいるみたいに、また詩乃は目を閉じた。二十歳の夏が終わろうとしていた。


「弘樹、私たち…」


詩乃は泣きそうな顔をして、僕の手をぎゅっと握りしめた。

いつだって明るくて、いつだって僕を励ましてくれた詩乃が、今はこんなに小さくなってしまって、不安そうな顔をして僕を見上げていた。


「私が北海道なんて行きたいって言ったから。私のせいだ…」


下唇を噛みしめて、つま先を睨み付ける。朝焼けのオレンジ色の光が、詩乃の柔らかな髪を照らしていた、ちくっちくっと時間が過ぎるのを感じた。

僕たちが乗るはずだった飛行機まであと一時間だった。


「詩乃、行こう、北海道。」

「え?」


泣き濡れた目をした詩乃が、信じられないとでも言うような顔をして僕を見上げた。


絶望していた人たちは一人、また一人と姿を消して、最後の永遠を慈しみに行ってしまっていた。オレンジ色の道には僕たち二人だけが立っていた。


「何言ってるの?弘樹。私たち、死んじゃったんだよ?」


まるで僕がバカで理解できていないみたいに、詩乃は小さい子をあやすような顔でそう言った。

僕の恋人で、妻で、時に母親みたいだった、大好きな詩乃。


「だから。だから行きたいんだ。詩乃と一緒に釧路の夕焼け、見たいんだ。」


足元にぼろぼろになったガイドブックが落ちていた。状況が飲み込めないと言った様子で立ちすくんでいる詩乃に、僕はそのガイドブックを見せながら、必死に涙をこらえた。


「ほら、海鮮丼食べたいって言ってただろ。ソフトクリームも。湖も湿原も見たいって。詩乃、そう言ってただろ?もう行かないと。飛行機乗り遅れちゃうし、キャンセル料ももったいないし、なにより詩乃と一緒に行きたいんだ、この旅行に。」


まともに詩乃を見れない僕を、言葉を繋がないと消えてしまうと思って必死な僕を、やっと彼女は笑った。

堪忍したような顔をして、僕の手を、今度は強くぎゅっと握りしめて、まっすぐに僕を見て言った。


「私、幽霊になるのは初めてだから、いまいちイメージできてないんだけど、たぶん、飛行機乗らなくても行けるんじゃない?瞬間移動とかで。それにキャンセル料はさすがに取られないと思うけどなあ。」


そうか、そういうものなのか。

冷静に納得する僕を見て、詩乃は顔をくしゃくしゃにして、大きな声を出して笑った。


この旅行に行く前に、玄関で左右の靴下の色が違った僕を見て笑ったのと、おんなじ笑顔で笑った。


「でもそれだったら、移動時間かからないから、釧路だけじゃなくて北海道全部、周れるよね?案外ラッキーかも?」


いつだって明るくて前向きな、詩乃の顔に戻っていた。


目を閉じて、また開くと、僕たちは早朝の市場にいた。詩乃の言った通り、移動時間がかからないのは、確かに素晴らしいのかもしれない。


「札幌も行けちゃうなんて、やっぱラッキーだよね。」


うきうきした声で詩乃は僕の左手を掴んで歩き出した。


「カニ、シーズンラストだよね、きっと。牡蠣もある。タコ生きてるよ?わあ全部美味しそう。何食べようか迷う!」


食べ歩きをしながら、僕たちは学生の頃みたいにはしゃいだ。海鮮丼は半分こして食べた。焼き魚もお寿司も食べた。


「一応お腹はいっぱいになるのね。味もちゃんとするし、透明になることもないし、私、要領つかめてきたかも。」


幽霊になるのさえ、詩乃はあっさりと順応した。

詩乃はそういう人だった。僕のせいでこんなに結婚が遅くなったことも。お金がない生活を強いられることになったことも。結婚式ができなかったことも。新婚旅行がたった一日だけの北海道になってしまったことも。すぐに順応して受け入れて、僕が落ち込んでいるそばから楽しそうにしてくれる。僕の妻はそんな人だった。


「一度見てみたかったんだよね。やっぱり、写真で見るより迫力がすごい。」


昼前には監獄の博物館に来ていた。


「弘樹、ここうちと変わんないんじゃない?この狭さ。」


再現された牢の指さして大笑いした。

北海道は広いから、ここは今回の旅行ではプランに入っていなかった。来るのはきっと、来年か再来年か、うんと先のはずだった。

もしかしたらお金のない僕たちにとって、旅行は相当貴重なものだから、一生のうちにまた北海道旅行に行くことはなかったかもしれない。見れなかったはずのものが見れた。食べられなかったはずのものを食べられた。

