胸に秘めたもの
2
サイトは、闇の中に潜んでいた。不用意に動いて周囲の葉を揺らしたくなかったため、最低限の身動きしか取れず、体が冷えて強張ってきている。
視線の先には、広い庭がある。数箇所でかがり火が焚かれており、さらには時折、武装した男達が巡回している。
警備は厳重で、考えなしに侵入しようとすれば見つかってしまう。ただ、入念な情報収集と事前の仕込で、突破口は用意してある。
だが、あれが……。
「―――気になるのか?」 と、間近で囁かれた。
サイトは思わず、すぐ隣で潜んでいるハルロの方を向いてしまった。兄のように慕うハルロの顔も、普段より強張ってみえた。若手を導く立場にあるが、実際はまだ二十歳にもなっておらず、それほどサイトと経験の差がある訳ではない。
見透かされたな、とサイトは思った。また、知らず知らずの内に、じっとあれを睨みつけていたらしい。
いくら消火用の水桶が側に置いてあるとはいえ、あれを誰も見ていない。あれの扱い方が雑であるように思えてしまうのだ。
「……いえ、大丈夫です」と、サイトは、己にも言い聞かせるように答えた。
ハルロは間をおいて、「……サイト。俺はな」 と静かな声で話し出した。その改まった態度から、ここに来て帰れと言われるのではと、サイトは身構えた。
「少し前に、クブ・トーの祗官から、あるお告げをもらった」
「お告げ……?」
ハルロは口を開きつつも、狼のような鋭い眼で周囲を警戒していた。
命のやり取りを経る内に、ハルロは硬い表情の方が馴染んで見えるようになっていた。ただその干渉を嫌うかのような冷たい顔をするのは、本心の裏返しなのだとサイトは知っている。無感情に見えるのは、任務を完遂できるように己を強く律し、失敗を犯して仲間を失う事態を避けたいがゆえのはず。全員無事で帰還した時、ほっとして緩んだ顔を見ればよく分かる。
「――お前は近々、シントとなる者の為に命を落とすだろう。そう言われた」
「シントのために、ですか……」 サイトは、合点が行かず、ただ言葉を繰り返した。
シントとは、最上級階の人々のことである。
サイトの祖国綜統国は、全ての民は六つの階に分かれている。成人すれば皆ユトという下から二番目の階に属し、どの階の者であるかを示す小さな玉が配られる。年齢を重ねる毎に階は上がっていくが、その昇進の速度は、所属する分野や、個人の功績の出来不出来に左右される。
最上級階シントだけは特別で、なれるものが限られている。最も権力を持つ国の指導者は真と呼ばれるが、真となった者の親族は、自動的にそのシントとなるのである。
たとえば、ここ瑗環国の地では、源という家柄がシント、その中で最も力を持つ血筋の若者ショウが、瑗真(エン国の主)となっている。
「詳しい事は教えてもらえなかったが、今の俺ら程度が、シントに接するなんて、まず考えられないよな」
最下層の階であるビドは奴隷階層である為、まだ成人して程ないハルロが属するユトは、実質的に一番力を持たない階だ。国を動かす地位にあるシントとは、通常ならば関わり合いがあるはずがなかった。
「それが、今、何の関係が……?」 と、急くようにしてサイトは言った。
「まだ公表はされていないが、クスル・青が次の綜真となる」
無意識に、体が強張った。「つまり……」と、乾く舌を何とか動かし、サイトは続きを促した。
今回の任務は、そのクスルの息子を密かに綜へ連れ戻す事だった。事情は知らないが、権力を得た者が、不遇の身である息子を手元に取り戻そうということは、不自然なことではない。そう思っていたが、まさか、クスルが真になるとは。
父親が真となれば、その子もシントとなる。サイト達は、シントとなるべき者と出会うことになる。けれどもハルロは、シントの為に命を落とすと告げられている……。
「――この任務は上手く行かず、貴方が犠牲になる、と?」
「この話を聞いた時、すぐに腑に落ちたよ。ああ、彼が言っていたのは、このことかと」 と、ハルロは穏やかな声で言う。
「そんな……。しかし、お告げが必ずしも……」
「いいんだ」 と、ハルロはやんわりとサイトの反論を遮った。「いいんだよ、そのことは。俺は死ぬ。こんな非道ばかり行なってきたんだ、死に方に文句は付けられないさ。それに、単なる無駄死にではなく、何かを生かす代償だと言われれば、まだ良い方かと思える」
「代償……?」
「……俺に言葉を告げる際に、その祗官は指で円を描いたんだ」
「大いなる輪への敬意を示す動作ですね。―――個は滅ぶとも、先達の上に積み重なり、後続の礎となる―――」
「そう。それを、俺の胸に向けていたんだ。涙を流しながらな」
「大いなる輪を、貴方に向けて……? けど、それは通常個人に向けるものではないでしょう?」
あらゆる植物を束ねるとされる素真クブ・トー。その素真(神に相当する存在)を敬う輪教の教義で、大いなる輪への敬意は本来、個を繋ぎ、重ね、命を引き継いでいく事、その大いなる流れを讃えるものである。
気の遠くなる年月をかけて形成された広大な森や、世代を繋いでなされた功績に出会った時に、敬意を示す行為である。
「何故、その大いなる輪を俺に向けて描いた? まるで俺が、人知を超える偉業を成し遂げる人物であるような気がするよな?」
サイトは答えられなかった。
「そんなはずはない。しかし、輪は俺に向けられていたんだ。だとすれば、その対象は、俺が関わる事になる相手、そのシント、ということになる。まあ、それだけの人物を生き長らえさせる為の代償となるならば、少しは気も治まる」
そうか、とサイトは気付いた。自分のことで頭が一杯でよく想像できなかったが、彼は今、死と向き合っているのだ。
お告げの解釈が合っていれば、これから死ぬということだ。それは、死ぬかもしれないという予想とは、格段に重みが違う。怖くないはずがない。
死は恐ろしいが、サイトの手前、平静に努めなければならない。彼はすでに、必死に闘っていたのだ。
恐怖と、責任感とが、彼の中でせめぎ合っていた。なのに、その苦悩はほとんど表に出てこない。なんという精神力か。
サイトは、小さく息を吸って、言った。
「ハルロさん、俺も、話しておきたいことがあるんです」
「何だ、長話はできんぞ」 とハルロは言って、顔を顰めた。「手短にな」
「俺、実は……」
サイトは、口にする事をなおも躊躇った。ハルロの強さに背中を押されるようにして口を開いたものの、まだ踏み切れなかった。
自分もまた同じようなお告げをもらっていた、という事を打ち明けるのには、まだ勇気を要した。
その事を思い出すと同時に、父親の顔が思い浮かんだ。あの時の言葉、あの時の感情……。
結局サイトは、軽く頭を振って、別の事を口にした。
「親友から言われたんです。仲間を守れるような男になれと」
彼からもらった言葉。彼女を背にして誓った自分の言葉。思い浮かんできたそれらの言葉が、サイトの胸を熱くした。内から溢れ出てくる思いに任せて、サイトは言った。
「ハルロさんも、こんな所で死んだりはしません。―――俺が、守って見せる」
ハルロは、眼を見開いてサイトを見た。
「……お前に、そんな力があるのか?」
ハルロは無言で、目の奥をじっと睨んでくる。怯まずに、サイトは言った。
「覚悟なら、ここにある」 サイトは、己の胸に手を当てて言った。「この熱が、その証拠だ」
まあ、いいだろうとハルロは言った。「そこにあるのが、本物の覚悟かどうか。見せてもらおうか」
それから、ハルロは少しだけ頬を緩めた。