勇気の在処
8
まずい―――。 あの素早さ、あの身のこなし方。あれは……。
思いがけない所に潜む脅威に気づいたサイトは、警告の声を上げようとした。
「そいつは―――」
サイトが言い切るよりも早く、女が動いた。
黒髪がリンズに絡みつくようにふわりと流れ、銀色の線が宙に走った。何気なく通り過ぎ、ゆったりとその女は身を起こした。その両手には、いつの間にか抜き身の剣がある。
リンズは、唖然としたまま、膝から崩れていった。
続いて仲間達の只中に飛び込んで、軽やかに動き続ける。男達はリンズが崩れ落ちた事に動揺して、反応が鈍く後手に回っている。
うっかりすると、女はただ滑らかに舞っているかのように思える。けれども、その両手には白刃を紅く染めた剣がある。片刃であり、見た目は折れそうなほど細く反りがある。それなのに、まるで水を断つかのように、容易に肉を切り裂いていく。
気張って振り下ろす訳ではない。当てた後は、すっと撫でるように動かしている。そのまま刃先は流れ、別の所に向けられる。そのころには、ぱっくり割れた肉の間から鮮血が吹き出てくる。
この見慣れない得物が、遥か海を越えた西の島<ルク>に住む民族が作った刀という代物であると、この時のサイトは知らない。
自在に動く刃先を、目で追う事が全くできない。端で見ていてそうなのだから、側に踏み込まれた仲間達には何が起きているか分からないだろう。順番に、ゆっくりと倒れて行き、自分が終わっていることに遅れて気付く。
「ヒョウ・ヴ」 と、リェンと並んで後ろにいたジルが、その名を囁いた。「戦場で最も美しく、最も目を離せない女―――」
ジルの感じ入ったような声を聞き、サイトは驚いた。
この時代、瑗には飛びぬけて有名な策士と統士がいた。その一人が、先ほどサイト達を罠に嵌めたゲンカクという男であり、もう片方もまた、この場に居合わせていた。
瑗随一、いや、今の四国中でも相手になれる者は少ないと噂されていた達人、ヒョウ・ヴである。
ヒョウ・ヴは、身近に斬る対象が無くなった所で、ぴたりと動きを止めた。それから、俯いたまま、何かを呟いた。
「―――手が届く、だと? それが、どうした」
誰に聞かせるでもなく、ヒョウ・ヴは言い続けた。「そこには私がいる。ショウには、決して触れさせない」
威圧するでもなく、ただ己に確認しているだけのような口ぶりだった。聞き慣れているのか、ゲンカク達は無反応だった。
*
味方で立っているのは、リェン、ジル、そして背後に立つ少年だけになっていた。
少年は相変わらず蛇に魅入られたように、ショウから目を離せない。ジルは動こうとせず、ヒョウ・ヴを見つめていた。そのヒョウ・ヴは、獲物が無くなると主の背後に戻っていた。
サイトは、脱出可能な余地はないかと、囲いの弱い所を探った。比較的弱いのではないかと思える者もいるが、その側にいる者はかなりの腕前だった。よく見比べれば、どこも力量の均衡が取れていると分かり、迂闊に動くことはできない。
「サイト・成さん、これは無理です……」 と、同じ見込みであるのか、リェンは気弱な表情で言う。
「もう良いか?」 と、よく通る声がした。
はっとして、サイト達はショウ・源を見た。苛立つでもなく飽くでもなく、平然と立っている。
どうやら自分に問いかけられていると知り、少年は怪訝そうにしていた。
一拍置いて、小さな吐息を吐くように、ショウは言う。
「―――あの女は、残念だった」
誰の事を言ったのかと訝り、それから思いついたサイトは身を固くした。
「いらぬ動きに巻き込まれなければ、まだ生きていられただろうに。同じ瑗の血を引く者として、死なせたくはなかったが……」
そう言って、ショウはサイトに視線を落とした。あの女とは、クスル・青の妻のことであろう。瑗に土足で押し入り、彼女を死に追いやった契機を作ったのは、確かにサイト達だ。
だが、ショウの声音には、言葉とは裏腹に、咎める感じはしなかった。怒りや皮肉をぶつけられている気もしなかった。ただサイトを見た、それだけのことのようだった。
