悪意の凝り
6
炎を自由に放ってしまえば、自らもその被害にあうこともある。読み間違いから、アヌン守団も大きな被害を負っていた。
真穿の方は二百名が死傷し、百名が動かすことが出来ない状態にあった。そのほとんどが戦闘ではなく火災による被害である。
アヌンの方でも予想外の痛手だったようで、砦に引きこもり、追撃してくることはなかった。眼前までやってきて、そこに陣地を形成し始めても、動きはなかった。一度開戦すれば、武力の差で何とか数的不利をひっくり返せると思われたが、真穿も砦に攻め入るには体勢を立て直す必要があった。
連日、真穿は砦の眼前に陣を牽いて、アヌンを挑発した。だが、まるで中に誰もいないかのように、砦からは動きがなかった。やはり、篭城作戦に出たようだった。
短期攻略が難しいのは問題だった。こちらに増援は見込めないが、向こうは違う。事前に統士を補充していたように、また送られてくるかもしれない。テイスグ攻団が頑張っている間は、河津もその余力はないかもしれないが、いつまでの話か。
今思えば、草原での対峙は最大の好機だった。敵首魁であるテイ・漂が矢面に立っていたのだ。最初から彼を捉える事のみを狙い、一気に攻めていればその後の展開も違っただろう。手酷くやられた上に、最大の好機を逃がしていた。やはり、ソンヴがいてくれていたなら、とサイトは思わずにいられない。
*
アヌンが篭城を始めてから三日。
戦場から帰還したサイトは、荒々しく武具を脱ぎ捨てた。ここは喜ぶべき所かもしれないが、サイトはどうにも悔しくてならなかった。
「素真は、真とは……。ああ……、どうしてあれは――――」
誰もいない所ならば、絶叫したい気分にもなった。サイトは苦悩するが、これを伝えるのは自分の役目かと思い、サイトは縛陣へと向かった。
縛陣は、敵将などの捕虜を繋いでおく為に用意された簡易の檻である。今回はまだ囲われている者は少なく、その中にリェンの姿があった。好ましいとは到底言えない待遇にいただけあって、リェンはやつれていた。だが、それでもサイトに気付くと、リェンは笑顔を向けようとする。
「成様、こんな所に、一体―――」 と話し掛けたリェンは、サイトの顔が強張っているのを見て言葉を止めた。
「ホウヴ、ですか?」 と問うが、すでに答えを得ているかのような、諦めの表情になっていた。
サイトは暗い顔で口を開いた。
「―――同胞を焼き、己をも滅する。己を崇め、奉じる者を庇護せずに簡単に殺す。そんなものが、真であっていいはずがない。そうじゃないか?」
「……あぁ。なるほど……。分かりました」 と言って、リェンは暗い目をして頷いた。それから、堪えきれずにといった風に天を仰ぎ、「あぁ……っ」 と、深い嘆きの声を漏らした。
サイトは、それから静かに話し始めた。リェンの想い人であった女性の最期を。
*
真穿は、何度かアヌンの城門を突破しようと試みた。反撃は覚悟の上だが、さほど苛烈な応酬はなかった。門をこじ開けられないようにすることで精一杯なのか、わざと撤退時に隙を作って誘い出そうとしたが、それも釣果がなかった。
この日も、まずは門外で挑発して、敵を誘き出そうとした。これまでは言葉が通じないかのように、まるで反応がなかった。いつもどおり硬く閉ざされた門をどうにかしようとする中、珍しく変化があった。テイ・漂がホウヴを伴って、櫓に姿を現したのだ。
俄かに真穿に緊張が走る。だが、ホウヴは何もせず、群がってくる蟻を見下ろすかのように傍観していただけだ。この時はただ、状況分析がしたかっただけなのだろう。特に何かしようと狙っている気配は感じなかった。
さらに、もう一人、男が現れた。紅い外套が重そうに見えるほど、弱って見える。白髪で皺も深いが、綜人の顔つきであり、聞いていた容姿の特徴の名残がある。左右にテイ、ホウヴを控えさせたことからしても、彼がアヌンの領主、エンイ・彗だと思われた。
ドウト相応の年齢のはずだが、何か急速に老ける要因があったのかもしれない。顔に傷跡があり、丁度顔の真ん中辺りを、真っ直ぐ垂直に走っている。資料にないこの傷が心身ともに彼を苛み、老けさせたのだろうか。これは、一体何者に付けられた傷だろうか。
眼下を睥睨して、男は言葉を投げ掛けた。
「真穿とは、真の肝いりだと聞いていたが―――。できることと言えば、壁に張り付く程度か。多足と変わりがないな」
統士達が、むっと気色ばんだ。挑発するつもりが、逆に煽られている。その動きを押さえて、サイトは前に進み出て、声を張って呼び掛けた。
「エンイ・彗様と御見受けした。私は真穿を束ねるサイト・成と申します」
ほう、とエンイは驚きを示す。
「若いな。それであの功績を挙げてきたとは……」
いや、違うか、とエンイは言う。
