prologue.1
振り返ると真っ白な雲が広がっていた。
夕焼けのオレンジ色の中に、真っ白な雲。赤とオレンジの境目の中をぼやかすように広がった、真っ白な雲。
僕の左手には詩乃の柔らかい右手があった。
“詩乃、”
自分の声なのに、自分の身体の中だけで聴こえたみたいだった。ゆらゆらとした光がまぶしい。僕は泣いていた。
時計を見るとまだ朝の四時だった。僕の左手には詩乃の柔らかい右手があった。
「詩乃、」
二月が終わろうとしていた。まだ春と呼ぶにはうんと早いような、寒々とした空気の中に、僕の声が浮かんで消えていった。
「おい、靴下、青いのどこに置いたんだよ。」
「今日は茶色にするって言ってたじゃないの。」
自分の言ったことを思い出したのか、そうでないのかわからないが、孝はチッと不機嫌そうな顔をしてリビングを出ていった。
朝七時半に始まって夜十一時に終わる、この微妙な均衡を守るのに、私は全身の神経を使っている。何のこともない。孝は一生懸命、三十八年間働いてくれたんだから。わかっている。
だけれど、どうしてだろう。頭ではわかっているのに、娘の皐月が結婚して、家を出てからのこの十三年は、私にとって難しい時間だった。とっても、まるで表面張力しているみたいに。
「明日、出かけますからね、前言った、」
ふっと見ると孝は眠ってしまっていた。長い昼下がりに、洗濯物の陰がゆっくりと伸びていて、私は自分が言いかけた言葉が何だったのかも忘れてしまっていた。
夕方、休憩室のテレビで見た、フランス産の猫缶が気になって気になって仕方なくって、早くパソコンを触りたくてうずうずしていた。
「あ、これだ」
ミケちゃんはメスの黒猫で五歳。僕の恋人であり、かわいい娘だ。かりんとうみたいなつやつやとした毛並みをしていて、僕が他の猫にいい顔をするととても怒る。
僕にやきもちを妬いてくれるのは彼女だけだった。すーっと膝の上に滑り込んでくる。気持ちよさそうな顔をして目を閉じる。
ミケちゃんのご飯だけはいいものを買ってあげたい。居心地のいい部屋にしてあげたい。不自由のない暮らしをさせてあげたい。
「おとうちゃんがいなくて寂しかった?」
そんな面倒なこと聞かないでよ、とでも言うように、ミケちゃんは気怠く目を開いて、また閉じた。空の遠くの方は、まだお昼が残っているみたいに、ぼんやりとオレンジ色に滲んでいた。
「え、待って、浩ちゃん?」
負けた試合の帰りほど、誰かと話したくない瞬間はない。それも今日は試合に出ることさえできなかった。ベンチで終わってしまった試合ほど、誰かと話したくない瞬間はないのに。
「浩ちゃんでしょ?覚えてる?私、里見小のときの。」
ベンチから、いいなあと思って眺めていた、敵チームのマネージャーは大野結花だった。里見小学校の二年二組で隣の席だった、大野結花だった。長い黒髪で、小麦色に日焼けしていて、くりくりとした大きな目をしていて、あの頃よりうんと大人になっているけれど、あの頃のまんまの八重歯を見せて笑う、彼女がそこにいた。
十年前の暑い夏休みの間に、いつのまにか引っ越してしまって、会えなくなってしまった彼女だった。
彼女が浩ちゃん、と呼ぶそのシーンだけを、頭の中で何回も何回も再生した。僕が初めて好きになった人だった。
“今日は突然声かけてごめんね。久しぶりだったから嬉しくて。浩ちゃんまだ野球やってたんだね。懐かしい!”
いきなり現れて僕の気持ちに入り込んで、いきなりいなくなってしまったくせに、また彼女はいきなり僕の頭の中から出ていかなくなってしまった。
“来月またそっちで試合なんだけど、終わった後会えないかなあ?”
“ほんと?やった、案内するね!何か食べたいものとか、行ってみたいとことかある?”
三秒で返事が来た。思わずくすっと笑ってしまって、二年の吉村が怪訝そうな顔をしていた。
二学期がもうそこまで来ていた。帰りのバスの中は、みんな夏が終わろうとしているなんて気が付きもしない顔で、眠っていた。
ソイラテのトールサイズを注文して席に着く。カウンターの一番端を陣取ってぼおっとしている振りをした。このところSNSを開くのが嫌いだ。私は現実を見たくない。
そうして書き上げた歌詞はとってもメルヘンでパステルカラーで、現実味がなくって、こうして今日も私は焦っている。
「あずちゃん、今度ので最後にしようね、もう君も普通にいったら大卒の歳でしょ?まだ間に合うから。」
ハチさんは気が長いと思う。私がごねてごねて毎回編曲をお願いするのに、こうして突き放しそうで突き放さないでいてくれる。
ハチさんの煙草の煙がゆっくりと壁を伝っていくのを、ただただ見ていた。次で最後、最後。ソイラテはすっかり冷たくなってしまったのに、私はまだメルヘンみたいなことだけ歌っているんだろうか。
【九月十日 スケジュールをお送りいたします。(松本支店 吉原)】
東京から松本まで何時間かかるのか、吉原さんが知っているかは僕にはわからないけれど、ひとまず前日の夜に、娘の亜衣に絵本を読んで聞かせてから寝たのでは、九時のアポイントに間に合わないことは、容易に想像がつく。
僕はため息をついた。転勤の多い僕は、亜衣が生まれたときも、妻の枝里子の側にいてあげることができなかった。
希望を出し続けてやっと東京に転勤できたのに。一週間のうち、ホテル住まいが五日以上になってしまうと、あんまりにも自分が空っぽな気がして、“定住”をしていないような気さえして、ふっと虚しくなる。
「今年は運動会いつなんだ?ちょうどこんな時期だったろ?」
「大丈夫よ、おじいちゃんに頼んであるし。」
枝里子はのんきそうな声でそう答えながら、足の爪を切っている。僕に目線さえもくれないで。
「それにパパ、急に来れなくなるより、急に来れた方が、亜衣のダメージがずっと小さく済むんだから。」