静かな夜に落ちる
3
山に入って何度目かの夜営になった。
食事も終わり、周囲はそろそろ寝静まり始めた時分になった。低地ではありえないほどの、深い霧が立ち込めていた。
その視界すら定かではない中を、サンノジがウロウロと歩き回っている。
危機感を喚起するものではないが、彼の不審な動きに気付いたサイトは、静かにサンノジを見張っていた。
どうやら、何らかの悪心を抱いての行動ではなさそうだ、と思えた。焚き火の消し残しがないかどうか見て回っているようである。
煮炊きに火の使用は不可避なのだが、その扱いには慎重を期す。火の素の扱いでしくじると、素が集まり過ぎとなり、炎の素真ジバとなれば災難である。辺り一面焼け野原と化すまで、猛威を振るうこととなる。
この点、サイトは厳格だ。配下達にも火の素の扱いには厳重に注意させていたのに、サンノジはそれでも不安であるらしい。
煌において火の素は大切に思われ、畏れも深いと聞いていた。平地よりも火の素の餌食となるものが多く、どこまでも燃え広がり、火のマガリとなり手が付けられなくなる。過去に何度もそうした例があるらしく、火の扱いに関しては神経質なほどだった。
サイトも燃え広がる炎に囲まれた事があり、その恐怖は身に沁みている。
サイトはサンノジに声をかけ、余計な心配をかけてしまった事を詫びた。
サンノジは驚き、田舎者ゆえ疑心が強くて申し訳ないと恥じた。
「いや、良いんだ。それより、少し話をしないか」とサイトは持ちかけた。
「構いませんよ。何をお答えすればよいでしょう?」
「すまんな。いや、聞きたい事というのは――――」 と、サイトは声を顰めた。それから、周囲の闇を窺った。姿は見えないが、付近にサーカが潜んでいる気がしたからだ。
サーカ・狸は、トオワやクウー同様に、真穿設立時からいる古参の隊長格だ。長身痩躯、表情豊かな顔で、黙っていれば美男子で通る。誰に対しても腰が低く、ふだんは、道化を演じているような物言いをする。だが、明るい外見とは裏腹に、内心を読めない男でもある。
見知らぬ土地を渡り歩いてきただけの腕前はある。ひっそりと人の背後に忍び寄り、息の根を止めることを得意とする。困った事に、時折その特技を活かして、密かに立ち聞きなどをすることがある。
念のためと、サイトは場所を変える事を提案して、自身の天幕へとサンノジを招いた。
緊張している様子のサンノジを安心させようと、僅かに持ち込んでいた酒を振舞った。『支』分あがりのものが獲ってきた鮭なども出した。ちょうど産卵の時期であるらしく、身が肥えている。遠征中は保存と持ち運びの点から燻製や天日干しされたものばかりで味気が無いかった。
表情の硬いサンノジに、ソンヴ・識の事なんだが、と切り出した。
ソンヴの名前を出した途端、ああ、とサンノジは納得した様子だった。どうしたのかと問うと、ソンヴが再三口にしていた苦労性の幼なじみというのが、サイトのことだと思い当たったと言う。
「ほぉ。何を言っていたかな、あの女は?」
それからサンノジは、楽しそうにソンヴの事を話し出した。基本的に煌の者は他国の者と接しない。それなのにソンヴと行動し、異国の話を聞けただけでも十分に興奮したし、彼女ほど頭の良い人間を見たことがないと誉めた。
「いや、サンノジ、それは違うだろう」
「え? そうですか?」
「あぁ。ソンヴ・識ほど、性格の悪い女を見た事が無い。だろ?」 と、サイトは笑っていった。
ええ、ええ、とサンノジは深く頷き、ふいに表情を曇らせた。どうしたと、サイトが促すと、決心したように、サンノジは言う。
「実は、私は、彼女を監視していたんです」
それから、煌では他国の者が入ってくる事を警戒していること、その者が害を為し得る統士であるかどうかを、一番気にしているとサンノジは告げた。
まず森に潜むシンバンが密かに観察して、その侵入者の危険度を見極める。危害の可能性在りと判断された者は、シンバンが襲う。彼らに阻害されて、それでも生き残り、ツークスまで到りついた者には、案内役という名目で監視役が付く。険難の道を乗り越え、ツークスまで辿り着いたソンヴも警戒され、見張られていた。
「ソンヴさんは、『考』分に属し、始祖コウ・ウの研究をしているとか。正直馬鹿にしていたんですが、驚きました。遠く綜の地にあっても、そこらの若者よりもずっと、彼の事に詳しく、彼の実像に近づいていた。だからこそ、警戒心は強かった。綜はこんな賢い者を国のために働かせず、自由にさせているのか。いや、本当に『考』のためだけの来訪であろうか。何か密命を帯びているのではないか―――」
サンノジは、申し訳なさそうに顔をゆがめた。
「……それで」とサイトは先を促した。
「私も、そういう事情だったんで、距離を取るようにしていました。でも、彼女は困った人でした。何かを隠そうとすれば、すぐに見抜き、こちらの真意を読み取ってしまう。ここには近づくなと言う場所に限って、嗅ぎ付け、踏み込んで来るんです。しかもこれ以上は問題となると正確に把握しているようなのに、わざと近づいて来る。どうも、そうして、私が慌てて困り果てるのを見て、愉しんでいたようでした」
サイトは笑って頷く。
「お前は、まさしくソンヴ・識の話をしているよ」
サンノジは苦笑して続ける。
「私の事を犬か何かと勘違いしていたのか、わざとからかっていた節があるんです。なんて性悪な女だよと呆れていました」