あんなことになったおかげで。うん、悪くない。僕もやっとうきうきしてきた。


「普通なら、このままここでランチするところだろうけど、私たちは瞬間移動できるから強いよね。他の人たちってどうしてるんだろ。」

「他の人たち?」

「バスにいた、他の人たちよ。こうなってしまったこと、言えなかったらいろいろロスも多いと思わない?せっかく最後一日しかないのに、カットできるところはカットしたいじゃん。ねえ、弘樹。私たちはラッキーなのかも。だって、二人とも幽霊だから話早いじゃない?」


昼過ぎには牧場にいた。乳搾りやチーズ作り、パン作りや野菜の収穫と、次々いろんな体験をしては、はしゃぐ詩乃の顔をぼんやりと眺めていた。


お土産物コーナーを嬉しそうに見ていた詩乃が、急に泣き出しそうな顔をしてこっちへ戻ってきた。


「お土産…買って帰れないんだった。忘れてた。」


それまでの明るい笑顔が嘘みたいに、わっと泣きながら詩乃はしゃがみこんでしまった。僕はいたたまれなくなって、詩乃をそっと抱きしめた。

あの男が泣かしたんだろう。そう思ったみたいに、周りの人は冷ややかな目で僕たちを見ながら通り過ぎていった。


その通りだった。僕が詩乃を泣かしたんだ。僕が詩乃を待たせて、こんなひどい生活をさせて、たくさんの我慢をさせて、そうして彼女の未来まで奪ったんだ。

僕が、詩乃を泣かしたんだ。


「だめね。つい楽しくて。この時間が永遠に続けばいいと思っちゃうの。」


温泉に浸かりながらも、詩乃はぼろぼろのガイドブックを手放さなかった。何回も何回も同じページを見ながら。


「雲海も見たかったけど、時間だけは巻き戻せないからなあ。朝ぐずぐずしてないで、早く現実受け入れて来ればよかった。」

「まあ、まず時間戻せたら行かないよ、この旅行に。」

「そうね、確かにそうだわ。でもね私、この旅行が本当に楽しみで楽しみで。行かないって発想、全然なかったなあ。」


詩乃は遠い目をしながら言った。


「弘樹とのこれからの方が、うんと大事だったのになあ。」


詩乃の声は泣いていた。


カヌーで湿原を周りながら、僕たちは無言だった。ぎゅっと握りしめた手だけは離さずに。

詩乃は目をつぶっていた。パドルのぱしゃ、ぱしゃという音と、野鳥のさえずる声だけが響いていた。


「私ね、弘樹と結婚したこと、全然後悔してないの。こんなことになってしまったのに。おかしいよね。」


詩乃の柔らかい右手がするりとなくなってしまいそうで、僕は怖くて強く握りしめた。


「どんな人生を選んだとしても。これから生まれ変わって、別の何かに変わったとしても。結局私は、弘樹と一緒にいたいと思うんだ。弘樹と一緒に生きる人生を、何度も何度も選ぶと思うんだ。」


