夢のようで
第四章 【境域】
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懐かしい風景だ。どこで見たのだろうか。
やがて、自分が向かっている場所がどこなのか分かって来た。幼い頃、よく遊びに行っていた家だ。今はもう、そこには何もないのだが―――。
誰かと並んで歩いている。シアン、と己の口が動く。そうだ、シアントル・牧だ。その姿は幼く、当時のままだ。行き先を指差して、シアンは嬉しそうに微笑む。お前、トイトルを好きなんだろう、と冷やかすように言う。この時、彼は何と答えただろうか。必死になって誤魔化していた気がする。
家に着き、やけに重たい扉をあける。子供の腕力では苦労したものだが、それを乗り越えればと思うと、大事な儀式のような気もする。この扉が開けば、その先にはトイトル・韻がいる。そう。これは彼女のもとへ通っていた頃の記憶、サイトの過去だ。
あの頃、二人の生徒をトイトルは歓迎してくれた。もっともっと知識を、というおねだりを聞いてくれた。
最初に、トイトルの事を教えてくれたのはソンヴ・識だった。早くも秀才として周りの注目を集め始めていた彼女が、すごく頭のいい大人がいると言って紹介してくれたのだ。頬を紅く染め、純粋に尊敬できる人間と知り合いであることを誇りたかったのだろう。サイトもまた、すぐに彼女の凄さを認めるようになる。その深い知識と美しさ、そして生きる強さに惹かれた。
いつしか、彼女のところに通う際には、必ずシアンがいるようになった。ソンヴは、サイトが彼女のもとへ行くというと嫌がるようになった。その理由が自分にあるとは、サイトは想像もしていなかった。ただ、トイトルに会いたかった。
またトイトルに会える。扉を引き開け、サイトは手を伸ばす。家にいるなら、大抵はそれで訪問に気づいてくれるのだが、反応が無い。中が見えるが、異様に暗い。外は昼間で、家の中も薄暗い程度のはずなのに、今は何故か、深く濃密な闇しか見えない。
記憶と異なる景色に、サイトは戸惑う。トイトルの名を呼ぶが、中から返事は無い。もっと明るければ良いのに。そう思って、灯がほしいなと連想した。その途端に、闇の中から炎が立ち上がった。家の中にしては尋常ではない大きさ、人の大きさの火柱だった。しかも、その炎の形は人間のように見える。すぐに、トイトルを象っていると気づく。
いけない。トイトルの身に火の素真が降臨したんだ、とサイトは焦る。消さないと、トイトルが、トイトルが、とサイトは混乱する。
水。
水だ。火を消すには、大量の水がいる。しかし、周囲を見渡しても、水が見当たらない。火を使うには細心の注意がいる。側に水を用意していないなんて、ありえない。それなのに見当たらない。
水。水が、欲しい。
どうしたら良い? 困ったサイトは、隣にいるシアンに助けを求める。だが、シアンはぼうっと突っ立っている。トイトルが苦しんでいるというのに、ただそれを眺めている。むしろ、その炎に見惚れているかのようた。
消すんだ。トイトルを、助けるんだ。
サイトは焦り、そして嘆いた。
このままじゃあトイトルは助からない。焼け死ぬ。あぁ……。死なせてたまるか。なのに、水がない。何も出来ない。このまま、見送るしかないのか。あの時のように、トイトルが火に蹂躪されるのを見ているしかないのか。
あの時? あの時とは、何だ―――?
そうだ、とサイトは気付く。違う。トイトルは、確かに炎に巻かれて死んだ。だが、それはここじゃない。この時じゃない。
ということは、これは―――。
突然、衝撃を受け、思考が固まる。
はっとして目を見開く。顔が濡れていた。涙では無い。あれほど夢の中で待望した水を、己の顔にかけられたのだと、理解が追いつく。
夢から覚醒して、サイトはこの状況、ここはどこかと考え始めた。
朝靄がかかった、湿った空気。この時期の夜明け頃にしては太陽の位置が若干高いと思えた。周囲を見渡しても、土の色からして違う。乾いて尖った岩石混じりの土ではなく、じっとりと湿った黒に近い土壌。しっとりとした重みを含んでいるかのような空気も、祖国の匂いではない。けれども、自分が行ったことのない地域ではない、と思えた。
耳がおかしい。音が上手く拾えない。いや、ずっと何か聞き慣れない音がしている?
