コウの遺産③
コウの遺産③
ノジは、集落の外れに向かっていた。そこには布の巻かれた杭が打たれている。おそらくは樹真への崇拝を表したものだろうが、ノジは気にせずにその後ろへと回る。そこから森の中へと分け入り、奥へと向かっていく。
一見、人の手が入っていないと思われたが、そうでもないとソンヴは見抜いた。
ノジが選ぶ先だけ、植物の密度が低い。逆にその周囲は他に比べてよく成長している。前は開かれており、そのため陽の当たる箇所は生育がよく、けれども放置されている内にまた多い茂るが、まだ密度が低い。人が両手を広げてもあまりある広さだったと思われるので、獣道ではなく、人が拓いた道であろう。
先の見えぬ森の中を掻き分け進みながら、ノジは言う。
「……過酷な環境は、もちろんここだけではない。性質が違うだけで、どこにもありうる。その中にあっても人は、暗闇でも目を瞑らず、いつしか、支えとするものを見出す。大きさや量を問わず、ただその者にとって、心に温もりをもたらしてくれる、何かを―――」
「それがここには無いと言うの? それが原因だと?」
「有無、というより……。それすらも越える何かが、民の心に蓋をしている。重石のようなものが圧し掛かっている」
そこでノジは顔を上げて前を見た。葉の密度が薄くなっており、光量が増している。この先に森が途切れて広場のような場所があるようだ。
「重石、ねぇ」 息を吐きながらソンヴは言う。
「個人単位ではない。もっと巨大な、圧倒的な負の存在。皆はそれを感じ、背負っている」
「圧倒的な、負の存在……」
「そう。あれを見てください」
森を出た所で立ち止まり、ノジはその先を指差した。どのことかと悩む必要はなく、眼前に巨大な建造物があった。綜や瑗でも見た事がない、あきれるほどの規模だった。
見上げるような石積みの壁が周囲を覆っている。先ほどの集落ぐらいなら、すっぽりと中に入ってしまえるだろう。石壁の一部が崩れ落ち、中が窺える。そこには煉瓦でできた建物が整然と並んでいる。集落どころの話ではなく、街の人口すらも収容できそうな空間が広がっていた。
それだけならまだ珍しくない。際立っているのは、その周囲にめぐらされた深い堀だ。到底飛び越えられる幅ではなく、底の方は水でも溜まっているのか、はっきりと見えない。いっそ谷と表現しても良い程だが、自然にできたものではない。
固い地盤だけを残して、周囲が陥没したのでもない。それにしては、このように幅も深さも大体同じになるとは思えない。周囲は平らなもので、ここだけが急に凹んでいるのも不自然である。
堀は壁に沿うようにして、ぐるりと円を描いている。一箇所だけ外と島を繋ぐ道が残されている。よく観ると数箇所下へと続く階段がある。それも、壁面に無理やり刻み込んだというより、そこ以外を掘りぬき、階段を残したという按配である。
信じがたいが、これは人が掘り下げて作った亀裂なのだろう。
「これは煌の民が築いたものです。何年も、何十年も、何百年もかけて。建国からずっと、世代を超えて、築き上げてきたのです」
「自分達が使うわけではないものを、引き継いで作ってきたというの? ビドに命じて働らかせたということ?」
「そう。だが、関わってきたのはビドだけではない。どの階の者も、自ら力を添えてきた。引退したカントの者も、命尽きるまで参加していた。煌の民皆で作り上げてきたものです」
「これは一体何なの? 何のために、こんなものを……」
強固な造りから、まず砦か要塞を想起した。外敵襲来の際、引きこもり、防衛する為の拠点。深い溝は敵の接近を決して許さない。
「当然の質問ですね。実は、私もこれを見た時、まずそう思った。だが、そんなものがここに必要なのか? 煌にも戦はありますが、規模が違う。ここに国の何分の一かの人が篭り、同程度の戦士が攻めてくる。そこまでの規模の戦が、そう何度もあるとは思えない。その為だけに、時間と人材をかけて幾つも作るだろうか」