詩乃はもう泣いていなかった。

明るく笑って、僕の目をまっすぐ見ながら。十二年間、聞き慣れた詩乃の声が、僕の胸に染みわたるように入ってきた。すーっと澄んだ風が、僕たちの頬をすり抜けていった。


港を歩きながら、僕たちはこれまでの僕たちの話をした。


大学に入学して四日目の履修登録の日、隣の席で初めて話したこと。

傘がなかった梅雨の日に、一緒に駅まで走ったこと。

気持ちを伝えた日の、マンションの駐輪場でした真夜中の初めてのキスのこと。

自転車に二人乗りしてコンビニのおでんを食べたこと。

屋台のラーメン屋が好きでよく食べに行ったこと。

レポートをこっそり詩乃に書いてもらって単位を取ったこと。

毎年クリスマスだけは奮発したディナーを食べたこと。

連続ドラマをレンタルショップでたくさん借りてきて、夜中に一気に全話見たこと。

絶叫マシーンが苦手なくせに富士急に誘って、旅行に行って、かっこをつけているうちになんだか克服したこと、川沿いで花火をしてスイカを食べたこと。

お互いの髪を染めてあげたこと。

テストが終わった日には必ず、食べ放題の焼肉に行ったこと。

チャーシューを作りたくなって一晩中徹夜をして煮込んだこと。

詩乃にかっこいいところを見せたくて、高校時代野球部だった僕がお願いして、誕生日にバッティングセンターに行ったこと。

ドーナツが百円セールの日は一人十個ぐらい買い占めたこと。

水族館にデートしに行った日は百枚ぐらい写真を撮ったこと。

女の子もいるグループで旅行に行って、詩乃に死ぬほど怒られて、何日も喧嘩したままだったこと。

二回目の転職の時に詩乃のお母さんに反対されて泣きながら公園のベンチで話したこと。

夜中に怪談を聞いたりホラー映画を見たりして、怖がる詩乃が何度怒ってもおかしくてやめなかったこと。

熱が出た日は、料理ができない僕でも特製の野菜煮込みを作って食べさせてあげていたこと。

自転車に乗ってどこまでも行ったこと。

変なあだ名で呼び合ったこと。

泣いて叫んで喧嘩をして、それでも二人で朝から晩まで一緒にいたこと。


僕たちが電話なんてしたことがなかったのは、いつも一緒にいたからだった。


「なんだろ、ここ。」


古びた教会だった。苔むした煉瓦はところどころ崩れ落ちそうになっていた。

木のドアをぎいっと開けると、かび臭い匂いがした。小さな木の椅子が行儀よく並んでいる。

とても古い教会だけれど、掃除は行き届いているらしく、ほこり一つなかった。こつこつこつと、僕たちの四つの靴のかかとの音が響く。


「何かご用事ですか?」


ひんやりした声が聞こえて振り返ると、奥のドアから、品のよさそうな初老の牧師が顔を覗かせていた。小さいけれど天井はガラス張りになっていて、空の青が差し込んでいた。

バージンロードに赤いじゅうたんが引かれていて、僕たちをそっと見上げていた。


“それでも式はしたほうが記念になるのに。詩乃だってそりゃ、一番かわいい二十代の頃に比べたらトウが立ったかもしれないけど、白いウエディングドレス着たいわよねえ?”


僕ははっとした。詩乃はのんびりと教会を見渡している。その小さな後ろ姿に、晴れの姿を思い浮かべた。僕はいてもたってもいられなくなった。


「あの、こちらで結婚式とかって、挙げることできますか?」

「ちょっと、弘樹、どうしたの?急に。」


突然僕が、つかつかと牧師さんに近づいてこう尋ねたものだから、詩乃は戸惑っているみたいだった。


「ええ。昔はここからたくさんのカップルが夫婦になって行かれましたよ。でも今はもう古くなってしまってね。派手な演出だとか、綺麗な衣装だとか、そういうのがないものだから。すっかり人気もなくなってしまって。五年前に妻も他界して、今は一人でやっていますし、いろいろと手が回らなくてね。」


牧師さんは胸元にじっと下げてある、小さなペンダントを開いて亡くなった奥さんの写真を見せてくれた。

白髪まじりの綺麗な女性が、品のよさそうな微笑みを浮かべて、レンズの奥を愛おしそうに見つめていた。


五年前の暖かい春の午後、晩ごはんの買い物に出かけた帰りに、無免許のバイクにはねられて、この世を去ってしまったそうだ。黙って聞いていた詩乃が突然泣き始めた。


「暗い話をしてしまいましたね。申し訳ない。この季節になると、ふっと思い出すんですよ。ああ、あの時に行かせなければよかったな。そうしていたら、今頃まだこうして、一緒にこの花を見たりできたんだろうなってね。」


過ぎてしまった時間は取り戻せない。一度選んでしまった決断はもう取り消せない。

どうでもいいことだったのに。ちょっと思いついただけだったのに。何も今日じゃなくてもよかったのに。

どうして僕たちは、不用意に軽率に、その先に身も心もちぎれるほどの、辛い別れが待っているというのに、気づかずにわからずにワクワクと、楽しいことだけを考えて生きてしまうんだろう。


どうして、たった一日後のことがわからないんだろう。


「ここで結婚式を挙げさせてくれませんか。」


僕は重い口を開いた。詩乃は泣いたまま、うつむいていた。牧師さんは目を丸くしていた。


「何もこんな古くて汚い教会で、式をお上げにならなくても。若いお二人には、これからたくさんたくさん、楽しいことがあるんですから。似合いませんよ。」


励ましのつもりだったんだろう。無理もない。自分がこんなつらい話をしてしまったから、若い僕たちが気を遣って、式を挙げたいなんて言ってるんだろう。そう思ったんだ、きっと。

牧師さんはそれまでの悲しそうな顔を無理やりに消して、僕たちにおどけて見せた。焦ったようにおどけて見せた。僕たちはもう顔をあげることができなかった。


ちくっちくっと、時間が進む音がした。僕たちはどれだけ長い時間、ここにいるんだろうか。明るかった窓の外が、少しずつ動いていた。


ふわふわと柔らかそうな雲がぐるりと動いている。穏やかな夕方だった。昨日あんなに空が暴れていたのが、夢みたいで僕はもう一度信じられなくなって、でもあの湖に浮かんだ真っ黒焦げのバスを思い出して、首を横に振った。遠くの方で真っ黒な夜が空を覆い始めていた。


