クエラ・ゼイ
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闇夜を西へと駆け、サイト達は綜国を目指した。追っ手に襲撃されるのではという恐怖はあったが、一人きりで逃げるのと、見知った者達に囲まれて移動するのとでは、比べようも無い。
もうすぐ夜明けという頃合で轟音が聞こえ始めた。空気にも湿り気が増してきて、近くに膨大な水があると分かる。それは、現在瑗と綜との国境となっているターレイル大河である。
雨季ではなく、さほど水量が多い時期ではないが、それでも流れは強く、渡れる場所は限られている。そこで一行は、大河を跨ぐクエラ・ゼイ橋という巨大な石橋を目指してきた。
川の流れに櫛を立てるように、持送り構造の橋脚が数多く作られている。その下部の石の表面は丸みを帯びており、間を流れる水流の強さが容易に想像できる。高欄も所々抜け落ちており、橋上部も傷んでいる事から、橋桁まで水が来ることもあったのだろう。だが、膨大な石版を積み上げたことによる重量が、橋自体の崩壊を何とか防いでいる。
急ぎの隠れ忍ぶ旅であるが、先人が成し遂げた偉業に見蕩れ、思わず足を止めてしまう。人間がこつこつと積み上げたものが、水しぶきを上げて自然と対等に張り合っている姿、とも言える。河を渡る事が目的ではなく、この素晴らしい橋そのものを見に来る人も多いのも納得だった。
ところで、このクエラ・ゼイ橋には、不吉な噂もある。
はるか昔、水量が増す度に流され、河を渡る事に難儀していた民のために、クエラ・ゼイという高名な導徒が指揮を取り、この事業は着工された。四苦八苦の末、この偉業は完成したのだが、この橋は人々に便利さだけをもたらしたのではなかった。
完成後、一定の周期でこの橋の上で命を落とす者がでるようになった。水害に巻き込まれるのではなく、橋の上で殺され、血を流すのである。刃傷沙汰が突発的に橋の上で行なわれる事もあれば、日が昇ると、誰に殺されたか分からない遺体があることもあるという。
いつしか、橋そのものが生贄の血を欲しているという噂が立った。それは、永久に崩れないようにと、クエラが石積みの中に生きた人を埋め込んだのが原因だといわれる。犠牲になった人柱達が、さらなる仲間を求めて、橋に沁み込む血を啜るのだという。
人柱は実際におこわなれたのか、具体的にどのような凶事がどういった者達に降りかかったのか、正確な所をサイトは知らない。
今はできるだけ早く無事に橋を渡って綜に入る事、それのみに専念していた。ゆえにサイトは、この噂を実現するような事態が我が身に降りかかるとは、想像もしていなかった。
*
橋の中ほどまで進んだ所で、サイトは我慢できなくなって背後を振り返った。橋に常駐している境護士もいたが、特に見咎められる事はなく通過できた。けれども報せが届き、急に色めき立ち、追いかけてくるのではないか。
そうした事態は、幸いにして起こらず、平穏な朝の景色が広がっていた。まだ暗い内から橋を行き交う行商や旅人達は、急に話し込みだし、情報収集に余念がない。親子連れもおり、早起きが癪なのか、子供は愚図って泣いていた。朝市にでも持っていくのか、魚や野菜などが入った籠に押しつぶされそうに見えて、達者な老人もいる。
連れ出した少年も、この頃には起き出して、サイト達に囲まれて歩いていた。目を覚ました所で、すでに自分がどうにかできる状況にないと察したのだろう。抵抗どころか、自分の足で付いて来ている。
ずいぶん素直になったな、とサイトは思ったが、しばらくして思いついた事があった。もしかしたら、見慣れぬ風景に心を奪われているのではないか、と。
轟々と流れる濁流に生唾を飲み、緻密に組み上げられた石積みを凝視している。飛沫が頬にかかり嫌そうな振りをしていたが、あちらこちらへと飛ぶ視線は、明らかに興味津々といった風だった。
こうして外に連れ出してもらうことは数少なかっただろう。少年の境遇を思えば、無理のないことだ。
対岸が近付くに連れ、皆、少なからず気が急いていた。次の集団をやり過ごせば、もう障害はないと思い込んだ。
前からやって来るのは三人連れだ。着古されて傷んだ衣類からして、キョウと呼ばれる辺境の民かと思える。
近づいてくるに連れ、違和感があった。
男二人と若い女。薄汚れていても、根本的に端整な顔の造りが目立つ。自然と目を留めてしまうほどの魅力があった。
三人の内、若い男が中心的位置にいるのは間違いがない。口元に蓄えた髭はまだ短く、それほど年上ではないかもしれない。
だが、この異様な存在感を持つこの男が、ただ人であるはずがない。
綜の貴人が瑗に行く途中だろうか。しかし、こんなに朝早くに、しかも自分の足で?
そうは思えない。やはり、警戒すべきだろう。
こいつは一体、何者なんだ……?
そのサイトの疑問を、少年が解消した。
ショウ・源、という呟き一つで。