「『考』分の異才がいると聞いた。昔ガーレで聞いた小娘のことだろうか。その者と話がしてみたい」
「ソンヴ・識の事ですか。今はいません」
「それで、か。道理で、だらしが無い。とても、噂の部隊とは思えなかった」
テイ達が忍び笑いを漏らす。サイトは、意に介さずに言う。
「貴方に聞きたい事がある。綜までご足労願いたい。これは、拒否する事は出来ない」
「強引だな。何の権限があって、河津のシンレイを預かる儂を連れ出す」
「とぼけるな!」 という怒号が周囲から上がる。熱くなっている部下達を制して、サイトは言う。
「綜真が、貴方の話を聞きたがっている」
実際はテイスグの命だが、このぐらいは言っても構わないだろうと思われた。一番真実を聞きたいのはオウ・青だろうから。
エンイは、鼻に皺を寄せて、くだらん、と言った。
「どうせ、クスル・青を殺したのが、儂であるとか言いたいのだろう?」
「否定されますか?」
「勿論だ」
「では、どうして綜を出られた? しかも、あの時期に」
「あの愚者によって、儂は一時力を削がれた。だから、別の所で、やり直す事にした。それだけだ」
「あの愚者……。前の綜真によって見捨てられたというなら、その恨みを晴らそうとは思わなかったのですか」
エンイは、そこで唇を歪ませた。声も無く笑ったらしい。
「思った」
「では、それで綜真を―――」
「思っただけだ。だから、教えたのだ」
「教えた? 何を?」
「儂は、大事にしていた剣を盗まれた。しかも、その盗人に脅されたので、綜で一番高価な物がある場所を教えた」
明らかな嘘だった。証拠が無い事を良いことに、適当な話をでっち上げている。こちらにそれを咎める手段が無い事を知りつつ、愉しんでいるのだろう。
サイトは、攻め口を変えることにした。
「その傷は、如何された? 古い傷のようですが、相当手酷くやられましたね?」
「あぁ、どうという事は無いがな」
「どうです、痛みませんか?」
「痛む? どうということはないと、今―――」
「我らを見て、クスル・青様を思い出されて、傷みも蘇ったのでは?」
一拍間があって、エンイは低い声を出して笑い出した。
「あの腕なしに斬られたと思ったか。ハッハッ、これは愉快。後世では、達人ということになっておるか? あの細腕が」
「クスル様は、武の才を持ち合わせていなかったと?」
「その才は皆無だった。笑えるほどにな」
では一体、誰があの傷をつけたのだろうか。完治しているようだが、これが原因で綜を逃れ、傷を癒すことに専念していたのではないだろうか。それとも、この見立ては的外れなのだろうか。
「これはな……。殺されかけたのじゃ。どこぞの、若僧に逆恨みされての。それで、儂はしばらく静養しておった。おかげでその後、牙家に迎え入れられたのだ」
「その若者とは、一体?」
エンイは、そこで目を細めた。相当嫌な思い出のようだ。
「狂っておったのだろうよ。街を焼かれただの、なんだの、難癖を付けてきおった」
「街? ガーレのことですか」
「知らん。そもそも、儂は街など焼いておらん」
「しかし、ガーレは―――」
唾を飛ばして、エンイは叫ぶ。
「知らんと言っておる! 儂は濡れ衣を着せられただけだ!」
「濡れ衣?」
「あやつだ! あの愚者は、儂を見捨てたばかりか、街を焼いたのを、教団の独断にしたのだ! さらに、愚行を犯した教団を弾圧し、その功績でのし上がりおったのだ!」
「馬鹿な……、そんな話、信じられるわけがない」
「馬鹿だと? 馬鹿とはあやつだ! あんな狂犬を護士にしているとは、全く見る目が無い! おかげ儂は―――」
「エンイ様!」 と声が上がった。ホウヴが首を振っていた。エンイは、そこではっと口を押さえた。
「今、なんと……?」
サイトが聞き返すが、顔を背けてしまう。
それどころか、そそくさと逃げ帰ろうとする。テイとホウヴが前に出てきて、彼を隠してしまう。
衝撃にサイトが動けずにいると、部下達が勝手に動いた。
憎き敵が目の前に現れたのである。この時を逃がすか、と思うのは仕方が無いだろう。腕に自信がある者達が矢を放ったが、櫓までは至らず、いずれもテイ達には届かなかった。
ただし、ホウヴは動じなかったが、一緒にいたテイは、この行為にひどく憤慨した。言葉は聞こえないが、何やら周囲の者に指示をした。
しばらくして、松明と巨大な壺が運ばれてきた。そこから濁った液体を柄杓で酌んで、テイは門の下へと向かってぶちまけた。そこには槌を持って門を破ろうと試みていた統士達がいる。液体をまともに被った数人が、怪訝そうに己の体を匂う仕草をしていたので、ただの水ではない。
テイはギリギリまで身を乗り出して、火の付いた松明を下の者に見せつけた。どうしてテイがそんなに嬉しそうにしているかは分からない。汚れてべとつく水をかけて嫌がらせをして喜んでいるのか。
