その名を
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トオワたちは逃げ延びた後、体勢を整えようとした。
通常の敗走ならば、もっと散り散りになり、すぐに再編成できない。ただ、このままシントを見捨てる訳にはいかず、舐められたままではいられない、と猛る者も多かった。
それでそれなりの数が戻ったとはいえ、即座に反撃に出られるほどのものではない。今は遠巻きに見ているしかなかった。
取り囲まれたシント達は、五百と言った所だった。その周りを我津攻団が包囲している。
罠を仕掛ける際に無理をしているので、我津側も多少は減ってはいたが、それでも、数の劣勢は揺るがない。死に物狂いで切り込んで行っても、救出はおろか、内側までたどり着けるかどうか。
「これは難儀ですねぇ」 と、いつの間にか側に来ていたサーカが言う。敗走の悲壮感はなく、相変わらず涼しい顔をしている。
トオワは一瞥して、無言で頷いた。
「向こうも、さすがにシントがこんな間抜けな行動に出るとは思っていなかったでしょう。それでも、戦場に居残っているのを見つけて、即座に狙いを定め、見事に囲ってみせた。順応力、指揮力、中々のものです」
かき集めた情報によると、敵幹隊を指揮しているのは、グラク・窯という男だった。厳めしい外見ではなく、腕力もありそうには見えない。粗末な武装からすると、『考』分であるが従軍を請われ、指揮を任されている者かもしれない。
なんにせよ、見かけ通りと侮ることはできない。サーカのいう通り、彼の眼の付け所は確かであり、隙と見ればすかさず動く果断さもある。しかも、手の内に囲い込んだあと、シント達が無闇に暴れないよう距離を取る慎重さも持ち合わせている。
「中途半端な横槍では、びくともしないでしょうね」
「だろうな」と、トオワも頷いた。救援は要請してあるが、果たしてそれまで待っていてくれるものか。
「せめてこちらにも、それなりの方がいれば、良いんですが」
「お前がやれば良いんじゃないか」 半ば投げやりに、半ば本気でトオワは言う。
「嫌ですよ」 と、サーカはにべもなく答えた。
「それなりなのは、否定しないんだな」 と、トオワは苦笑した。
シントを放置する訳にはいかない幹隊長は、そのまま一緒に囲まれてしまった。トオワ達の上官であるバイローは、大勢が決した時、早々に逃げに転じている。現在無事が確認できている大隊長は彼だけだが、それでは他の大隊までは仕切れない。
そこで、残存の部隊の指揮を採ることになったのは、一足先に包囲網を逃れたオストの側近達だった。
オストに張り付いて戦場にまで付いて来てはいたが、武器を取ってまで参加する気はなかったようだ。そのおかげで包囲されずに済んだのか、あるいは、危機を悟り、いち早くその場から逃れていたのか。
どちらにせよ、その程度の機転しか利かない彼らに、この状況を打開できるとは期待できない。
こちらが手を打ちかね、もたもたしている間に、グラクが包囲の内側へと呼びかけはじめた。
「シント、オスト・青。こちらに来ていただこう」
幹隊長を始めとして、数少ないオストの護衛達は、守りを固く保ったまま、無視を決め込んでいる。
「今すぐ殲滅しても良いのですよ。誰であろうと、例外なく、全員を」
少し威圧するように言って、グラクは声音を変えた。
「それは、色々と困るでしょう? 貴方が平和的に動けば、部下達も大人しくしていられる。そうすれば、誰も殺す必要が無くなる。どうです、どうするのが良いか、考えるまでもないことでしょう」
これはまずい、とトオワは思った。折れる理由を与えられては、すぐに食いついてもおかしくない。そしてシントが投降して完全に向こうの手の内に入れば、奪還が極めて難しくなる。
さすがにそれは分かるのか、「サイカク殿… …」 と、バイローが恐る恐る声をかけた。
オストに付いて来ていた者達は、考分の政司が多い。その中で今、一番発言力があるのは、サイカク・蔦という男だった。
「包囲網にも動きがあります。強引な身柄の確保にでるまで、もう時間がないでしょう」
オストにおもねる者なら、すぐに何らかの手を打うはずだ。トオワはそう思った。
ところが、サイカクの返答は、「動くな」 だった。
「下手に救い出そうとして、敵の大勢いる所に御連れすれば、運悪く巻き込まれてしまう可能性もある」
「しかし……」
バイローの反論は弱い。年下の相手に、しかも同じ分の上官でもないのに、この腰の低さは異常だ。これを機にサイカクに、そしてオストに取り入られたいという気持ちがバイローにはあるのかもしれない。あるいは、トオワが知らないだけで、蔦家というのは位の高い佳属なのか。
「そういえば……」 と、サーカが囁いてくる。「あの方には、こういう噂があります。巧みに機を見て、支えるべき者を見定める身軽さがあり、その才ゆえにのし上がれた、と」
いまでも、サイカクは包囲網を見てすらいなかった。すでに彼の心は、余所にあるのかもしれない。新たに支えるべき者を想定して、どう取り入るかを思案しているというのか。
見るに見かねて、トオワは口を出そうかと思った。自分の出自を明かせば少しは耳を貸してくれるはずだ。
なおも食い下がるバイローに、サイカクは唾を飛ばして叱責する。
「下手に動いて騒動に巻き込み、シントの身に何かあったらどうする! それしきのことも分からない阿呆なのか?」
「―――阿呆は、お前だよ」
突如投げかけられた言葉に、場の空気が固まった。
振り返ると、その声の主がこちらに歩み寄って来ていた。数人の部下を従えて先頭に立つ青年が、皮肉な笑みを浮かべながら言った。
「ただ指を咥えて見ているだけだと? それが阿呆のすることでなくて、何者のすることだ?」
オストの側近に向かって、物怖じせずに言いたい事を言う。小気味良さを感じるこの男が誰なのか、トオワは知っていた。
綜真オウ・青を異国から奪還し、若くして真の肝いりの一大隊を任された有名人。
―――その名を、サイト・成という。