その当時を思い出してか、サンノジは楽しげな笑みを浮かべていた。けれども、と続けた後、表情は固くなっていた。
「私達の奇妙な関係はしばらく続きました。サン家も、実害を及ぼすほどではないと判断したのか、私に一任していました。あの事件が起きるまでは、ですが」
「事件、か。あいつが行方不明になったのは、それが原因か」
「ある日、森に近い場所に調査に入りました。私も、離れて同行していました。普段と違ったのは、そこに子供たちが通り掛ったことです。子供達は私の存在が意味する事を察して、離れようとしてくれたんですが、そこに悲劇が起きました」
サイトは、不用意な圧力をかけまいと平常心を意識しつつ、核心に迫るサンノジの話に相槌を打った。
「運悪く、腹をすかした山猫が、森から出て来ました。子供たちの危機に、彼女は我が身を省みず、救出に向かいました。そこで、彼女には戦闘経験があることを確信しました。統士ではないでしょうが、従軍経験はあると。しかも、あの卓越した頭脳をもってすれば、一端の統士よりもはるかに闘える。実際、私と二人で、その獣の撃退に成功するほどの力量でした」
サイトは、ため息を漏らす。
「みなあいつを賢いと言うが、そうでもないと、俺は思っていたよ。まったく、あいつは……」
「それで、その……。子供たちを救ってくれたことは感謝していますが、でも、私の任務は、その……」
「報告したんだろう、サン家の上の者に? いや、良いんだ。あいつもそうなると分かっていたさ。分かった上での行動なら、あいつは君を怨んじゃない」
「私は、彼女のために訴えました。闘えるかもしれないが、女一人で何ができる、彼女は知の探究に来ただけだ、害はない、と。ですが、上の者は聞き入れませんでした。危険因子と判断して、捕らえようとしました。
私は、煌人の頭の堅さに、うんざりしました。このまま恩人を死なせてなるかと、決心しました。彼女を逃がすことにしたのです。ところが、その前に、彼女は姿を消していました。聡い彼女のことなので、後の流れは自明のことで、それどころか、このような事態に陥ったらどう逃げるか、用意してあったのでしょう」
「それがまた、事態をややこしくさせたか」
「ええ。サン家だけでは収まらず、統分の者が動きだし、女一人のために追っ手がかかりました。これでは逃げ切れるはずはないと思いました」
「それは、そうだろうな……」
「ただ、幸いなことに、追っ手を取りまとめるサイアトンという統士は知り合いだったので、彼女を傷つけるなと頼み込みました。事情を聞いた彼は頷いてくれました。
ところが、不運なことに、ワンショウという獣使いが追っ手に加わっていました。彼は有能かつ、非道な人格の統士です。ほどなく、彼女は発見され、容赦なく追い立てられました。その挙げ句に、傷を負った彼女は、森へと逃げ込んだのです……」
「森に、か。あいつなら、いかに危険か分かっていただろうな」
サイトの言葉に、サンノジは何度も頷いた。
「コウジュウですら、深部に入るには慎重を要します。ワグンの彼女では、まして傷を負っていては、生存は難しいでしょう。ワンショウは鼻を利かせて執拗に追いましたが、発見できませんでした」
「獣にやられたのだろうか」
「……分かりません。ここかは先はなにぶん人知の及ばぬ深い森の中の話なので、どの話も信憑性がありません。ワンショウの部下が食べてしまったと言う話もあります。生き延びて、どこかの村にいる所を見たと言う人もいました。また、タン・アデオで異邦の女が目撃されたというのも聞きましたが、これは、上の者が行なった詐りの情報だと思います。彼女の意志で煌を出て行ったのだから、その後失踪しようと関知しない、という言い訳を作ろうとした結果だと私は思います」
「生存は望めない、だろうか……」
サイトの言葉に重い感情を察したのか、サンノジは息を詰めた。何かを言おうとして、口を閉じた。どんな言葉も正しくない気がしたのか、何かを言おうとするも口から出なかった。
サンノジはうつむき、絞り出すように言った。
「私は彼女を過小評価していません。ですが……彼女は森の脅威を正しく把握できなかった。その結果は―――」
「そうか。分かったよ」とサイトは静かに言った。
サンノジは顔をあげ、一度うつむき、それからサイトを見て早口で言う。
「私は思ったのです。彼女は確かに危険因子と思えるかもしれない。だけど、殺してしまうことはない。子供たちを救ってくれた恩人でもある。それなのに、煌上層部は、彼女を何としてでも殺そうとした。残忍なワンショウを差し向けた事が、その現われです。しかも、自分達が追い詰めたとせずに、ただ、彼女は失踪したと偽ろうとしていた。そこまでする必要があったでしょうか? この国はどこかおかしいんじゃないか? どうにかして直さないといけないんじゃないか。そう思った私は、この事実を綜の人達に伝えるため、下山しました。この国の旧弊的な考えにうんざりしていたので、綜の人達が変えてくれると期待しました。だから、今回案内役を申し出たんですが……」
サイトは表情を変えずにいた。サンノジは苦しそうに顔を歪めた。
「サイトさん、私は……」
「良いんだ。あいつの話が聞けて良かったよ。感謝する」
それからサンノジは、顔を下げたまま動けなくなった。
サイトは静かに天幕を出て夜空を見上げた。不安を煽るように霧が立ち込めている。
その不明を晴らそうとするかのように、サイトは空を見つめ続けた。