「馬鹿! 逃げろ! それは炎を増長させるんだ!」 と叫んだ者がいた。まだ少年といっても言い面差しをしており、顔に火傷の跡があった。統士のようだが、サイトは彼の名を知らなかった。
それらの組み合わせがいかに危険か、正確に知っていたのはこの青年くらいだったのだろう。濁った水をかけられた者達も、何かを落としてくるならそれをただ避ければいいと見ていた。足元一面にもまた、その黒っぽい液体が染みていると、意識していなかった。
テイ・漂は、満面の笑みを浮かべつつ松明から手を放した。松明が地面に達する直前、ふぅと息を吹きかける仕草をした。
驚きだった。炎があっという間に広がり、一気に燃え上がった。木材も何も燃やす対象が見当たらないにも拘らず、炎はそれからしばらくそこにあり続けた。ジバが本当に顕現し、信心の無い者をその身に抱え込んでいるかのように思えた。
「ヒャ、ヒャア、ヒャア―――!」
狂ったように笑うテイは、とても同じ人とは思えなかった。何かもっと別の、禍々しいもの、人を惑わし狂わすという禍形のようだった。まだ松明を手に持った護士も、唖然としてテイを見つめていた。
「この禍形め!」 と、勇気ある統士が炎の塊に向かって弓を放った。禍形は素の組成が狂ってできると言われ、大半は実体がない。矢は炎を通過し、あっけなく落下する。その様子を見て、またもテイの笑い声が上がる。
テイに向けても矢が放たれた。先ほど当らないと実証されているが、それでも打たずにはいられなかったのだろう。
先ほどよりも飛距離が延びたのは、風の向きなどの偶然なのか。あるいは、ジバの暴挙を見かね、気の素達が力を貸してくれたのかもしれない。そう思えるほど見事な軌道を描いて、一本の矢が、油断しきっていたテイの直前まで至った。これは当たる、とサイトは思った。
テイは、もたもたと逃げようとするが、動きは鈍く、避けられそうにない。その時、隣にいたホウヴが体当たりをして、テイを突き飛ばした。母親が子の代わりに身を挺すような、愛情が取らせた突発的な行動に思えた。
狭い櫓の上で、大柄な二人が周囲を省みずに急に動いたので、辺りのものに影響が出た。壷が倒れ、中身が零れた。勢いで転がり続けていたホウヴは、その水にまみれた。
ホウヴを助けようとした護士がいて、その体重を受け止めるには両手がいると判断したようだ。それで、手を空にしようと、反射的に松明から手を離した。松明は、液体で濡れた床に転がった。
門前で起きたことが、櫓でも再現された。忽然と現れた炎の塊は、ホウヴをその巨大な腹の中に飲み込んだ。サイトの位置からでも、彼女が挙げた断末魔の叫びが聞こえた。それは、長く、実に辛そうな声だった――――。
*
リェンは、感情を窺わせない淡々とした声で言った。
「その濁り水は、とても火と相性が良いんです。すぐに燃え上がり、持続力もある。はるか西方の国では、人を焼く兵器として使う蛮族もいると、聞いたことがあります」
「それを知っている者がいた。そいつは、それを悪意の産物、『黒凝り』と呼んでいた」
悪意と聞いて、リェンは鼻で笑った。
「確かに。あれは人へ使用しようという狂った発想が凝って、あんなどす黒い色になっているのかもしれませんね」
「なぁ、リェン。これは珍しいことじゃないんだろう。なら何故、バトウはそれでも、火を崇めるんだ? 信じられるんだ?」
リェンは答えず、無表情に一点を見つめた。それから、ぽそりと、声がした。
「サイトさん」
その暗く虚ろな声が、リェンのものだとサイトは一瞬分からなかった。
「これは、まずい状況ですよね」
「ああ。これでは迂闊に近づけない」
「一つ、名案があります」
リェンは顔をあげ、不気味なくらいの、晴れ晴れとした笑顔を浮かべた。
「火ですよぉ」 と、リェンは言った。
サイトは、絶句した。
「燃やすのです。奴らを。良いのです。同じ仕打ちでしょう?」
「リェン! 止めろ!」
「何故です? 使えば良い。もうすでに散々使われている。戒めは、とうに破られている。犠牲も沢山。アレの目覚めも、そう遠くはないかもしれない。ならば急がねば。あぁ、そんなに難しいことじゃない。やつらの側で火を焚いてやれば良い。それで充分。炙り出せば、わらわらと出てくるでしょう?」
「リェン・太!」 と、サイトは正気づけようと、名を呼んだ。「頼むから。止めてくれ……」
「サイトさん……?」
「火を使うなんて、言わないでくれ。狂気に飲み込まれないでくれ」
リェンは、不思議そうな目をしてサイトを見つめた。
「私じゃありませんよ」 と、リェンは何を言うのだと言わんばかりの顔をした。
「何?」
「使うのは、貴方です。サイト・成」
リェンは言って、頬を歪ませて笑った。