「わあ、綺麗。」


たった一枚だけ、教会に残っていた白いウエディングドレスは、牧師さんの奥さんの手作りだった。柔らかく編んだ白いレースが首元に華やかにあしらわれていて、丈の長いすとんとした形をした、綺麗なドレスだった。


「流行りの形じゃないけどモノはいいですよ。お綺麗だからよく似合う。」


全てを話した後でも、牧師さんは動じなかった。僕たちの未来を祝うように、ゆっくりと微笑むその顔は、ペンダントの中の奥さんの顔と、どことなく似て見えた。


オルガンの音が優しく響いた。バージンロードをゆっくりと歩いてくる詩乃は、世界一美しかった。泣き腫らした目に、また綺麗に化粧をして、柔らかい髪を結い上げて、きゅっと口の端をあげて笑った。

僕はそんな詩乃を絶対に忘れたくなくて、涙で前が見えなくなっても瞬きさえできずに、ずっとずっと見つめていた。


牧師さんが静かに誓いの言葉を述べて、粛々と式は執り行われた。


「健やかなる時も、病める時も、喜びの時も、悲しみの時も、富める時も、貧しい時も、これを愛し、これを敬い、これを慰め、これを助け、その命のある限り、真心を尽くすことを誓いますか?」


今まで僕たちが出席してきた僕たちよりも後から出会ったくせに僕たちよりも先に結婚していった友人たちの結婚式で、幾度なく聴いた言葉。何とも思っていなかったはずの誓いの言葉が、ずっしりとどっしりと、僕たちの心に腰を下ろした。

僕の左手と詩乃の右手はしっかりと繋いで、永遠に離れなかった。


その命のある限り、僕は詩乃に真心を尽くすことができたんだろうか。

ふっと詩乃を見た。小さく微笑んで、まるで僕の心がわかったみたいに、“大丈夫”と詩乃は言った。


詩乃と生きていきたい。命は終わってしまうけれど、僕たちの永遠は終わらないから。


どこからともなく大きな拍手の音が聞こえた。振り返ると詩乃のお母さんが泣きながら何度も何度もおめでとうと言ってくれた。

僕たちの結婚を、自分のことのように喜んでくれた大学時代の友人たちもみんなそこにいた。

教会に入りきれないほどたくさんの人たちが、こぼれそうに嬉しそうな顔をして、いつまでも並んで続いて、花びらをまいてくれた。僕たちは腕を組んでその中をゆっくりと歩いて通った。牧師さんも泣きながら手を叩いていた。僕たちは、本当に幸せだった。幸せで涙が止まらなかった。


「健やかなる時も、病める時も。」


そうだった、健やかなる時も病める時も、僕は詩乃を愛し続けるんだ。

それがどんな人生であっても。これから二人が歩いていくのが、当たり前に来るはずの明日じゃなかったとしても。二人で歳を取っていくことができなかったとしても。


一瞬たりとも忘れたくない。詩乃と過ごした十二年間を、楽しかったことも嫌だったことも何もかも、取り出して眺めることができなくなってしまったとしても。僕たちの時間が、ここで終わってしまったとしても。


絶望していた僕には、急にそれがとても簡単なことのように思えた。

僕が詩乃を愛していて、詩乃も僕を愛してくれていること自体が永遠だった。命が終わってしまっても、時が止まってしまっても、そんなものよりもずっと、僕たちが愛し合っているということが、ずっとずっと尊くて、大切な永遠なんだと、やっと、やっと気づいた。


ぎいっと木のドアを開けて、僕たちは外へ出た。詩乃はいたずらっぽい表情で、後ろ向きにブーケをぽいっと投げた。

どこかに消えてなくなってしまったブーケを、いつまでもいつまでも寂しそうに、でも清々しそうに眺めていた。


振り返ると真っ白な雲が広がっていた。

夕焼けのオレンジ色の中に、真っ白な雲。赤とオレンジの境目の中をぼやかすように広がった、真っ白な雲。

僕の左手には詩乃の柔らかい右手があった。


「詩乃、」


二月が終わろうとしていた。まだ春と呼ぶにはうんと早いような寒々とした空気の中に、僕の声が浮かんで消えていった。


最後の一日も、永遠を一日だけ多くもらったその日も、僕の左手と詩乃の右手はずっと繋いだままだった。

ただただ、僕たちはお互いを愛していた。


“愛している”

ありふれた言葉だったけれど、僕たちには一番しっくりきた。オレンジ色の空はいつまでもいつまでも僕たちを照らし続けていた。詩乃の右手をぎゅっと握った。


いつまでもいつまでも、僕たちには永遠が続いていった。

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