三十六歳 優の場合
昼下がりの遊園地なんて歩くのは、いつ振りだろうか。
二十代の頃、まだ僕たちが亜衣の親になる前の若い頃、ここへ来てデートしたときのことを思い出していた。
嬉しそうにソフトクリームを買ったり、乗り物に乗りたがったりしていた枝里子が、小さな記憶の人形になって走り回っているみたいに、鮮明に僕の元に転がってきた。
万華鏡みたいに表情をくるくると変えて。
僕を見て本当に嬉しいみたいに、笑って。
「亜衣、危ないからこっち歩きなさい。」
亜衣の手を引く枝里子はもうすっかり落ち着いていた。
万華鏡みたいにくるくると変わることはないけれど、それでも枝里子の、嬉しそうな、本当に嬉しそうな顔がこっちを向いて、僕はきゅうと心臓を締め付けられるみたいだった。
僕の妻になって、亜衣の母親になった枝里子を、僕はぼんやりと見ていた。
「パパ、あれ乗りたい。」
亜衣が僕の腕に飛び込んできた。
一瞬、万華鏡みたいにくるくる変わる亜衣の表情が、枝里子に見えた。はっとして僕は、僕たちがうんと長い時間を過ごしてきたことを噛みしめていた。
「え、お休み?」
いぶかしそうな顔をして見せるけれど、枝里子も亜衣も、口の端から笑みがこぼれ落ちそうになっていた。
なんでもいいんだ。なんでも、理由なんて。急にお客さんの都合が悪くなったからでも、支社の担当者が風邪を引いたからでも。一応は理由を聞くけど、そんなのどうでもいいんだ。二人とも、僕がここにいればそれで嬉しいんだ。
バスがふわっと空を舞っているとき、僕はうつらうつらする中で夢を見ていた。三人で出かけて、大型スーパーでたくさんの食べ物を買っていた。
大きなサイズのピザも買った。食べきれないほどの大きなケーキも買った。枕みたいに大きな袋のポップコーンや、灯油の入れ物みたいな大きなプラスティックの容器にどばどばとたくさん入った、真っ黄色なオレンジジュースも買った。
そうして、笑いながらそれらを車に詰め込んで、思い切り高速を走り抜けて、綺麗な海が広がる公園に行った。
いつのまにか枝里子は真っ赤なハートと熊の柄が描いてある大きなビニールシートを広げていた。二人はおんなじ顔をして笑った。万華鏡みたいにくるくると表情を変えて、きゃっきゃと笑い合って。
ふっと差し込む太陽の光がまぶしくて、僕は目を細めた。真っ白で真っ黄色な光が刺さるように降ってきた。ふわふわと浮かんでいるみたいな、穏やかな午後だった。
遠くで誰かの叫び声が聞こえたような気がしたけれど、枝里子と亜衣の笑い声にかき消された。とても眠い僕は、ビニールシートに寝そべって目を閉じた。
「パパ、」
亜衣が僕を呼ぶ声がくすぐったい。
二人の笑い声は耳をつんざくほど大きくなって、僕は瞬間、身体が全く動かなくなった。金縛りにあったみたいに。息もできない。
背中まで響くように大きくなった二人の笑い声が、全身を駆け抜けていった。
「いやだ。」
はっきりと自分の声が響いた。身体が浮かんでいる感覚がして、ぎゅっと何かに捕まると、ジェットコースターの安全バーだった。
「はい、下しますね。」
にこにことした係員さんが安全バーをゆっくりとおろしていった。
二人の笑い声はまだ響いていた。顔をそちらに向けたくても、動けなかった。
ジェットコースターはコトコトコトコト上がっていった。頂点まで行こうという時に誰かが僕の腕をぎゅっと掴んだ。
「パパ、」
枝里子の声がした。うんと遠くからした。枝里子が僕の助けを呼んでいる、そう直感した。
行かなければならない。僕は早く枝里子のところに、帰らないといけない。
ふわっと身体が浮いたような気がしたから安全バーを掴もうとしたのに、なかった。前のめりになった僕は真っ青になっていた。持っていたスーツケースは、亜衣が生まれる前の年の誕生日に、枝里子が最後に買ってくれた僕への誕生日プレゼントだった。
ガコンと大きな音を立てて、僕の目の前を飛んで行ったかと思ったら、窓を突き破っていなくなってしまった。
枝里子と亜衣の笑い声は聞こえなくなっていた。頭が痛くて目を覚ますともう、身体は自由に動くようになっていた。
自由になったから、あたりをきょろきょろと見渡したのに、枝里子も亜衣もどこにもいなかった。
「パパ、怖い。」
自分が乗りたいと言ったくせに、亜衣は僕の腕をぎゅっと掴んできた。
「大丈夫、大丈夫。パパがいるからね。」
やっと安心した顔をした亜衣の柔らかな髪を、枝里子がそっと撫でた。
穏やかな午後だった。ぼんやりとまるい太陽の光が僕たちに降り注いでいた。
枕にみたいに大きなポップコーンを買ってほしいと言って、だだをこねる亜衣を、枝里子はたしなめた。
「食べきれないでしょ、今度にしようね。」
あなたも言ってよ。そう言いたげに眉間にしわを寄せた。