ショウは、何事も無かったように、少年に視線を戻した。
「無駄死には、この位で良いだろう。己の命、どう扱うのか。答えを出してもらおう」
諦めを強要する脅しではなく、純然たる事実なのだとショウは告げている。最早どう足掻いてもこの状況は変えられない、と。
逃げた罰として、今ここで処刑されるか。また虜囚に戻って希望もなく生き長らえたいのか。そんな選択を迫られた少年の様子をサイトは窺った。
自分で選べといわれても、まだ子供なのだ。正しい判断はできないだろう。あるいは、母親の事を持ち出され、カッとなっているかもしれない。
「私は……」
少年の全身は震えていた。ガクガクと、不安定になりそうな首の動きを懸命に抑えていた。ただ強要されたから答えを返そうとしているのではない。きちんと、今扱っているのは自分の命だという事を認識している。
それは大したものだが、ただやはり、そうと分かった上で決断するには精神力が足りない。彼はまだ、十四の少年なのだ。
―――無理か。サイトの心も、重く沈んでいく。圧力から逃げるために、少年はショウに屈服する。ショウも、少年が生きたいと望むならば、後々使える駒を残しておくだろう。そうして、ハルロが、仲間達が命を散らした事は、まるで無意味となるのだ。
いや、無駄にしてしまうのは、自分か。
サイトは、クスル・青の本当の命令を思い出した。連れ帰れない場合、後の障害とならないように、殺しておけという―――。
背筋に沿って、熱い汗が流れた。
*
それで良いのか、と内心の声がする。ハルロや数多くの仲間を犠牲にして連れ出したので、できれば殺したくないが、そうも言っていられない。
後の問題となりうるならば、今ここで、排除しておかなくてはならない。それができるのは、ここにいる自分だけだ。
振り向いた途端、いや、おそらくはどんな動きをしても、その瞬間、ヒョウ・ヴがすっ飛んできて、自分は斬られる。少年を始末するまでできるかどうかは、微妙な所だが、なんとかやりきれるだろう。
それでも、やるか……。
そこで、ゲンカクが微かに首を振ったのが見えた。哀れむような、蔑むような眼をしていた。
失笑が漏れそうになる。完膚なきまでに、こちらの心理は読まれているらしい。
ただ、それでも、完全に防ぐことはできまい。こちらは、ただ、振り返るだけだ。背後にいる、少年を……。
そうか、とサイトは今更ながら気付いた。いま、俺の背後には誰かがいるのだな。
自分は、無力だった。強くなどなかった。けれども、あの時のように、背後に誰かがいる。護らなければならない者がいる。前に立っても何もできないけれど、最後まで立っている。そう誓ったのだ。だから、それだけは、やり遂げたい。
サイトは、ショウを睨みつけた。当の本人よりもまず、側の二人から容赦ない気が飛んで来る。怯みそうになるが、必死で踏みとどまった。
背に視線を感じる。少年は今、俺を見ている。醜態を見せるな。最後の時まで、やり通すんだ。
敗北宣言がなされ、自分は処罰される。その時をじっと待つが、中々やって来ない。どうした、と後ろを振り向こうとした時、少年が前に進み出てきた。
「お、おい……」
少年は立ち止まり、ゆっくりとショウ・源を見上げた。その立ち姿からは、不安げな態度が消えていた。小さな背中には、精一杯の芯が入っていた。
「俺は―――」 と、少年は言った。
声音が違っていた。言葉に力があった。他の何を置いても聞かねばならない、そうした力強さがあった。
ショウの側にいる二人の側近の様子が変わった。ゲンカクは眼を見開き、ヒョウ・ヴは微かに眉を顰めた。それだけでも、倒れ伏しているどの大人達にも引き出せなかった反応だ。
ショウだけは、毅然と少年を見下ろしていた。
「俺は望む」
少年は言った。無理をして言い張るのではなく、確信のある事を口にしているだけのようだった。
「ダロル・シンとなることを―――」
周囲にいた者全てから、動揺が伝わってきた。それでも、少年は怯まず、自らの願いを言い切った。
太真―――『全てを統べる者』になる。
少年、オウ・青は、そう宣言したのだった。