「他にも、あるの? これほどのものを、まだ他所でも?」
「ええ。国内に点在しています。綜との境近辺にも、似たようなものがある。規模はこれの何分の一かで、それほど大したものではないけれども」
「そんな所にも……」
「綜に近い立地だからといって、戦闘用の拠点ではありません。境で幾度か諍いが起きましたが、そのいずれの時も使用されることはなかった。今は使用する者がおらず、ただ廃墟になっている」
「では、この建物は一体何のために……」
「貴方の名前は、煌でも聞き及んでいます。コウ・ウの事を、研究されているとか」
「あら。こんな所まで、私の名前が?」
「我々の耳は、結構遠くの声まで拾えるのですよ。特に、コウ・ウに関することには、敏感に。誹謗中傷の類なら、排除しにかかる所ですが、貴方は、相当詳しく調べ上げ、彼の実像に迫りうる」
「そうかもね」
「貴方は聡明だ。おそらく、放って置いても真実に気付いてしまうでしょう」
つまり、時間の問題というなれば、先に教えてしまう。そして、有益な情報提供の代わりに、何かを求めてくるということか。やはりこの男は、いや、サン家、そして煌は侮れないとソンヴは思う。
それでも、聞かなかった振りはできなかった。真実? と聞き返すと、ノジは頷く。
「ダロル・シン。巷では、全土の覇者だと、伝えられているようですが―――」 とノジは言って、見当違いの愚かさを笑うように微笑む。「苛党と何かと勘違いしている。そんな野蛮なものであるはずがない。でも、貴方はきっと、別の解釈をお持ちではありませんか?」
「ということは、やはり……。その伝承が生まれたのは、コウ・ウに由来すると言う考えは、正しかったのね」
「その通りです。ダロル・シンは、本来別の意味で、コウ・ウが必要とした存在です」
「全土を統べる者。それは、間違っている。いいえ、正しく言うと、それは別の側面でしかない」
「そう、やはり、気付いているようですね」
ノジは満足そうに微笑んで、遠く〈終わりの山〉と称されるケス山系の最高峰へと目をやった。
「近年、貴方と同じように、伝承の本来の形を求めてきた者がいました。ワグン〈惑う群れ〉でありながら、伝承の真の姿、迫り来る脅威に気付いていました。東の方では、随一の策士として、高名な方だということですが」
「瑗の、カク・源ね」 と指摘したソンヴに、ノジは柔らかく微笑み返した。
「彼も気付いていた。だから、彼はあの時……。では、やはり……。信じたくは、ないのだけれども。アレの、目覚めが―――」
言いかけたソンヴの言葉を遮って、ノジは、口にしてはいけません、と言う。
昂で育った者ならば口にする事も憚られる名がある。アレとだけ称されるものは、かつて昂の地を襲った大いなる悲劇。人々が拠って立つものから否定し、如何なる手段を持ってしても抗い難い力で、人々を絶望の縁に追いやった悪夢。
時が流れるにつれ、その詳細は薄れていくが、それでも一部には決して忘れることのないようにと伝えられている。その名を口にすることすら畏れられるほど、恐怖はいまだ健在だ。
「比較的平らな台地を持つ綜では、それほどの恐怖をもたらさなかったのかもしれません。だから、重しとまでいかず、光を求めて、明るく生きようと振舞えた。瑗では、もう少し影響があった。絶望して気持ちが塞ぐ者も多くいたでしょう。けれども、南の土地で生き延びた人々と助け合う内に、前向きになれた。かの国が人々の和と縁を大事にするのは必然かもしれません」
「河津は……、あそこは、誰も知らないのね」
「そうですね。その後、流れてきて住み着いた者が多いのでしょう。だから、知らない。知らないから、わがままでいられる」
「わがまま、ねぇ……」
「その時が来ると分かっていたら、そんな事をしている暇はありません」
「それは、そうね」
そして、とノジは声を低くした。
「その時は、意外と近く、もしかしたら、明日なのかも知れません」
ノジの眸には、煌で見た大人達と同じように、暗い光しか感じられなかった。