戦場。そう、自分は戦場にいたのだ。そして、バトウ。……撤退。女、そう、女がシアンの… …。
「起きたか」 と、女の声がする。この声、この声が自分を……。
「サイト・成」
逆さまになったまま、己を見下ろしている女に名を呼ばれた。
倒れ伏したシアンの側に立ち、サイトに奇襲をかけた女。かつて、オウ・青と瑗からの脱出を試みた時に遭遇した女。それは―――。
その名は、ヴ・兵。
美しき女統士が、そこにいた。
*
突然、サイトの前に現れた瑗の女統士、ヴ・兵。状況把握よりもまず、サイトは彼女の美しさに惹きつけられた。細身でしなやかな体、長く艶やかな黒髪。切れ長の目は西国の血を引いているのかもしれない。体温を感じさせない、凍りついた表情でサイトを見下ろしている。
ヴ・兵が動き、一歩下がった。そこでようやく呪縛が解け、サイトは起き上がろうとした。
けれども、上手く行かない。体が硬く固まってしまったかのように、動きが鈍く重い。背後から一撃されて昏倒したのだろうから、体の自由が利かないのは納得できるが、それにしてもだるい。何日も寝ていたかのような、体の動かし方を忘れたかのような感覚すらある。
「すぐに戻る」 とヴ・兵が淡白に言う。この体調の鈍さは、時間がたてば治ると言いたいらしい。
ここはどこだろう、とサイトは思った。ヴ・兵は、瑗真ショウ・源の護士だ。その彼女が単独で綜の内地深くにいるという事はないだろう。もしかすると、ここは瑗なのかもしれない。気を失っている間に、あるいは薬か何かで意識を閉ざされ続けて、その間に瑗まで運ばれたのかもしれない。
意志が通っていないかのように重く鈍い手足を、気力で動かす。そうして膝に手を付きながらも、サイトは立ち上がった。
「ここは、どこだ? ……何故俺を?」
値踏みするような視線でサイトを見ていたが、すぐにヴ・兵は頷いた。
「話はできるな。よし、行け」 そう言って、横にずれた。
「何だと? 話? 行けと言われても、どこに……」
ヴ・兵に抗議しかけた所で、サイトの目はある物を捉えた。あれは……。
「橋の中ほどで、待っていらっしゃる」
見覚えのある橋だった。朝靄の中、ずっと耳を刺激していた音が、水音だったと認識する。
「ここは、もしや……。クエラ・ゼイか?」
当たっていることが悔しいのだろうか、ヴ・兵は軽く顔を顰めて見せた。
クエラ・ゼイ橋。綜と瑗の国境にあって、かつてサイト達がセイオウを連れて逃げた時に通った場所である。
となると、あそこで待っているのは、まさか、あの時と同じ……?
そこでサイトは、自分の状態を確認した。剣はおろか、着ていたもの全てが取り上げられ、知らぬ間に瑗の平服に着替えさせられていた。
ヴ・兵を見ると、その眦に険が見え、苛立ちが伝わってくる。モタモタしていると斬り捨てられそうだ。
遠く橋に目をやると、一人の男がいるのが見えた。長い橋の上に、彼以外の人影は見当たらない。おそらくは、両端で通行を禁じているのだろう。それほどの事ができる人物は限られてくる。しかも、主の元を離れないというヴ・兵を伴っているとなると……。
覚悟を決めて、サイトは橋へと向かった。
サイトの予想は当たった。そこで待っていたのは、瑗の主。瑗真ショウ・源だった。