僕は今度って言葉があんまりしんどくて、枝里子が不服そうなのも見て見ぬふりをして、その大きなポップコーンを買って亜衣に渡した。信じられないというように、亜衣は首をすくめて母親を見た。
自分の希望があっさり通るなんてこと、この子にとってはいつ振りだったんだろうか。
「毎日いてパパ。毎日絵本読んで。亜衣と一緒に遊んで。会社行かないで。パフェ連れて行って。」
亜衣の口癖だった。
毎日って言わないと、その何分の一かの時間も叶わないように、そんな風に思ってるみたいに。
幼い亜衣は、自分の言った願いよりもたくさんのことが叶うことが、ありえないということをもう知っていた。
「パパ今日はどうしちゃったの。亜衣に甘いわね。」
苺のパフェに栗のパフェ、プリンのパフェを頼んだ僕を、不服そうに枝里子は眺めた。亜衣はそんな僕たちを交互に見ながら、こっそり三つともにスプーンを走らせていた。
亜衣はあんまり嬉しそうに見えなかった。僕は焦っていた。最後だから。最後に一日だけもらった永遠だから。
二人と一緒にいたい。二人の願いを全部叶えてあげたい。これまで一緒にいられなかった分、これから一緒にいられない分、貯金みたいに、あとから思い出してまだ使えるぐらいにたくさんに、二人の願いを叶えてあげたい。
そう思って焦っていた。
なのに、二人ともちっとも嬉しそうな顔をしてくれなかった。
「こうやって甘やかしちゃだめよ。あなたが毎週末こうして過ごせるならいいけど、希望持っちゃうでしょ?余計ひどいのよ、そういうのって。男の人は勝手ね、全く。」
枝里子も亜衣も、幸せになれる権利が目の前にあっても、それがいつまで使えるかどうかわからないと怖くて飛びつけなくなってしまっていた。
ひっくり返して、めくって裏っかわを見て、有効期限がないか十分に確認して、永遠のチケットであることがわからないと、心から嬉しい気持ちにはならないみたいだった。
そうさせてしまったのは僕だった。
そして僕は最後の永遠も、有効期限がたった一日のひどいチケットを二人に握らせて、こうして連れまわしている。
おずおずと幸せの注がれたコップに口をつけて、ぺろりと舐めて不安そうにこっちを見た。
全部飲んでいいの?本当に?なくなってしまわない?亜衣が不安そうに言うのが聞こえたみたいだった。
「こんなおいしいエビフライ食べるの、いつ振りかな。」
一日が終わろうとしていた。おずおずと幸せを訝しんでいた二人も、だんだんと心を溶かしていって、夕焼けが差し込む頃には、ぬるい湯の中に浸っているみたいに、柔らかい表情をしていた。
安心して幸せを感じさせてあげられることが、どうして僕はできなかったんだろう。
「次来るときは、亜衣はもう一年生だね!」
枝里子は万華鏡みたいにくるくると表情を変えてそう言った。
唐突に、僕が渡した最後の永遠がとてつもなく自己満足で、とてつもなくひどいもののように見えた。
僕は急にそのチケットを破り捨てて、二人の頭に冷たい氷水をかけて、思い切り不幸にしてしまいたくなった。
明日の朝、すべての夢が覚めてしまった時にも、あんまり冷たくて痺れて痛みを感じないように。
氷の入った水を頭からかけられて、感覚が麻痺してしまって、僕がいなくなるなんてどうでもいいことのように思えるように。
「枝里子、ちょっと。」
亜衣は後部座席で眠ってしまった。枝里子は久しぶりに機嫌よく、鼻歌なんて歌ってた。僕たちが出会った頃に流行っていた歌。僕が彼女に会いに行くときに、駅で流れていた歌。早く会いたくて息を切らしていた時に、いつも聞こえていた歌。
「んー?」
窓の外に顔を向けたまま、鼻歌をやめない。こちらには視線もくれない。
だけれど少し前の、視線をくれないのとは全然違う。安心して、幸せの中にいる、そんな感じ。
僕はぐっとハンドルを握り締めた。口の中がカラカラになる。
「単身赴任になるかもしれない。」
「そう。また転勤なのね。」
少しだけ沈黙があって、相変わらず窓の方を向いている枝里子の声は、感情がないみたいにぴったりと固まっていた。
「…一人でやれるか?これから。」
「…大丈夫よ。あなた、今までもあんまり家にはいてくれなかったじゃない。変わらないわよ。」
くるりと振り返って気丈に笑った。真っ白で真っ黄色なヘッドライトが枝里子と、亜衣の顔を照らしていた。
亜衣の小さなよそゆきがハンガーラックにかかっていた。まだ皮が硬いままの、ずっしりと重そうなランドセルが、クローゼットの棚の上にあった。
亜衣はどんな大人になるんだろう。いつか結婚して、亜衣にそっくりな女の子を産んだりするんだろうか。
枝里子みたいに。
バージンロードを歩く亜衣を、一人で優しげに見つめる、すっかり歳を取ってしまった枝里子がふっと頭に浮かんだ。
僕は、指で小さな丸を作って、眠っている枝里子と亜衣を眺めた。
遠くから、遠くから、その穴の中を覗き込みながら、二人の柔らかな髪を指でなぞった。